まえがき 私と両親の話

私の母親はピアノの教師だ。それとは別に詩の同人をやっていて、自著を出版したり頒布したりしている。本業はピアノ教師だが、モノ好きで、アマチュア・オーケストラに所属してヴィオラを弾いている。

かわって、私の父親は水彩画を描く。本業というか仕事は別にあって、会社員を長くやった。定年しているが今もその延長にある仕事をこなす。その傍ら、ずっと水彩画を描いてきた。

詩人はうれない

そんな両親から生まれたのが私。母親の希望がはたらいて、私には詩郎の名がついた。胎内にいたときは女だと思われていたらしい。産科医が生まれた私をとりあげて「たいへんだ!」というから、母はどんな深刻な事実が告げられるものか構えたそうだが「男だ」と産科医がいうので「なんだそんなことか」と思ったらしい。私の性別のいかんは「そんなこと」だったのだ。悪い意味ではない。性別は問題じゃないのだ。良いじゃないか。

話を戻すが、母の影響で私はピアノに親しんで育った。それから、母が所属するアマチュア・オーケストラの団員不足を動機に誘われ、そのオケの打楽器を担当する団員に一時期なった。中学生のときのことだ。

私はピアノで音楽に親しんだので、中学生になるころ、友達に誘われてギターをはじめたのも自然な流れだった。

高校ではバンドをやり、ギターをひき、歌うようになり、曲を自作するようになった。MTR(多重録音機)を知り、制作をしだした。ここで、ピアノや打楽器やギターの経験が活きた。バンドに入れたい音がひととおり自分で演奏できた。

バンドの曲づくりを一生やりたいと当時から思っていた。遠回りだが音大へ行き(行かせていただき)、声楽とピアノを主科に学んだ。クラシック中心の学科だったのが「遠回り」と表現した所以だがこれは裏腹だ。ほんとうは、生きる道に遠回りはないと思っている(目的に対してならば、近いや遠いは存在する)。

音大を卒業して私が立ち上げたバンドはbandshijin(バンドシジン)だった。バンドといいつつソロだ。だって録音では全部の楽器を私ひとりでやっちゃうのだ。ライブではサポートを頼んだ。友人・紹介の知人らが協力してくれた。今に続く関係もままある。幸運だ。

bandshijinという名前をはじめて認知したとき母は、私に「詩人は売れないよ」と言った。素朴に率直に出たことばという様子だった。今でこそ、母の言葉にこもった率直な反応の背景・奥行きがわかる。詩人として生活を成り立たせる人が世界にどれだけいるだろう。

自分が立ち上げたバンドの名前について、母に何をいわれても私は気にならなかった。売れそうな名前をつけたつもりもなかった。私の実名が詩郎だというのと、「バンド(音楽)をやる行為そのもの」が詩だなぁと思ったからつけたバンド名だ。

Vaundyのロッキング・オンによるインタビュー

話はかわって、最近Vaundyの曲をよく聴く。私が好きなバンド、くるりが主催する京都音楽博覧会2022にVaundyの出演が発表されたのがきっかけだった。

夜な夜な街を行く一人。雑踏を飄々と歩きながら時折翻る、躍動する。次第に走り出す。電話ボックスを出て、電話ボックスへと戻る。暗かった空はいつしか白む。都市、そこでの生活のごみごみを消化(昇華)した洗練と斬新を感じる曲と映像。自己とノイズを同居させたリアリティと創造性。高い知性を感じる。

私がVaundyを初めて知ったのは『東京フラッシュ』が知名度をあげる頃だったから2019年~2020年くらいだろう。1~2度その場でMVをみてうなった。「すげぇ」と思った。かっこいい新人がまた出てきちゃって、自分の化石度(干物感)がより浮き彫りになり、自己憐憫やら哀愁をオートマッティックに感じた。これは新しい存在を知ったときの私の反応あるあるである。救いようもないが本能が救われないようにしているのかもしれない。

