昨日は『満月の夕』について書いた。

検索したらあるドキュメントが見つかって、中川敬ソウル・フラワー・ユニオン)と山口洋HEATWAVE)のこの曲における共作(あるいは分岐)の進み方がどのようなものだったかとてもよくわかった。

改めて曲ができた経過の端々を書いておくと、

・アルバム制作中だった山口中川宅を訪れてAメロを共作
阪神淡路大震災が起きる。中川は被災地をまわり、そこでの体験をもとにAメロだけだった曲をサビまで書き上げる。そのまま被災地でそれを歌ってまわる。『満月の夕』と題する。
・中川の書き上げてしまったものを知り、山口が自分の立場から歌詞を書き加えたり中川版とはちがうものを付けたりして山口版ができる。

つまり、この『満月の夕』には中川版山口版が存在する。

HEATWAVEによるパフォーマンス(本文中私が山口版と呼ぶのに相当するもの)
ソウル・フラワー・ユニオンによるパフォーマンス(本文中私が中川版と呼ぶのに相当するもの))

ふたつの曲には骨子が継承されている部分もあるけれど、味わってみるほどにまったく違った人格を持った曲だと思う。

私は音楽を聴いて気に入ると、そのアーティストのその曲を、なるべく自分で歌ってみるようにしている。

すると、歌詞やメロディやコードなどその音楽の具体的な要素が自分にどう響いたか、リスニングしただけの時とはまた違った体験が自分に返ってくる。

先日、私は中川版の『満月の夕』を歌ってみた。そして昨日は山口版の『満月の夕』を歌ってみた。

ふたつの版でサビの歌詞は共通。メロディも歌詞が共通する部分は概ね一緒…なのだけれど、曲のうねりが全然違うのだ。Aメロからの流れの関係もある。歌詞が異なる部分に関しては、メロディやことばの持つリズムがまったく違う。ふたつの版は、同一の遺伝子から生まれた双子? いや、両親は一緒かもしれないが違った遺伝子を持った兄弟? いや、父親や母親の片方がちがう、異母・異父兄弟? あるいは…? とにかく、そんなふうにして、近親のものであると同時に、大いに違うのだ。

中川版の1番Aメロ

冒頭からおよそ8小節の歌詞はふたつの版で同一。その次のブロックからサビまでが違う。

中川版

“時を超え国境線から 幾千里のがれきの町に立つ この胸の振り子は鳴らす “今”を刻むため”
“飼い主をなくした柴が同胞とじゃれながら車道を往く 解き放たれすべてを笑う 乾く冬の夕”

(ソウル・フラワー・ユニオン『満月の夕』より、作詞:中川敬 作曲:中川敬、山口洋)

“がれきの町に立つ”とはそこに主体が語っているような表現。2行目の描写も、そこにいて実際に見た光景のよう。もちろん、メディアが伝えるものを見た2次的な知見をもとに語ることができないとはいわないが、飼い主を伴わないペットを、人間が生活している平常時の町で見かけることは稀だろう。人間のための建物がならぶ地域に、ペットだけがいることの異様さを私は東日本大震災のときにメディアを通して見知った。中川敬は、1995年の阪神各地でこうした光景を見たのだろうか…(きっと、見たのだろうと想像する)。

山口版の1番Aメロ

“夕暮れが悲しみの街を包む 見渡すながめに言葉もなく 行くあてのない怒りだけが胸をあつくする” “声のない叫びは煙となり 風に吹かれ空へと舞いあがる 言葉にいったい何の意味がある 乾く冬の夕”

(HEATWAVE『満月の夕』より、作詞:中川敬、山口洋 作曲:中川敬、山口洋)

阪神を実際に巡る中川から、現地のことや、それをふまえて書きあがった(山口と共作で進めるはずの)曲(『満月の夕』と題される)についての連絡を受けた山口の気持ちはどのようなものだったろう。様々な思いが交雑したのではないか。

行くあてのない怒りだけが胸をあつくする” と綴る、その「怒り」には、遠くで被災地を見ているだけの自分の無力への怒りやもどかしさ、何か行動したい欲求、それができない感情の「じたんだ」が含まれているのかもしれない。

“声のない叫びは煙となり” この部分は、当時東京にいて「メディアを通して現地の様子を知る」山口だからこその表現かもしれない。ヘリコプターなどからの撮影による俯瞰で、都市から無数の煙が立ち上る様子に心を痛めたのではないか。現地の壮絶な悲痛さから距離がある映像は「無言」。レポーターの声のうしろにせいぜい「キーン」「バババババ…」といった、ヘリや撮影環境に付随するノイズか混入しているくらいで、臨場感ある地上の生の音声はそこには聴き取れないだろう。でも、無数に立ち上る煙は、現地の人の生活の、命のかかった叫びなのだと。そんなことを思わせる歌詞。

