映像

MV

暗中。こちらへ向かい、後ろへ飛んでく星々。ヒキの画から宇宙、地球、都市……BUMP OF CHICKENメンバーにまで寄ります。

ストーリーを感じる映像。自転車に乗る少年、望遠鏡をのぞく少年。車で少年を連れるのは保護者でしょうか。車とすれちがうのは友達? グラウンドのような広い場所で空を見上げる少年。車中から鍵を差し出す少年、自転車に乗ってそれを受け取る少年。キャストが何人いるのでしょうか。

うす暗い場所に集合し、何かの施設に駆けていく4人。そうか……BUMP OF CHICKENメンバーの象徴なのかもしれませんね。暗くなった屋上に立つ4人。チョークでそこに絵を描く4人。演奏するBUMP OF CHICKENメンバーの足元にも同じ絵、なるほど。映像中の物語と、実在するバンド・BUMP OF CHICKENをつなげる演出でしょうか。

みんなで望遠鏡に群がり、のぞきます。にっこりして空を見上げる4人。帰宅したのか、家であおむけに寝転がる少年。彼の目から遠ざかり宇宙まで画面が引いていき、冒頭と結尾のシーンが重なるよう。心の中の天体観測がずっと続くようです。

スペシャルMV

スタジアム。ドーンと低音の轟音。カウント4ではじまる曲。舞い散るきらきらした紙吹雪。飛行船、空、稲光、雲。ゴーグルなど装備をした謎の人物? の手の間をすり抜け、高く宙に浮く発光体。空をいく鳥のような生き物?

ライブ映像とCG映像の混在。メンバーの背後に映像がうつされています。映像作品のオリジナルとライブ映像をミックスした特別な編集でしょうか。鳥のような生き物? が空をいく。矢に射られるようなカットも。先程の装備の人物が高いところに登り、あたりを眺めます。すかっと明るい空は昼か。もしくは端のほうのオレンジ色が夕刻くらいにも見えます。

藤原基央の手描きの絵? のようなものもまじります。彼らの演奏の姿も複数のシーンがまざっているようです。エンディングでバンドが音を長くかき回すところではステージの固定映像の早回し。一夜のステージのライブ映像を素材にしている様子か。たくさんの楽曲が繰り出されたようです。

曲について

BUMP OF CHICKENのシングル(2001)、アルバム『jupiter』(2002)に収録。作詞・作曲:藤原基央。

BUMP OF CHICKEN『天体観測』を聴く

右からはじまるギターのフィードバック。それは左に伝播します。ワクワク感がすごい。キック4つ打ちのAメロ。ハーモニックなギターが轟きます。クリーンなギターアルペジオのBメロ。大胆にベースの低音位が浮くサビ。ボーカルの高音域の繊細なしゃがれ方・するどい歌唱が感情を煽ります。

すぐさま平らな感情を取り戻し、2コーラス目。低音域のボーカルの魅力がなお際立ちます。タンバリンの16のリズムが華やかに彩り・輝きを演出します。軽快にまたサビへ。ギターの厚い響きが胸熱。ベースが8ビートで細かく間断なく動きます。なんてストロークの多いこと。

Cメロがあらわれます。AメロでもBメロでもサビでもない部分。スピーディに駆け抜けて来た曲中、ここで(直前の4小節から)テンポが半分に。流れをたゆませて「あのとき」から「現在まで」を語る部分です。ギターがリズム&アルペジオ、折り返しからギターの主フレーズも現れます。コーラスボーカルが「Ah」とこの世に産声をあげるように神妙に響きます。ギターハーモニクスで印象づける、3コーラス目のBメロへの復帰。

サビへのフィルインでドラムスが裸に。そのままキック4つ打ちの押し出し。ギターの低音位に特徴があります。歌詞“駆け抜けた”のところでギターの16のリズムのカッティングのキメ。クロスするようにカウンターメロディを被せる単旋律のギター。反復するサビでスネアがベーシックストロークを取り戻します。オープンなシンバルが炸裂しタンバリンも加わって音の質量は最高潮。

エンディングも複数の声部でハーモニックなメロディを奏でるギター、リズムストロークするギター、アルペジオするギター。ほとんどすべてのギターパートを複数回ダブリングしているのではないでしょうか。

