映像 アニメ

垣根の上から出る頭の先や、干したベッドシーツの下に見える足を描いてサッちゃんのちっちゃさを表現。サッちゃんの相手目線のカメラは画面の中とキャッチボールをしている気にさせます。

ちらかったおもちゃの先に昼寝のサッちゃん。幼児の寝返りが、傍で寝ている人にぶつかるのはあるあるです。猫の境遇に共感。

どことなくきれいめの服を着たサッちゃん。こちらからだんだん遠ざかっていきます。引っ越してしまうようです。置かれた写真立ての中でサッちゃんが笑います。見る人が見たら、そう見えたのかもしれません。歌:宮内 良、アニメ:南家こうじ。

山野さと子・上柴はじめ

歌:山野さと子、ピアノ:上柴はじめ。2拍子のグルーヴが小気味よく息ぴったりの的確な演奏です。

曲の名義、概要など

作詞:阪田寛夫、作曲:大中恩。1959年、NHKラジオ『うたのおばさん』で発表。

歌詞

1番

サッちゃんはね サチコっていうんだ ほんとはね だけど ちっちゃいから じぶんのこと サッちゃんって呼ぶんだよ おかしいな サッちゃん(作詞:阪田寛夫、作曲:大中恩)

サチコという子が自分のことを“サッちゃん”と呼ぶのは自然な気がします。歌詞の“おかしいな”にあえてツッコミを入れるならそこでしょうか。大人のサチコさんの一人称がサッちゃんだったら、未成熟な人格や精神年齢の低さを感じさせ、“おかしいな”と思わせうるかもしれません。

小さい子は鋭いツッコミを放つことがあります。大人の(時に余計なまでの)常識や配慮がないからです。柔軟な感性でありのままにキャッチする。ことばも額面通り受け取ります。だから、「サチコ」が「サッちゃん」なのはおかしいよと指摘する子もいるかもしれません。名前を省略して、あたまの発音をとった愛称なんだからおかしくないよ、というのは大人の言い分です。大人の言い分を蓄積して、いつのまにか子供は大人になるのかもしれません。

この歌の主人公は誰なのかわかりません。一人称として「ぼく」が出てくる程度です。サッちゃんと関わりを持った、やはりサッちゃんと同じくらいの「ちっちゃいこども」なのかもしれないし、大人だと仮定するとまた違った味わいがでてきます。大人と子供の異年齢の友情というのも妙味があります。友達に年齢は関係ないよと教えてくれるようにも感じます。一人称は「ぼく」ですが性別もわかりません。どちらもありえるでしょう。色々な主人公を想像して歌を味わうと自分の偏見の傾向が見えてきそう。こんなにシンプルでコンパクトな曲なのに思考をたくさんくれます。

2番

“サッちゃんはね バナナが大好き ほんとだよ だけど ちっちゃいから バナナを はんぶんしか たべられないの かわいそうね サッちゃん (作詞:阪田寛夫、作曲:大中恩)

歌の発表時(1959)を思うと、バナナは高級品でしょうか。現在ほどは日常的な食べ物でなかったかもしれません。ちょっと特別感のある、上等な嗜好品だったのかも?(もちろん、現代においても場合によってはたいへん貴重な食品でしょう。)

そんな、おいしくてありがたいバナナを半分しか食べられないのはかわいそう、ということでしょうか。大人ならペロリといってしまう人が多いであろう1本のバナナを半分しか食べられないのは、確かに庇護したくなるかわいさが漂いそうです。主人公はおそらく、バナナを1本食べ切れるのでしょう。

主人公が幼児だとも限りませんが、何事も自分のみを基準にして評価するのは子供の傾向です。もちろん大人だって、自分の知り得たことのみでしか物事をはかれません。大人のものさしには、多様な尺度や基準が記されているでしょう。判断したい物事がたったひとつであれば、目盛はそんなにいらない気もします。

半分しかバナナを食べられないことを「かわいそう」と評しているようですが、貴重でありがたいものを、半分で満足できるのに越したことはないとも思います。そのぶん他者と分け合えば幸福の総量が増えそうではありませんか。ひとりよがり(自分さえ良ければ良いと考えたり行動したりしがち)なのも幼児の傾向です。

サッちゃんはバナナが好きなのを知っていることに、主人公は優越を感じているのかもしれません。サッちゃんについて、他の人が知らない秘密を知っている……は想像が過ぎるでしょうか。

「うそかほんとか」の意味で“バナナが大好き ほんとだよ”と言う可能性もあるでしょうけれど、“ほんとだよ”にはバナナを「普通に好き」程度でなく「心底好き」の意味もあるかもしれません。“ほんと”にはそういう使い方(意味を強める)もありますね。「あなたもほんとに好きですね」といった具合に、ちょっとあきれている態度や、こちらの理解を超える程度であることをちくりと批判的に言ってやるときにもつかうかもしれません! ほんとに。