それから2022年になって、くるり主催の音楽博覧会へのVaundyの出演が決まったのを知った瞬間につながる。私は『東京フラッシュ』MV以来、久しぶりにVaundyを強く認知した。その認知は、彼の楽曲を聴き込むほどに深まった。「すげぇ」の思いは「すげぇすげぇ」と細胞分裂のように数を増していった。私は単純な生物なのだ。

Vaundyの曲で私が一番好きなのは『僕は今日も』だ。器用にさまざまな曲をデザインしてみせる彼の幅ある楽曲群のなかでも、彼固有の肉体・精神の史実が強く出ていると思える。もちろんそれもデザインのうちで、私の思い違いかもしれない。いい意味での、アーティストによるダマしにはまっているのかもしれない。作品は虚構であると同時に真実だ。ウソもホントも、現実の壁をぬるぬると通り抜け行き来する。

話がスピったか(スピるってそんな意味?)。戻そう。Vaundyをつよく意識する中、私はロッキング・オン・ジャパン2022年9月号を読んだ。Vaundyのロング・インタビューを掲載している。

「デザイン」というのはこれを読んだ影響で先ほどから数度、この記事に使ってみた言葉だ。Vaundyはデザインほかを学ぶ学生でもある(2022年時)。彼は、音楽もデザインする感覚でつくることがあるようだ。売れる所以だろう。ロジカルに、かつそれ以外……すなわち意外性や新しさを含ませるバランス感覚も重要だ。『僕は今日も』は、私にとってその塩梅が気持ちよかった。

お金が発生する音楽の仕事も、その案件の固有の条件・環境・事情に従って、デザインを実行するだけなのだ……といった具合に私は彼のインタビューから読み取ってこころにメモした。歌唱におけるリズムの重要性や、自身がポップの権化となってリスナーに強いリーダーシップ(“俺がポップだ”といった具合に)を発揮する態度について語る部分も私にとって腑に落ちる内容だった。実の母に「詩人は売れないよ」といわしめるバンド名をつけて無名のまま延々と活動を続ける私に、見習うべき態度やアップデートすべき指針を見出せる。Vaundy、すげぇ。すげぇ、すげぇぞVaundy。やはり私は単純な生き物だ。

デザイナーと趣味人

趣味は、好きでやるもの。デザインは、仕事として遂行するもの。と、仮に雑観してみる(もちろん趣味としてのデザインも良い)。

Vaundyは、鋭い。「デザイン」という言葉を含めて語ったインタビューの中からもその鋭さはひしひしと伝わってくるし、彼の出演するFM802MUSIC FREAKS(2022年時)を聴いてもそれが実感できる。単純生物の私にぐさぐさと刺さる言葉を複合カデンツにして彼は吐く。ショックとか打ちのめされるとかいうよりは、ここちよい針のシゲキ(『愛のしるし』より、作詞:草野正宗)という感じ。何をこんなところで他人の歌の言葉を借りているのだろう。やはり私は救われないように自分を仕向けているのかもしれない。

話の舵を無理やり切るが、細野晴臣氏のインタビュー(だったか……無出典で申し訳ない)の中に、細野氏が自らのことを「趣味人」と形容する表現があったと記憶している。仮に、Vaundyに通ずるような、目的に向かって適切に道具を用い材料を加工しロジカルに解を導く「デザイナー」的な視点を持つ表現者と、細野晴臣氏の語るような「趣味人」的……問い続けたうしろに解の道が結果としてできているような態度を持つ表現者のふたつがあるならば、私は間違いなく後者のほうに近いと思う。

これは酷い私の勘違いかもしれなくて、「デザイナー」と「趣味人」にも通ずるものが多いかもしれない。ひょっとしたら、音楽業界に携わる知見が皆無な私をよそに、「デザイナー」と「趣味人」は、わかる人にとっては同じことを言っているに過ぎないのかもしれない。ある人の黒は、ある人の白である。