歌詞

“午前二時フミキリに望遠鏡を担いでった ベルトに結んだラジオ 雨は降らないらしい 二分後に君が来た 大袈裟な荷物しょって来た 始めようか天体観測 ほうき星を探して”(BUMP OF CHICKEN『天体観測』より、作詞:藤原基央)

終電車の運行が済んだ後の鉄道は静かなものです。鉄道は鉄道会社の私有地ですが、遮断機が開いている時の踏切内はどういう扱いになるのでしょう……どっちでもいいか。都市だとほかの人が通行しないとも限りませんが、星が綺麗に見える地方の午前2時の踏切はきっと静かなものでしょう。

ラジオをベルトにくくりつけて、天候の情報をそこから得ているようです。ベルト、ラジオ、天候の情報……主人公の装備や身の回りの状況が語られ、シチュエーションが明かされていき気分を盛り上げます。

二分後に来た君は大袈裟な荷物を携えてきたよう。天体観測に本当に必要なものがなんなのか、あまりよく分かっておらずにやって来たのかもしれません。お菓子とか水筒とか入っていそう。“君”はきっとそれを“大袈裟な荷物”だなんて思っていないでしょう。どうだい、準備はばっちりだぜ。こんな状況・あんな要望にも対応できる、想定できるあらゆる物を持ってきてやったぜ! くらいに得意気かもしれません。あるいは、とにかくわくわくして来ている。“大袈裟な荷物”は期待感の現れだと思います。

“ほうき星”と聞くだけで、何か普通の星とは違う特別な観察価値のある星に思えます。なんとなくで十分物語を演出してくれる名詞が“ほうき星”ですが、ほうき星って実際なんなのでしょう。私はよく分かっていません。

検索して閲覧して良かったのがこちらのサイト。姫路科学館のページをリンクしておきます。

姫路科学館>プラネタリウム>天文情報室>彗星をみよう

ほうき星って、つまり?

・定期的に見られる固有の小規模な天体。突発的にあらわれる、ちいさなゴミやチリのようなものが正体の「流星(りゅうせい、流れ星)」とは異なる。

発見されていて名前がついているものもあれば、まだ未知のほうき星もあるのでしょうね。発見すると自分の名前をつけられるのだとか。

ほうき星は流星とは違って、そこに留まって見えるようです。まばたきしたら見逃した、というようなものとは違うよう。近くで見たら、汚れた雪や氷の玉、岩の塊みたいなものという説明もみられます。遠くから観察する、尾を引いて輝く姿は神々しくありがたいものでしょうけれど、実寸を感じる距離で見たらそんなものなのかもしれません。

ほうき星についての文が長くなりましたが、そんなようなものを探そうとして“天体観測”する、というシーンを描いているのです。

ほうき星を探そうとするのは、ちょっとした天体観測ファンな感じがします。はじめて星空観察をたしなむぜ、という人がいきなり「ほうき星をさがそう」とはしないと思います。主人公や“君”は、ある程度、天体観測というものを共通の話題とする、その道の知識や経験が多少はある仲なのかもしれません。あるいは、天体観測の道へ今日一歩踏み出してみるぜという日なのかもしれませんね。

“深い闇に飲まれないように精一杯だった 君の震える手を握ろうとしたあの日は”(BUMP OF CHICKEN『天体観測』より、作詞:藤原基央)

星が綺麗に見える環境はとにかく暗いもの。街灯や建物の明かりひとつあろうものなら、星空観察の邪魔になってしまいます。それは専門的な天体観測でもきっと同じなのでは? そんな深い闇の中では、自分の身の回りの状況が詳しくわからず怖いもの。場所が“フミキリ”なのでしたら、比較的開けていて足元も良い環境かもしれませんが、暗がりの藪の中なんてものは寝ているヘビのお腹でも踏んで咄嗟に噛まれやしないか(?)などとびくびくするものです。何があるかわからない。確認できないからこそ怖いのです。そんな無防備な場所でヘビが寝るはずもないと、冷静に考えればわかりもするのですけれど。

主人公の感じるのに似て、怖いのはきっと“君”も同じ。震える手は、“君”も主人公と同じように怖いと思っている、それに耐えていることのあらわれかもしれません。“あの日”といっているので、回顧しているのですね。

