歌を聴くとき、どこを聴く?

私の知る音楽業界人のMさんは、歌を聴くとき、歌詞を追うという。Mさんは作詞業をしているから職業柄かもしれない。文章やストーリーの整合に厳しい人だ。ほつれやほころびがあると遠慮なく批判する。Mさんの話を聴くのは面白い。Mさんにかかれば、世界的に有名な某人気漫画だっていかに無茶苦茶かを痛烈に暴かれてしまう。

私は歌を聴く時、どんな聴き方をしているか。このドラムリフかっこいいなとか、コード進行は「2514だな」とか思って聴いていることもあるけれど、歌詞に注意することももちろんある。

音楽には歌詞以外にもいろんな要素をみることができる。そのひとつひとつを、取り出すことができる。特定の範囲に意識を向ける認知、あるいは専門性が必要なこともある。たとえば、ある楽器の演奏経験があるからこそ、その楽器の演奏に用いられがちな語彙に気づくこともある。色んな楽器を経験するメリットはそこにひとつ見出せる。

それをメリットと思うのは、私が色んな曲を書きたいからだろう。書きたいというか、「演奏したい」かもしれない。私にとって多くの場合、書くことと演奏することは同時におこなわれる。

私は演奏が好きだ。その演奏を、機械に委ねる音楽もある。プログラミング。打ち込みだ。

私は演奏が楽しいのだから、打ち込んでしまったら楽しいことが機械に奪われてしまう。たとえば、カレーを食べるのが大好きで、「どこにもない自分がつくったオリジナルのカレーを食べたい」という願いのもと、エネルギーを注いで調理に取り組んだ成果の一皿を、機械がガブガブと食べてしまうみたいなことである(喩えがまどろっこしい?)。

もちろん、「食べる」よりも「作る」ことによろこびがあるのならば、ひょっとしたら、その人は機械に珠玉の一皿をガブガブされても幸せかもしれない……ちょっと私には想像がつかないが。

音楽は食べられるし、作れる。両方やったら、一番楽しいと私は考えている。

トニック・ドミナント・サブドミナント

(すでに感づかれているかもしれないが、以上も以下も「役に立つ知識」は書いていない。音楽理論の解説を期待する人は、ほかをあたるように。)

楽しいことは大事だと思う。幸せも大事だ。喜びも大事。楽しいと、幸せと、喜びは、隣り合っている関係かもしれない。和音でいったら、トニック・ドミナント・サブドミナントだろうか。

トニック・ドミナント・サブドミナントは、緊張と安定で説明されることがある。

トニックは安定。ドミナントは緊張。サブドミナントはもうひとつのドミナントで、ドミナントが北極なら、サブドミナントは南極かもしれない。

トニック・ドミナント・サブドミナントを連ねていき、音楽の文章ができる。

トニックは句点にも似る。ひと通り書き連ねたら、トニックで終止する。

トニック・ドミナント・サブドミナントを「楽しさ、幸せ、喜び」みたいなものと表現したけれど、やっぱりちょっと違うかもしれない。ずっと「うれしい!楽しい!大好き!」(さっきと違う?)はありえない。光があるから影がある。苦難や不幸があるから成立するのが、うれしさやたのしさやよろこびだと思う。

だからといって、ドミナントが苦痛や不幸かというのもちょっと違う気がする。やっぱり「緊張」がしっくりくる。緊張したら、弛緩に向かう。

緊張したままどこまでも伸びていったら、どこかではち切れてしまう。緊張の主語がたとえば輪ゴムなら、限界を超えたらぱちんと音をたてて裂けてしまうだろう。

緊張の主語が宇宙だったらどうだろう。どこまでも伸びていって、ひろがって、いつか、どうにかなるのか。収縮に転じると唱える学者もいると聞く。

ところで、宇宙はギュギュっと縮こまるほうがむしろ「緊張」なのではないかと想像する。収縮こそがドミナント説? 宇宙は果たしていま、ドミナントに向かっているのか、トニックに向かっているのか……いや、緊張も収縮もしていない状態こそがトニックなのか。仮に緊張がドミナントなら、収縮がサブドミナントで、どちらでもない中間状態がトニックかもしれない。

ずーっとトニックだったら、それはたぶん「無」だろう。「夢(む)」もちょっと似ているが、話がややこしくなるから思いつきは空に放り投げておく。空に夢の撒き餌。虹みたいなものを想像するが、だいぶ違うか。「触れられない」という共通点はありそうだ。

「無」を空気みたいなもの、と解釈した場合、常に私は「無」に触れてもいる。でもそれは間違いで、空気にもやっぱり正体がある。

無は近いようで遠い。私の反対側にあるものだ。「私」という「有」、「存在」がある限り、無はその裏側。やっぱり「触れられない」というのは真実な気もするが、隣り合っており、無段階の地続きの先にあるものとした場合は「接している」気もする。

私が「接している」と認知したものでも、実は果てしなく遠くにあるのかもしれない。たとえば、今日もし私があなたと接触したり会話したりしたとしても、その接触は「有と無」くらいに遠いものなのかもしれない。

寂しい気もするが、それもまた緊張と弛緩の経過にちがいない。私はいま、トニックかドミナントか、はたまたサブドミナントか。

青沼詩郎