自分の頭で考えて行動した結果、失敗することもある。

自分の頭で考えることを放棄して待ち、ほかの人の判断に従うことで何かを享受できることもある。それで、無難に生きて行く。それもできるかもしれない。

自分の頭で考えて何かやったのに、失敗したら悔しい。だから、次こそは! と奮い立ち、猛然と引き続きやり込んだり、うまくいくにはどうしたらいいか必死で考え続けて工夫してあの手この手を打ったりするかもしれない。そうまでしても、やっぱり次も失敗することだってある。成功するほうが、確率的には少ないだろう。

なんか、不条理だなーなんて思ってしまう。不公平だなーなんて思ってしまう。「この世は不公平なのです」それも、確かに真理だと思う。でも、それでいいの? 「真理」なんてことばをあてがうだけで、なんできな臭くなるんだろう。やっぱ、真理じゃないかも。

でも。「やったら、かならず結果が出る」←これは、本当にあやしい。というか、イコールじゃない。それはどうも、確かっぽい。

でも、だからって、「結果なんか出さなくていいから、失敗せずに無難に生きてく」でいいのか? ぶるぶるぶる…首を振る私がいる。

と、まぁ、「何かへのチャレンジを、過剰に美化する」のもまたあやういけれど。

「他人が下した判断に従うこと」

これを完璧に排除するのはむずかしい。というか、その必要もないかもしれない。

やっぱり、社会的に生きているのが私やあなたであるから。

誰とも、いかなる関係も持たずに、ひとりで生きているのではないから。

大なり小なり、他者が考え、判断したことの影響を受ける。その上での、「おれの自由」だ。

行使して自由になる。自由があるから行使できる。どっちが先か。どっちの文脈もあるだろう。

「感じる自由」もありそうだ。「飲むヨーグルト」みたいなものだ。行使する自由もあれば、感じる自由もあるという…なんのこっちゃ。

変えられないこと。どうしようもないこともある。それを受け入れるしかない? でも受け入れられない。そういうこともある。

そうして、「ハメ」にあいながら、おのれを負担のなかに置き続ける。そうせざるを得ない。そんな中に、自分はいる…そう感じながら生きている人も、少なからずいるかもしれない。「おれ」かもしれないし、あなたかもしれない。

「こうしたい」「こうありたい」なら、そうすればいいし、そうあればいい。

なんてことばを突きつけるのは、残忍かもしれない。でも、そうできない。そうありたいのに、そのようにできない…

それって、願望のほうが間違っているのじゃないか? なんて言うと、また「残忍だ」と言われるのだろうか。私の中の、私のひとりに、あるいはあなたの中の、あなたのひとりに。

「願望を変えるか、自分を変えるか選べ。」そう言われたら、その人はどうするか。私は、あなたは、どうしますか?

願望というのはすなわち自分が持つものだ。だから、願望を変えるというのは、つまり自分を変えるということに行き着く。

なんだ。変えられないものがあるなら、自分が変わるしかない。結局これに帰ってくる。

「自分を変えるのは認められないから、傷を負いながらも抵抗し続ける」それをする自由もあるかもしれない。それでいいと思っているのならそうすればいい。

なんか、残酷なこと言うみたいになってしまったけれど、突き放したいわけでもないのです。

「何かを許せない自分」を、すこし、自分から離して眺めてみては?

と、だれかに言ってやりたい。その相手は、私か、あなたか。

お読みいただき、ありがとうございました。

青沼詩郎