“見えないモノを見ようとして望遠鏡を覗き込んだ 静寂を切り裂いていくつも声が生まれたよ 明日が僕らを呼んだって返事もろくにしなかった 「イマ」というほうき星 君と二人追いかけていた”(BUMP OF CHICKEN『天体観測』より、作詞:藤原基央)

比喩のタネが明かされます。“ほうき星”は、現在(イマ)の象徴だったのです。ところで、多くの天体はとても地球から遠くにあります。光ですら届くのに時間差がある。つまり、いまこの瞬間に見ることができる天体の姿は、過去にその天体のもとを出発してやっと地球に届いている光なのです。地球から定期的に姿が確認できるすい星(ほうき星)が一体、地球から光の速さでどれくらいかかる場所にあるのか知りませんが、差異の大小を問わなければ、厳密には完全に「イマ」この瞬間の光を、別々の地点に居る者が共有するのはむずかしいのです。距離と時間はとても密接な関係にあります。いくら追いかけても、距離を詰めないことには、その姿の共有にすら、距離のぶんだけの誤差が生じてしまうのです。

この歌詞がそういうことについて言っているとは限りませんけれど、そういう想像も一興ですね。天体を観測して気付いたことや感慨をどうこう話したり、感嘆の声をあげる主人公と“君”の様子が、“静寂を切り裂いていくつも声が生まれたよ”という表現なのでしょうか。あるいはもっと間接的で遠い比喩だとしたら、“見えないモノを見ようとして”とあるように、今はまだ見えないモノがいずれは見えるように(何か目指す所へ行ったり、希望に近づいたりするために)観察や状況の把握、情報収集に努めている最中なのかもしれません。

“気がつけばいつだってひたすら何か探している 幸せの定義とか哀しみの置き場とか 生まれたら死ぬまでずっと探している さぁ始めようか天体観測 ほうき星を探して 今まで見つけたモノは全部覚えている 君の震える手を握れなかった痛みも”(BUMP OF CHICKEN『天体観測』より、作詞:藤原基央)

“天体観測”が具体的にどういうものなのかを少し離れ、話の焦点が哲学にあることを思わせるラインです。幸せの定義ってなんでしょうか。ある人にとって絶対のものは、ある人にとっては取るに足らないもの。星空にほうき星を見つけたからなんだっていうのか? と一蹴する人もあれば、ほうき星の発見を成し得ることを人生の使命とする人もいるでしょう。

哀しいこと、やりきれないことはどうしたらいい? 星空に夢中になっていればその間は忘れることができるのでしょうか? そういう人は、“置き場”を持っているのかもしれません。でも、心労があることで、好きだったはずのことも、大事な人との関係の保持や発展も手につかなくなってしまう私はどうしたらいいの? その解決をずっと探している。こんなわずらわしいもの、どこかに置いておけたら良いのに……。でも、そうした心労こそが、その人を成長に導いてくれる源泉なのです。後悔のタネやつらい経験としての“痛み”すらも、自分が“見つけたモノ”のうち。

“知らないモノを知ろうとして望遠鏡を覗き込んだ 暗闇を照らす様な微かな光 探したよ そうして知った痛みを未だに僕は覚えている 「イマ」というほうき星 今も一人追いかけている”(BUMP OF CHICKEN『天体観測』より、作詞:藤原基央)

状況はいつも厳しく、希望や願いは“微かな光”なのかもしれません。探し続けることには、常に痛みがともないます。微かな光にすら巡り合うことがなかったら? あまり考えたくありませんね。でも信じて続けるしかありません。星空を見続けなかったら、星が見られることはないのです。疲れてしまって俯いていたら、静かな湖面に反映する輝く星を見た……なんてこともあるかもしれませんけれど。疲れ果てて俯くことも、“探し続ける”の一部なのかもしれません。1番のサビでは“君と二人追いかけていた”でしたが、2番では“今も一人追いかけている”。孤独な戦いを前提に、はじめて協力関係がうまれるのです。1番を深め、内省を掘り下げた2番。

“背が伸びるにつれて伝えたい事も増えてった 宛名の無い手紙も崩れる程 重なった 僕は元気でいるよ 心配事も少ないよ ただひとつ 今も思い出すよ”(BUMP OF CHICKEN『天体観測』より、作詞:藤原基央)

回顧を本体としている歌の中で、「その後」を描いた部分。“元気でいる” “心配事も少ない”といった表現から、主人公はある程度“哀しみの置き場”を獲得したり“幸せの定義”を見出したりしつつある、そうした手応えを実感している面もあるのかも。それでも思い出すこととは?