この流れで挙げるのが適切か憚られるけれど、大瀧詠一氏の音楽への態度にも「趣味人」に通ずるものを私は感じる。

Vaundyの鋭敏な作品群に感嘆し打ちひしがれつつも、同じ時期に私は大瀧詠一氏の作品にもふれる。探求心や趣味・嗜好、遊びに満ちた表現をたくさん含む大瀧詠一作品。Vaundy作品と大瀧作品の間に私が勝手に対極性を見出しているだけで、実はVaundy的鋭いクリエイションも、細野さんや大瀧さんに私が勝手に感じる趣味・探求的態度も、案外近い、あるいは通ずるもの、重なる部分が多いのかもしれない。

白と黒とか、暴力と平和とか、男と女とか、ミクロとマクロとか、短絡的には反対に位置していそうなものはだいたい表裏一体というか、実はとても関連が深く一体のものである。それよりももっとずっとすっ飛んでいて、なんでその脈絡でそれが出てくるのか? というもののほうが、真に関連が薄いのだと思う。このあたりの飛躍・超越のおもしろさを味わえる世界が、現役作家らが魅せる現代川柳の世界だと最近私は気づいた。それに気づく素養をくれたのはそもそも森博嗣の「意味なしジョーク」だった。けれど、その話はここではしまっておく。

大滝詠一『水彩画の町』

私の冗長な自分語りをここまで読んでくれたあなたに尊い感謝。とりとめがないようでいて、私の出自、細野・大瀧両氏やVaundyの偉業は、関係のないもののようでいて、私の中で混然一体となってすべてが心の網でつながっている。そのことを伝えられるのに適うデザインをこの文章が満たしているとは到底思えないけれど、ここに認めておくことで今後洗練の手がかりになるかもしれないから己のために汚点を打っておく。だんだんきれいにしていきたい。

Vaundyの『僕は今日も』も素敵だが、最近聴いた大滝詠一『水彩画の町』も音楽で成立する詩性を感じる。この記事では(オマケみたいで恐縮だけど)この曲に少し近寄ってみる。

作詞・作曲、収録作など

作詞;松本隆、作曲:大瀧詠一。大滝詠一のアルバム『大瀧詠一』(1972)、『DEBUT』(1978)に異なるバージョンを収録。

ふたつのバージョンを聴く

『大瀧詠一』収録

アコースティック・ギターのやわらかな線が折り重なる響き。水彩画のタッチをよく表現して思える。ボンゴだろうか、ぽつぽつ・コツコツと淡泊な味わいの衝突音がリズムを醸す。ギターは高めのポジションと低いポジションを2本で分担しているだろうか。フィンガーピックのやわらかなタッチ、ジャランと鳴らすコードのストロークが同居する。場面によってギターが表情を変える。

バックグラウンド・ボーカル(コーラス)が「ha~」と透明な帯を添える。ボーカルにはコーラスとは別に、メインのオブリガードパートが絡む。大瀧氏の冷ややかな質感、クールなボーカルが私の胸に虚しさを噴出させる。ハーモニーパートは調和して、かつ淋しげ。美しさゆえのわびさびだ。

Gメージャー調でのびのびとしたなかにも凛とした響き。開放弦を交えたコードとハイポジのオブリが合わさったギターの印象が淡く精彩。まるで水彩画のそれである。

『DEBUT』収録『水彩画の町’78』

もったりとしたグルーヴ。ストリングスが与える印象が大きい。ピアノの低音もズゥンと響いている。ストリングスと合わさって重荘な印象を築く。ストリングスとピアノのコンビネーションにエレキギターやオルガンが音域違い(帯域違い?)で寄り添い、エッジを与える。

Fメージャー調で演奏しているのも『大瀧詠一』収録版との決定的な違い。音域が低いのも重荘な印象の形成に一役買う。のびやかでおおらかだ。F調の響きがくれる牧歌的な印象、その好例を私の記憶の引き出しに書き加える。

コード、リズムの浮遊

これは2拍子にとってもいいだろうか。奇数小節のまとまりを交えて、のんびりとした曲想に緊張感と屈折のスパイスが効く。メロの歌い出しもベース(低音弦)と高音弦を弾き分けてギターが変則的なリズムでつんのめりながらボーカルと絡まる。