3番

“サッちゃんがね 遠くへ行っちゃうって ほんとかな だけど ちっちゃいから ぼくのこと わすれてしまうだろ さびしいな サッちゃん”(作詞:阪田寛夫、作曲:大中恩)

まさかの展開です。サッちゃんとの関係も切れてしまうのでしょうか。

“遠くへ行っちゃう”という表現が余白を残します。サッちゃんが亡くなってしまった比喩とまで私は考えました。亡くなったことを、周りの大人がそう(遠くへ行った、と)表現した場合です。でも“行っちゃう”なので、これから行くんですよね。亡くなってしまうタイミングが決まっている場合はさすがに考えにくいので、やはり引っ越しですね。

“ほんとかな”と主人公は言っていて、まだ実感が持てていないようです。“だけどちっちゃいからぼくのことわすれてしまうだろ”と言っています。ちっちゃいのは、さっちゃんの幼さのことを言っているのでしょう。けれど、百にひとつ程度ですが、“ちっちゃい”が“ぼく”に係っている可能性もありそうです。存在感が小さいのか、身長が小さいのか、年齢的に幼いのかわかりませんが、ぼくはちっちゃいのでサッちゃんはぼくのことを忘れてしまうだろう、という論理(?)です。

その可能性はやはり捨てて続けますと、サッちゃんのことを“ちっちゃいから”というあたり、主人公はサッちゃんよりもすこしだけ年上なのかもしれません。もちろん、ほとんど変わらないくらいの年齢・月齢をしていても、子供は上から目線で同じくらいの子に対して自分より未熟・幼いといった評価をくだすこともあるでしょうからわかりません(大人でもあるでしょうね)。

いちおう、私の偏見として“ぼく”がずいぶん大人である可能性も依然として持っていたいです。

“さびしいな”と嘆き、主題の“サッちゃん”。その名前のつぶやきを添えて歌は結びます。歌い出し(“サッちゃんはね……”)と結尾(“さびしいな サッちゃん”)を一致させる歌詞の構成は有名な曲にもしばしば見られます。たとえば『リンゴの唄』もそうですね。“赤いリンゴに……”と歌い出して、“リンゴ可愛いや 可愛いやリンゴ”と結ぶ歌詞です。歌い出しと結尾を主題(リンゴ)で一致させています。『リンゴの唄』と『サッちゃん』の間に、歌詞における主題フレーズの置き方(冒頭・結尾)に共通点が見られます。

メロディについて

『サッちゃん』歌メロディの採譜例。

16分音符をひっかけたリズムが可愛らしい。伴奏なしに口ずさむときには3連符のノリで歌われることもあるのではないでしょうか。

1〜2小節目の“サッちゃんはね”と、5〜6小節目の“ほんとはね”の部分のリズム型が対応しています(同一のリズムの意)。音名の配置がちょっとずれていて、1〜2小節目では主音に上行で到達。5〜6小節目ではやや不安定な第2音(譜例、Fメージャー調でソ)で止め、その後の展開に対して注意をひきつけます。

この同一のリズム型のモチーフに挟まれたのが“サチコっていうんだ”の部分です。ラーラ、ファーファ、ソーソ、ファーレ(in F)と主音の周りをチョロチョロと。定まらない幼児の足取りのようです。以上が6小節フレーズなのも舌足らずな幼児に似てなお可愛らしい。

それまでのモチーフは強起(小節の頭、強い拍からちょうどはじまるモチーフ)でしたが、“だけどちっちゃいから”は弱起(弱い拍からはじまるフレーズ)です。歌詞:“じぶんのこと” の部分のように16分音符が4つ団子になった細かいリズムを用い、曲中で最も高い音域に到達。

“呼ぶんだよ”のところではソーレドラド(in F)とフレーズの頭で5度跳躍上行。フレーズのおしりでド(in F):ⅴ(音階の第5音)でトメ。

最後の“おかしいな”でも16分音符4つのリズム。2番の歌詞:“かわいそうね”の語頭に至っては32分音符くらいに割って歌唱します。3番では“さびしいな”ですね。ここにはまる語句が、それぞれ1番、2番、3番の結論です(おおげさに言えば)。「サッちゃんエピソード」に主人公の感想を添えているだけともいえます。おかしいな(1番)→かわいそうね(2番)→さびしいな(3番)。なんだか徐々に不穏に、アンハッピー風になっていくのが意外です。かわいらしさが表面の印象でしたが、『サッちゃん』の歌詞の本題は「喪失」なのかもしれません。本当に失くすわけではないにせよ、近くにいられたこれまでの距離や関係が変わってしまうのです。

