大衆の関心事と人混み

みんなが関心があることに関心が持てません。

「みんな」だなんて、誰のことを言っているのでしょう。私の雑な十把一絡げを思います。

人混みが嫌いです。嫌いは言い過ぎかもしれませんが、出来れば避けたいし、あまり行きたくないです。用があるときに、目的地に至るための経済的で便利な経路に「人混み」が含まれている場合は、やむなく通過します。

先に述べた「みんなの関心事を避ける性分」と、人混みが嫌いなことは、関係がありそうです。

時間は事実を淘汰する

嘘に振り回されるのが嫌なのかもしれません。

時間が経つと、嘘は淘汰されます。

嘘か真実かを見極めるコストを差し出すのが嫌なのか……

「時間が嘘を淘汰する」は大間違いかもしれません。

逆に真実を淘汰するかもしれません。真実……いえ、「事実」でしょうか。事実が淘汰され、虚偽が真実として残ることがありそうです。歴史に疎いので、具体例は示せないのが私の弱みです。歴史に明るかったところで、その嘘を見破れなければただの「虚偽信者」でしょうけれど。時間は事実を淘汰する、か。

私にはずるいところがあります。

嘘か本当か。これは「いいもの」か「だめなもの」か。それを見極める労を厭う癖があるのです。

その労を、誰かに押し付けるために、私は、人混みを避け、みんなが関心があることに関心を寄せない……のかもしれません。

「なにもしない」の価値

「残る歌」が好きです。懐メロばかり好んでいます。「懐メロ」と十把一絡げにするのはどうかとも思っています。便宜上「懐メロ」という単語をつかいました。便宜で、つい「本当はいいと思っていない言葉」をときに交えてしまう。それが私です。

流行歌を、こわいと思うことがあります。

「これは、いいものなんだろうか?」自分で真贋を見極めることを、その労を厭うているのです。

労を執り、価値を下す結論を出したところで、それを否定されるのがこわいのです。

自分で味わって、おいしいと思えばそれが真実だ、とも思っています。いつも、私は真贋を見極めることから逃げているわけではありません。私の中には、逃げの私と攻めの私がいるのです。

「守りの私」もきっといます。逃げるでもなく、攻めるでもなく、ただドンとそこに座して(立して、でもいいですが)、「なにもしない」。これはこれで、勇気のいる選択です。

「なにもしないこと」は、ときに責めの対象になります。「なぜ攻めないのだ」と批判されることもあれば、「なぜ逃げないのか」と嗜められることもあります。「なにもしない」の価値は、たぶん見えにくいのです。

勇気と勝算 いつが試合の始まりなのか

「勇気」を私は疑っています。勇気の有無になんて関わらず、やったりやらなかったりすればいいのに。

便利だから、「勇気」という言葉をつい使ってしまうことがあります。

「これは勝てる」という、具体的な根拠があることを心に確かめて、一歩踏み出すこと。それは、勇気でしょうか。勇気を出すより、勝算を持つのが良さそうです。

勝算を持つには、事前の情報収集や鍛錬など準備が要るのではないでしょうか。それを準備と思わずとも、日頃からおこなっていることの蓄積がそのまま勝算を導くこともあるでしょう。そっちのほうが理想かとも思います。「労」の感覚なしに勝てるわけですから。「勝負」の始まりは、いったいいつなのか?

勝つか負けるかの予測すらつかない状態で一歩踏み出す勇気は、無謀かもしれません。ギャンブラーです。運に身を任せるのが吉と出ることもあるので、その選択は咎めません。ですがヒヤヒヤします。私は誰にヒヤヒヤしているのか? 想像上の主人公にヒヤついているのです。

価値の方向づけ

多くの人が関心を寄せることに興味を持たないことは、「逃げ」(あるいは「守り」)かもしれないという思考に光をあてました。

その思考の持ち主が私であることを、褒めも貶しもしません。ひとまず、ここで認めることができました。

真贋や価値の有無の見極めを時間に委ねることの吉凶は、私が自ら背負って立つ運命かもしれません。

時間が経ってみれば「あれはなんだったんだろうね。今おもえば、あんなことの真贋や価値の有無に右往左往してたなんて、ばかみたいだ。」と思えることって、多かれ少なかれあるのではないでしょうか。

生まれ起こった新しいものごとに方向づけをなすことよりも、かつて起こった何かしらのものごとに付された価値の方向づけに対して、その背中を押してやることを好む私がいます。価値の方向づけの手が止まっているものほど、なおさら私の興味関心を高めます。そこにも、やっぱり「ほかの人がいないほうが好き」なのです、きっと(好きなこと以外については、なるべく「守りの姿勢:何もしない」を貫きます)。

だから、私の話に振り向くあなたは貴重だと思います(こんな辺鄙なところへ、ようこそ来てくださいました)。

花と糞

ツイッターに何か書こうかと思いましたがやめました。

自分のブログがふさわしいと思いました。

「いいね」がいくつ、などといった指標とは縁遠そうなところに、ただ置いておきたいと思ったからです。

「お前そんなこと言っといて、本当は承認欲求のカタマリなんだろう?」と言われればそうかもしれません。

誰にも認められなくていいなら、このブログにだって書く必要ありませんものね。

SNSと自己運営ブログの性格を鑑みて、こっちのほうがましかなぁと思っただけのことです。

文章が長いし、そこもブログ向けです。ひとことで言えることなら、ひとことで言えばいい。言えないこともないかもしれないけれど、それは望まない。これも逃げかな? 守りかな? 逃げや守りのうまいものこそ、生き残りやすいのでは?

いくら華々しくても、散ってしまうのを本能がおそれているのか。

誰も通らない道に、ひっそり咲く無名の花であれ……。いえ、そんないいものでもないか。

花だって、美化に使われるのにうんざりしているかもしれません。

「うんざり」だなんて、人間特有の感覚か。

動物のウンコ? それだって、土を肥やし、風に運ばれ、またべつのものを育む栄養になるのです。

花が咲く因果に、花以外のあらゆるものの存在あり。

私の「逃げ」や「守り」も、きっと何かを生んでいるのです。

話を美化している? 違います。糞化しているのです!!

おあとが臭うようで(……失礼しました)。

お読みいただき、ありがとうございます(こんな駄文も、何かの栄養になればいいなぁ)。

青沼詩郎