“予報外れの雨に打たれて 泣きだしそうな 君の震える手を 握れなかったあの日を”(BUMP OF CHICKEN『天体観測』より、作詞:藤原基央)

「ただひとつ今も思い出すこと」が、「予報外れの雨に打たれたあの日」だと直前のパートからつなげて読むこともできます。曲の大サビ(それまでにないモチーフを新たに顕す変化の部分。Cメロとも)と、後続の3コーラス目のBメロにまたがった大掛かりな倒置です。“予報外れの……(中略)……あの日を”“ただひとつ 今も思い出す”のです。

“見えてるモノを見落として 望遠鏡をまた担いで 静寂と暗闇の帰り道を駆け抜けた そうして知った痛みが 未だに僕を支えている 「イマ」というほうき星 今も一人追いかけている”(BUMP OF CHICKEN『天体観測』より、作詞:藤原基央)

「見えているモノを見落とす」は大きな普遍。視界にそれは入っている。あるいは少しの注意を向ければ、いつでも「見える」。それなのに、私はそれに気づかない。見える範囲にあっても、認知(知覚)しないと「見えた」ことにはならないのです。挙句の果てには、大掛かりでハイコストなツールを導入してなんとか解決を図ろうなどとしてしまうことすらあります。自分のことを逐一言い当てられているかのようです。天体を透かして私の心まで見ているのでは?! なんて思いますが、反対ですね。私もまた、無数にある宇宙のか弱い天体のひとつ。BUMP OF CHICKENという巨大な恒星をこちらが観察しているのです。

“そうして知った痛みが 未だに僕を支えている”とある。2番のBメロで“君の震える手を握れなかった”ことを、“痛み”と表現しています。ここの3番でいう“痛み”がそれと同一かどうかはわかりませんが、やはりそうした苦い経験や悔しい思いこそが未来の自分の糧であることを伝えてくれているようです。サビの結びは“今も一人追いかけている”。2番のサビの結びを継承しています。

“もう一度君に会おうとして 望遠鏡をまた担いで 前と同じ午前二時 フミキリまで駆けてくよ 始めようか天体観測 二分後に君が来なくとも 「イマ」というほうき星 君と二人追いかけている”(BUMP OF CHICKEN『天体観測』より、作詞:藤原基央)

“君”って結局なんだったのだろうと思います。実在した親密な間柄の誰かかもしれませんが、もっと抽象的で大切な何かしらの存在のようにも思え、グっとくる部分です。“二分後に君が来なくとも”“君と二人追いかけている”。もはや、隣にいてもいなくても、ずっとここ(胸のうち? 心?)にいる何かなのではないかと思えます。ここいにいるんだけど、それ(「イマ」というほうき星)をずっと探している。つまり、主題のとおり“天体観測”で本文を結ぶわけです。

後記

BUMP OF CHICKENは中学生くらいの頃の私の音楽のたしなみの中心でした。たくさん聴きましたしギターを真似ました。歌は高くて(かつ部分的には著しく低くて)難しくて歌えませんでした。

歌詞のテキスト量が非常に多い。言葉がぶわっとたたみかけてきます。あくまで音中心に中・高生のときに聴いていましたが、言葉をとり出して観察・認識を深め、その上で音と一緒に味わってみると、内省の奥行きと音の厚さ・エモーションがぐわっといっぺんに来てウルウルします。直感で好きだった曲を、理屈で捉え直す楽しみを味わいました。

心の内外に広がる宇宙の天体観測を続けます。

長文にお付き合いいただき、ありがとうございました。

青沼詩郎

BUMP OF CHICKEN 公式サイトへのリンク

『天体観測』を収録したBUMP OF CHICKENのアルバム『jupiter』(2002)

『天体観測』ライブ映像を収録したDVD/Blu-ray『BUMP OF CHICKEN GOLD GLIDER TOUR 2012』(2013)。スペシャルMVのゴーグルの人物がジャケットですね。

『天体観測』を収録したベストアルバム『BUMP OF CHICKEN I [1999-2004]』(2013)

ご笑覧ください 拙演