『水彩画の町』に限ったことではないが、歌詞の載せ方がまた変則的。語句の伸びるところ、コードやリズムの節にまたがるところが通常の言語を話す際のあて方を逸している。言葉を印象づけつつも、どこか無感情な態度を思わせる理由か。はっぴいえんどの作品にふんだんにみられる表現の個性である。うなずく人は多いはずだ。『風をあつめて』『はいからはくち』……多くの曲よろしく。その意味で、「はっぴいえんど的」な後ろ髪を持った大瀧ソロ曲といえる。

コードもなんだかへんてこだ。ギターのリズムの変則、奇数小節の酩酊した気持ち悪いような気持ちよさといっしょにⅤm、Ⅲmなどの感情のよりどころを煙に巻く響きが連なる。マイナーコードづかいの妙。♭Ⅶや♭Ⅲm?のような響きも顔を出し、和声が機能的にふるまうのをうやむやにする。風景や抽象的な印象を淡いタッチで描く水彩画のそれのよう。肉体としての主人公は歌のなかに登場してもいるが、心の居所がふわっとしている。響きのせいか。

歌詞の描く刹那、額縁の中

“水彩画の町に花あんずが匂うと 風にぶらさがる 海ほうずきのように 髪をほどくんだね くすくす笑いながら そんなにすますなよ うってほしいんだから あいづちぐらいは”(『水彩画の町』より、作詞:松本隆、作曲:大瀧詠一)

「あんず」と書いてもよいかもしれないところ、「花あんず」である。「あんずの花」でもなく、「花あんず」。このアイデアは借りられるかもしれない。あなたが言葉を書いたり表現したりする人だったら、「○○の花」と書くところは、「花○○」と書き改めてみるのも一興か。その話は別として、「花杏」(はなあんず)というもの(表現、いいまわし)は存在するようである。

「海ほうずき」は貝類の卵嚢だそうだ。流木などに付着していることがあるらしい。植物のほおずきに似ているのだろうか。見た経験がなくわからない。「風にぶらさがる海ほうずき」という表現は舞台が海に近いことを想像させもするが、そもそも「水彩画の町」が示すところがなんともいえない。水彩画の中に描かれた世界のことなのか、その絵が描いたモチーフになった実在の町なのか。そもそも「風にぶらさがる海ほうずき」という表現でさえ、「髪をほどく」の修辞である。ここはどこなのかもよくわからない。主人公と、くすくすと笑って髪をほどくあなた(仮にあなた、としておく)。主人公はあいづちくらいはほしいと思っているよう。描かれているのはそれくらいなのだ。一瞬の出来事で、この歌が満たされている。額縁の外にまで歌の世界が及んでもいる。妙技だ。

“水彩画の部屋に花あんずがいちりん しなやかにまわる 風車のように ぼくのまなざしを からだに巻きつける そんなにすますなようってほしいんだから あいづちぐらいは”(『水彩画の町』より、作詞:松本隆、作曲:大瀧詠一)

妙なる修辞は2番では「しなやかにまわる風車のようにぼくのまなざしをからだに巻きつける」だ。動いているものを見る習性が人にはある。ほかの動物もそうだろう。あなた(仮)はくるくる回る仕草でもしたのだろうか。そうでなくても、主人公の視線(思想、感情)をまとってやまない関心の対象、その躍動感。そしてやっぱり、主人公はあいづちくらいはうってほしいのだ。ふたりのちぐはぐな関係。その一瞬で歌は満たされている。やはり舞台は額縁の中なのか。無音と無音にはさまれた楽曲の額縁の中へ、妙なるミスリードを連ねて観る者を迎え入れる。私も水彩画の一部になる。

青沼詩郎

大滝詠一 ソニーミュージックサイト

Vaundy 公式サイトへのリンク

拙サイト bandshijin Web

大滝詠一のアルバム『大瀧詠一』(1972)

大滝詠一のアルバム『DEBUT』(1978)

Vaundyのロング・インタビューを収録したロッキング・オン・ジャパン 2022年9月号

『僕は今日も』『東京フラッシュ』を収録したVaundyのアルバム『strobo』(2020)

ご笑覧ください 水彩画の町 拙演