私とドラえもん

ドラえもんは茶の間のヒーローである。テレビを見て育った私はドラえもんにふれて育った。アニメーションだ。家庭で、いこいの時間に親しんだ。リラックスして鑑賞した記憶が体に刷り込まれている。滋養であり、栄養である。ドラえもんを観た時間、記憶、体験をそう思えるのは、作品がそういうものだったからだ。万人に喜ばれるものづくりである。稀有なことだ。

星野源『ドラえもん』を聴く

リスニングメモ

テシテシと響くスネアドラムスのオルタネイトストロークがこだまする。儚い線のバックグラウンドボーカルがサビでやさしく左右に音場をひろげる。サビ前のストリングスのなんとこまやかなことか。16分音符で気分を高める。ベースラインのブイブイと気持ちのよいこと。エレクトリック・ピアノがかわいく・まるくリズムを引き締め視線を誘導する。歪んだエレクトリック・ギターが基礎を埋める。チョーク・アップもスパイシーに効いている。2コーラス目、歌のうしろでわななく細く薄っぺらいトーンのエレキギターがなんともチープでインスタントな味わいでオブリガードを添える。星野源のボーカルは絹である。ほどよくスタジオ・トーンの残響感がボーカルの像に奥行きを出す。気持ち良い。ひとり目を閉じて聞いた。心の中で拍手。イントロとシンメトリーのエンディングが決まっている。

星野源『ドラえもん』作曲の妙

間奏部に私の知るあのドラえもんの歌のメロディ・モチーフ。♪アッタマテッカッテーカ、サーエテピッカッピーカ……。源さん(あえて愛称で失礼)の目はこちらを向いている。旧知のドラえもんユーザーへの愛だ。現在進行で表層を愛好している人にはドラえもんが愛されてきた時層の厚みをほのめかす。

ボーカルの音域は平易。源さん(あえて愛称で失礼)の近年連発しているスタイリッシュで最高完成度のポップソングには高度なボーカルコントロールを感じる。広い音域、あるいは高い音域が要される、真似されることを遠ざける、憧れの的として格好の印象を私は覚えていた。対して『ドラえもん』はユーザーに一緒に歌ってもらうこと、可唱性(そんなことばあるのか知らないが)が意識されている。強い言葉をあえて書こう、間違いない。源さん(あえて愛称で失礼)は必ずや『ドラえもん』を書き下ろすにあたりユーザーに愛好され、歌われることを意識したはずだ。

Aメロからなめらかに下行していくベースはヒットソングに頻出のパターンだけれどワンコードの宛て方、長さに緩急があって巧妙。メロディの滑らかさは可唱性を感じる。

特筆はイントロ。一聴で心をつかむベースを中心にしたメロディとリズム。エレキギターのチョーキングがお祭りのハナである。テ、テレッテ、(ウン)チョン、チョン。なんだコレ。最高か。日本人であることを誇りたくなる土着性を感じるリズムとスケール。ペンタトニックだ。ヨナ抜き音階。

イントロでツカまれる心なのだけれど、聴き進めていくにやはり源さん(あえて愛称で失礼)の作風、あらゆる音楽をチャンポンにしてドリップした洗練がある。先ほどもふれた、ワンコードの宛て方の緩急。転回形をまじえて滑らかに紡ぐベースライン。セカンダリー・ドミナント、それにつなぐための副次調サブドミナント。チャンポンにしてドリップしたというか、音楽理論の礎の磐石さを感じる。強烈な独創性なのに、ロジックのツボを押さえている。源さん(あえて愛称で失礼)はポップ・モンスターである。世界の音楽を総ざらいしたうえで、『ドラえもん』の主題にまなざしを向け、必要十分以上の心血をひとつひとつその適切さを確かめながら注いでいった丁寧さ、遊び心と誠心誠意が結実している。

ドラえもんをつくったのは誰なのか

“君をつくるよ どどどどどどどどど ドラえもん”(星野源『ドラえもん』より、作詞・作曲:星野源)

歌詞サイト 歌ネット>星野源『ドラえもん』

私の『ドラえもん』への愛の浅薄さを告白しよう。原作を未読なのだ。藤子・F・不二雄による漫画である。もちろんピースでなら読んでいる。ドラえもんはその広く愛されてきた器の大きさ、主題やモチーフの幅広さ・普遍性から、学習漫画などにも取り入れられてきたし、さまざまなテーマでリカットされてきた。長編連載作品としての『ドラえもん』を最初から最後まで読まんとしなくても、触れる機会が豊富にある。作品『ドラえもん』の巨大な存在を思う。

私は『ドラえもん』のオチを知らない。ラスト、エンディング、結末を知らないのだ。その知識レベルでいま星野源『ドラえもん』を鑑賞した。……ん? “君をつくるよ” ?

