生もの『Let It Be』の魅力

The Beatlesのアルバム『Let It Be』を意識しているこの頃。9月に北米で新しいドキュメンタリー映画が公開される(※2020年7月24日時点の情報)というのも理由としてある。自分の注目の対象と時事を結びつけて、自分が季節外れでないのを言い訳しているだけなのだけれど。

そもそも、いつどんなものにどんな理由で注目しようと自由だ。私は自己弁明をしがち。普通の感覚を持っているつもりで、社会の一員の仮面をかぶる。他方では、社会から消えたい気分になる。優しくしてほしいから優しくするわけじゃない。でも、優しくするから優しくしてほしい。自分が面倒臭い。なんの話だこれは。

話が逸れたけど、音楽は社会と切り離された絶対的な個の存在であってほしいと思うし、でも反面、人々の社会活動の結晶だとも思う。

The Beatlesの『Let It Be』は、彼らのキャリアの最終期のアルバム。その時期のメンバー間や周囲との関係もたぶんいろいろあったのだと思う。それがそのまま形になったアルバム……かもしれない。これが完全で完璧な形だったか? なんて、わからない。それでも、そのときその瞬間を刻んで、問う。足跡を残していく。それを見つけた誰かのために。

バンド、音楽、人間。個も集団の関わりも「生もの」であることを私に強く思わせてくれる。それが、私にとってのアルバム『Let It Be』の魅力だ。

『Across The Universe』聴き比べ

アルバム『Let It Be』の3曲目に収録されているのが『Across The Universe』。

この曲にはたくさんの録音が存在する。

・アルバム『Let It Be』(1970)

厚みのある音作り「ウォール・オブ・サウンド」で有名なフィル・スペクターのプロデュースによるストリングスとコーラス(声)が入っている。暖かく広がりのある音像を感じる。ジョンの声、アコギのコーラス(エフェクト)がかかったようなトーン、ミャウミャウと鳴るエフェクト(ワウ?)のかかったエレキギターも印象的。壮麗で儚い。The Beatles『Hello,Goodbye』を思わせるストリングスの上行メロディでエンディング。

・『Past Masters』(1988)、『No One’s Gonna Change Our World』(1969)

https://spotify.link/VQdqWGoanDb

チャリティ・コンピに収録されたのがこの曲の最初の発表。「バード・バージョン」としてファンに認知されている。その愛称のとおり、オープニングに鳥の声。遠くに人の声も聞こえる。緑の多い公園の風景を想像する。

このバージョン、プライベート・ワークっぽい匂いがして私はとても好き。左に定位したコーラスの女声はなんとレコーディング時にスタジオ前に偶然いたファン(リジー・ブラヴォー、ゲイリーン・ピース)だという。本人たちのセッションに参加できるなんて、「好き」の衝動が余り余って追っかけ回したのが彼女らの幸運。そんなこともあるもんだ。それを掬いあげたビートルズの柔軟で自由な制作にのぞむ方針の賜物か。常に新しい。

右側に定位したジョンのものと思われるコーラス・ボーカルが左の女声コーラスとかけあう。シタールとワウワウいうギターが飾る。アコギもやっぱりコーラスがかった感じの広がりのある音。

私がこの音源を「プライベート・ワーク」っぽく感じる原因は、残響のせいかもしれない。残響は少なめ(少ないほどに業界人は「ドライ」と表現する)。素朴ではっきりとしているけれど、ちょっとぼけた暖かみのある感じの音像。これが、私が日頃取り組んでいる「宅録」サウンドに通ずる部分がある(もちろん、宅録というある種の劣悪な録音環境こそ、実はドライなのに暖かみのあるボケたやさしい音を録るのが難しかったりもするのだけれど)。私が親近感を抱き、好むわけ。ピアノ、シタール、マラカス…ひとつひとつが素直に収録されてミックスされている印象。

フィル・スペクターによる音源は、ビートルズの商業作品として世界のエピック的な面もあるだろう。一方「バード・バージョン」は、いち宅録と音楽を愛好する私に、胸に秘めた森の奥で静かに目を閉じて世界を賞賛しているような気分をくれる。

・『Let It Be… Naked』(2003)