中川版 2番のメロの歌詞

「笑う」とは。とても意味とニュアンスの広い表現だと思う。享楽や幸福の場面を思わせる動詞でもあるが、冷たく突き放すとき、蔑視するときにも人は「笑う」。「笑い者にする」と書けば、それは笑う方が笑われるほうの気持ちを軽んじ、マウンティングし、自分たちの一瞬の優位を、相対的な安心感を束の間幻視する場面かもしれない。反対に、「笑みをかける」ことは、相手を尊重する意思の表れでもある。このように、「笑う」は幅広い。ニュアンスに富みすぎて、誤解を招くこともあるくらいだ。前後の関係をふまえた深い洞察を要する。

「笑う」の本懐に魅入って話が歌詞から逸れた。

“星が降る 満月が笑う 焼けあとを包むようにおどす風 解き放たれてすべてを笑う 乾く冬の夕”

(ソウル・フラワー・ユニオン『満月の夕』より、作詞:中川敬 作曲:中川敬、山口洋)

このように「笑う」を用いている。これは安易なその場しのぎの「笑い」ではない。この「笑い」は誰の笑いか。満月が笑う、の主語は「満月」。でも、そのように見ている人間がいる。それはだれか。被災者かもしれない。私やあなたでもいい。

後項の「解き放たれてすべてを笑う」は、主語が微妙だ。前後の関係から「風」や「夕」が主語でもおかしくはない。でもおそらくそれは、その土地に立った人だろう。人外に人格を認めるとき、その人格は認めた人の中にあるものに由来する。あらゆる人外は、その人を映す鏡である。

山口版 2番のメロの歌詞

“絶え間なくつき動かされて 誰もが(この)時代に走らされた すべてを失くした人は どこへ行けばいいのだろう”

“それでも人はまた汗を流し 何度でも出会いと別れを繰り返し 過ぎた日々の痛みを胸に いつかみた夢を目指すだろう”

(HEATWAVE『満月の夕』より、作詞:中川敬、山口洋 作曲:中川敬、山口洋)

これらは現状(当時の被災地)の厳しさを提示した上で、希望を喚起する。曲中で、「ことばが伝える力」が最も風を吹かせている部分ではないか。何について、どこからどこまで物語るのか。その対象とする範囲を震災直後からかなり広めた視点を感じる。復興、さらにその先まで見据えたかのよう。そちら方面の最たるところにあるのが、「夢」だろうか。今(この時点で)はまだ小さく、遠くの星のような光かもしれない。

後記

山口版の『満月の夕』は歌うのがむずかしい。メロ(サビ以外のところ)の言葉の音数、そのリズム(左右)や抑揚(上下)の取り方が一定しない(観察とプレイバックで緻密に採譜してリハーサルして臨めば完全コピーも夢じゃないだろうが…)。中川版との違いはつまり、メロの部分が大きい。2番メロはサイズ自体が増している(歌詞の行数でいえば倍?)。

被災地の中で湧き出た中川版は、被災地での一晩の満月の輝きが霊感のもとになっている。その瞬間を、その現場で中川がつかまえた。(2015年1月15日放送『満月の夕 震災が紡いだ歌の20年』(NHK)で中川は「自分の中から流れるように言葉とメロディが出てきた」と語った。)

一方山口は、遠くからそちらへ視線をやった。複雑な感情と心の居所、その物理的な所在地と、その心模様をつくる原因になっている被災地との距離の差異にあえいだのではないか。局所の輝きを切り取って描いた中川に対し、山口は縮尺を変えて描き出す時間に広がりを与えた。

ふたつの版は、組であり対のものだ。補完しあっているし、認め合い、対立してもいる。どちらかに優位があってはこうはならない。とても稀な事例だと思う。

曲を共作する2人の親交を思うに、山口と中川はおそらく尊敬しあっていて、かつ刺激しあうライバルでもあるのではないか。

…被災地に行った“あいつ”がやってくれた(よりによって共同で進めている途中の素材を活かして!)。これは音楽人として自分も返すべきものがある…

そう感じたのではないか。中川が、山口との共同を前提とした素材を使わずにいられなかったのと同じように、山口もまた、中川が被災地で認め命を吹き込んだ歌に、自身から湧くものを認めた。こんなイレギュラーな共作は企図してできるものではないだろう。

満月のもたらす霊感が26年経っても変わらないことを、この歌が教えてくれる。

青沼詩郎

HEATWAVE 公式サイトへのリンク

『満月の夕』を収録したHEATWAVEのセルフカバーアルバム『Your Songs』(2017)

『満月の夕』を収録したHEATWAVEのアルバム『1995』

ご笑覧ください 拙カバー