メロディの話に戻します。歌詞:“おかしいな”の語尾、“な”のところでレ(in F):ⅵ(音階の第6音)。呼び込まれる和音はⅣかⅥmでしょうか。ここにⅵがあらわれるのはペンタトニック(5音音階)っぽいです……というか、今さらですが『サッちゃん』はペンタトニック・スケールです。ヨナ抜きで、in F(ヘ長調)でいいますとミ・シ♭が一度もメロディに登場しませんね。ⅳ・ⅶ抜きです。だから4・7(ヨナ)抜き音階。

またメロディの話に戻して、レ(ⅵ)でトメた音程を、最後の歌詞:“サッちゃん”のところでラ・ファ(ⅲ・ⅰ)。1番高い音域のレまで上げ、最後に主和音の構成音(in F でファ・ラ・ド)の中でも重要なⅲ・ⅰ(ラ・ファ)を跳躍でトントンと取ります。ケンケンパして遊んでいるみたいですね。

繰り返しますが歌詞の本題は「喪失」でしょうか。音楽の可愛らしさとのギャップが、えもいわれぬ美しさを醸しているのです

むすびに

1番はサッちゃんの名前・呼び方のおかしみへの主人公の着目が描かれます。そこが圧倒的に有名でしょう。2番はバナナを食べ切れないかよわさ・可憐さ? 3番ではまさかの転結。転居の「転」ですか。

この曲で、なんで急に主人公がサッちゃんの話を始めたかというと、それはトピックがサッちゃんの転居だからだったからではないでしょうか。1・2番は、トピックのサッちゃんがどんな人かを描く「前フリ」に思えてきます。3番まで味わってはじめて、1・2番に漏れ出た哀愁の秘密がわかるのです。私が3番まで味わったあとだからそう思えるのかもしれません。

ペンタトニック・スケールにはそもそも哀愁を感じさせる不完全さがあります。5つしか音をつかわないからでしょうか。不安や帰結(安定)感の押し出しが弱いスケールで、ずっとつらつらと夢(おとぎ話)を見ているみたいな音階でもあります。

昔から知っている曲でしたが、3番までちゃんと知りませんでした。以前は、幼い主人公が、サッちゃんという友人を自分の身近な大人に紹介する歌のように思っていました。味わい直すと、主人公像を多様にとらえてもいいなと思えたこと、そしてサッちゃんがいなくなってしまうそうだから、このタイミングで主人公はサッちゃんの話を誰かに聞いてもらいたいのだと……そんな味わいの発見がありました。

大中恩の歌曲は、私が音楽大学で声楽を学んだ頃にも題材にしたのを思い出します。易しい曲ばかりでなく、その多層性は案外『サッちゃん』にも顕れているかもしれません。「簡単そうに高等なことをさらっとやる」は、すぐれた創作物にしばしばみられる共通の特徴ではないでしょうか。

青沼詩郎

大中恩 音楽記念館 プロフィール、作品一覧、写真などのストックと最新のフローが網羅された公式サイト。

Wikipedia > サッちゃん実際のサッちゃんのモデルは主人公のひとつ年上?? さすがにチンパンジーが「サッちゃん」と発声して自分のことを「呼ぶ」のは考えにくいですが、そう思って鑑賞するのもおもしろみ。チンパンジーにも「転園」はあるかもしれませんね。

日本音楽著作権協会>作家で聴く音楽 JASRAC会員作家インタビュー>大中恩

“後に、彼の幼稚園の二級くらい上のお嬢さんが本当のモデルだったことがわかりました。”とJASRACサイトのインタビュー本文にあります。彼とは阪田寛夫のこと。

父で作曲家の大中寅二がみせた態度、『サッちゃん』『犬のおまわりさん』を作曲したときのいきさつ、阪田寛夫(実の従兄弟)や中田喜直をはじめとした作家仲間との付き合い、作曲の動機・モチベーションになるという合唱団、声や詩を用いた音楽への想いが明かされています。

はいだしょうこが歌う『みんなでうたう童謡・唱歌(2)おもちゃのチャチャチャ~故郷』(2009)

『大中恩歌曲集Ⅰ』(全音)。音大生の頃に学びました(『サッちゃん』は含まず)。

ドキュメンタリー『サッちゃん -大中恩の世界- 』(2006)。『サッちゃん』作詞の阪田寛夫とは従兄弟なのですね。合唱界への注力の記録が見られそうです。リンク先ページ内、商品の説明>内容紹介のところの解説が興味深いです。

『現代こどもの歌秀作選 いぬのおまわりさん 大中恩選集』。1981年度(第12回)日本童謡賞受賞。

山野さと子の歌唱『サッちゃん』、若松正司編曲の管弦楽を伴奏に。『コロムビアキッズ どうよう BEST SELECTION おもちゃのチャチャチャ・サッちゃん』(2016)

『サッちゃん』『おなかのへるうた』ほか多数収録、春口雅子『うたとおはなしでつづる チルドレンズ ハート ソングズ』(2009)。

阪田寛夫『詩集 サッちゃん』(1977)

ご笑覧ください 拙演