ドラえもんは“みらいのせかいのネコがたロボット”(大山のぶ代『ぼくドラえもん』より、作詞:藤子不二雄、作曲:菊池俊輔、歌詞サイト 歌ネット>『ぼくドラえもん』だ。ロボット、人工物である。つまり、猫型ロボットたるドラえもんを設計したり製作したりした人物がいる。……“君をつくるよ”は設計者・製作者人称で発せられた言葉に思える。誰が作ったのか?

真っ先に思い浮かぶのはのび太くんである。作品『ドラえもん』の主人公だと私は思っている。もちろんドラえもんも主人公だろうが。でものび太くんでは時代があわない。ドラえもんは未来からやってきた猫型ロボットなのだから。では、のび太くんの子孫なのではないか。そう思い至る。

しばしば出会うタイムスリップ(タイムリープ、時空超越)を含むフィクションにおいて、未来が「そうなる」ように現在の主人公たちが「そのように図る」という結末があると思う。ドラえもんが未来からやってきたというのならば、自分たちはドラえもんが未来の世界で誕生し、過去(主人公たちにとっての現在)にやってくるように仕向けなければならない。そうしないと、今この瞬間の事実が嘘になってしまうからだ。

この論理にはオカシイところ……というか、アラが多分ある。ここでその議論をするのはよそう。星野源『ドラえもん』がエンディング付近で語る必殺の一文、“君をつくるよ”は、作品『ドラえもん』の結末を私に想像させる。ホロリと胸に来て涙が出そうになった。もちろん私は原作未読だし、星野源が『ドラえもん』を主題歌として書き下ろした『映画 ドラえもん のび太の宝島』も未鑑賞だからあくまで想像。でも、ドラえもんに設計者やら製作者がいるであろう事実に変わりはない。誰かがつくったからドラえもんが存在する。その人物が誰であろうが良いのである。星野源『ドラえもん』は、その誰かに思いを及ばせてくれる。時空の広さだ。現在の主人公たちの時空、フィクションの外でアニメ『ドラえもん』や星野源の楽曲『ドラえもん』を楽しむ私の時空をつないでくれる。

続・私とドラえもん

こうして、浅薄な私の『ドラえもん』への関心の扉を開いてくれる星野源『ドラえもん』。『ドラえもん』道の半ばの私にタグ、目印、道標を与えてくれる。このブログ記事はここですっぱり句点を打っておこう。まだ続く道を行くために。

星野源『ドラえもん (Official Video)』on YouTubeを観る

土管のある空き地。お風呂場は覗いちゃうスケベタイム。畳とふすまのあるあの部屋。作品『ドラえもん』を紡いだあの場所この場所。星野源のコス(身なり)はどこかのび太くんの未来を想像させる。きれいなシャツ・パンツ・メガネだ。ダンサーの女性はしずかちゃんを思わせる。

星野源『ドラえもん』発表の概要、作詞・作曲など

作詞・作曲:星野源。星野源のシングル(2018)。『映画 ドラえもん のび太の宝島』(2018)主題歌、テレビアニメ『ドラえもん』オープニング曲(2019〜)。

青沼詩郎

星野源 公式サイトへのリンク

ドラえもん公式サイト ドラえもんチャンネル

星野源のシングル『ドラえもん』(2018)。初回限定盤にはYouTube映像中に告知が挿入されていたDVD『ViVi Video』がつく。

星野源『ドラえもん』を含む、ソロデビュー10周年記念ボックスセット『Gen Hoshino Singles Box “GRATITUDE”』(2020)

藤子・F・不二雄の漫画『ドラえもん』(1974年、小学館)

『映画ドラえもん のび太の宝島』(2018)

ご笑覧ください 拙演