アルバム『Let It Be』のリミックス。でも収録曲も収録順も、オリジナルと変わっている。オリジナルメンバーの音を残して、派手な香りの付加は削がれた。Nakedの名の通り、包みを解かれ、剥がされた印象。残響が冷たい絹のような質感。クリアで芯があって透明なサウンド。映画『Let It Be』に使われた本来のアレンジ・編成? に近いのはこちらだとも聞く。ジョンの声の音像が近く聴こえる。エンディングのフェードアウトは宇宙の深淵を思わせて美しい。硬質な音のシタールを聴いていると、インドの哲学か何かそんなようなものに目覚めてしまいそうな気分になる。ガンジスで脈々と輪廻する命を妄想する。

・『The Beatles (White Album / Super Deluxe)』(1968→2018、アルバムリリース50周年記念エディション)

バード・バージョンには私室っぽさを感じだけど、さらにデモっぽい。ジョンの私室から直接届けられたかのよう。ひとりの人間、点としてのジョンを感じる。そこに親近感があり、音楽愛好の個人として私は神妙な共感と感動を覚える。サウンドの構成はほぼジョンひとりの弾き語り。ミュートのきいた太鼓(バスドラムか、フロアタムか?)が入っているよう。リンゴの演奏か。エンディングでギターストロークの描き込みが増える。オルタネイトピッキングで上下する拳を想像。演奏の止め方が唐突でデモっぽい。裸の曲。素材の良さを味わえる。

・『Anthology 2』(1996)

たくさんの弦がしなやか、きらびやかに絡み、響く。リンゴがスワルマンダルという弦楽器、いわばインドのハープを演奏しているらしい。アコースティックな編成。響きが絡む綾が美しい。

ボーカルが左にずれて定位している。現代の歌ものポップスだったらまずボーカルはど真ん中が99%だろう。ドラムやベースもおおむね、サウンドの核はセンターに置く場合が多い。

ビートルズを聴いていると、そういう現代の紋切り型のミキシングとのギャップがおもしろい。確立されておらず、自由にいろいろ試したんだと思う。彼らがパイオニアだったろう。なかなか私は、自分の録音物でこうした定位をやる勇気がない(必要もないかもしれないが)。けれど、思えば自分がライブに出演するとき、私は必ずしもステージのど真ん中に立つとは限らない。そうした、左右にずれて立ったときのバンドの音像を再現すれば、録音物も自然にそういうことになるはず。なのに、これをなかなかやろうとしない。定型を外れることに怖さでも感じているのだろうか。人は自由だ。私も人のはず。鳥だって人外だって自由だ。

まぁ、録音は録音だから、生でステージを聴くときの音像とは別といえばそう。でも、慣習とか別にいい(いらない、気にしなくていい)のになとも思う。イマジネーションがあれば、そこに向かえばいい。そもそも「想像」するもの自体が固定観念に引っ張られている自分を思う。自分の「イマジン」を改めたいと思った。

宇宙遊行

たくさんある録音、いずれにも魅力がある。曲が生きて、個別に進化している。生物の多様性さながら。

歌い出しの一連の歌詞は、「就寝前にしゃべり続けるパートナー」とのジョンの体験が基になっているとする解説がある。実体験が詩になった。これは表現として強い。もちろん、事実をそのまま著述しても詩としての強さがともなうとは限らない。この世に数多ある真実を、宙から抽出する感じ。名作に多い共通点だと思う。

世界は変えられない? 世界って、いいものなのか? そもそも、いい・わるいじゃない?

世界は世界として、「私の世界」がある。私室みたいなもの。他人のそれは誰にも変えられない。持ち主の意志で手を加えていくしかない。

私の私室は私にしか変えられないが、私もあなたも、世界の私室のメンバーの一人のはずだ。世界の私室を、一人の力で変えるのは難しい。境界を渡り、入り混じり、少しずつ、ときに劇的に変化する。個と集団の対比を思わせる傑作が、『Across The Universe』。

青沼詩郎

参考書
『ビートルズを聴こう 公式録音全213曲完全ガイド』中公文庫、2015、
里中哲彦・遠山修司

Wikipedia アクロス・ザ・ユニバース
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%AF%E3%83%AD%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%B6%E3%83%BB%E3%83%A6%E3%83%8B%E3%83%90%E3%83%BC%E3%82%B9