ペーパー・クラフトを取り入れたコンピューター・グラフィックか。緻密で層が複雑。ハイテク感あるがモチーフのちょっとした動きがときに単純で愛嬌やおかしみを感じもする美麗なミュージック・ビデオ。

プログラミング(打ち込み)に思うこと

ボカロ曲は平たい

ボーカロイド曲へのアンチとして思いつく文句があるとすれば、たとえば「音が薄っぺらい」とかだろうか。これは私が心のどこかで思っていることかもしれないし、これを読んでくれているあなたの心のどこかにもある思いかもしれない。

あるいは、そんな文句を聴いたら不快に思うあなたかもしれない。不快になるなんて反応とは次元を異にして「ボカロの良さを何も分かっちゃいない」の意味で「フフン」と軽蔑するかもしれない。あるいはもっと平静に、ただただ「そうですか」と思うだけかもしれない。

その思いの妥当性はさておき、ボーカロイドを用いた音楽への「薄っぺらい」という思いがあるとしたら、それはどこから来るのだろう。早めに誤解、というかミスリードを解いておきたいが、私はボーカロイドを用いた音楽の群れにみられる傾向を「薄っぺらい」とは思っていない。「平たい」が今の私の思いとしては近い。

出力の形式、2Dの写実

ボーカロイドを用いた多くの曲の音像に共通してみられる特徴、それは「平たい」のだ。これは、漫画やアニメーションに似ている。空気を震わせた生演奏を収録した音源は、たとえれば実写のドラマや映画だ。画面に奥行きがある。

もちろん、アニメや漫画でも奥行きを表現できる。ただ、表現の形式として2D(二次元)で出力されるのは共通のフォーマット。

実写だって、もちろん出力の形式は基本的に2Dだ。画面に映してしまえば平らである。だから、厳密にはアニメや漫画と実写のあいだにはっきりとした境界があるとも思えない。実写は、素材(被写体)の時点では立体だというだけだろう。

写実的な絵が世にはある。一枚の紙の上に表現したものでも、たとえば達人の鉛筆画は立体にみえる。スーパーリアルとでもいうのだろうか。たまに口が滑って、現実よりもリアルだとかヘンなことを言ってその感動を表現してしまうこともあるかもしれない。

2Dなのに立体的に見えることがあるのに対して、現実が2Dに見えるということはあるだろうか。ちょっと考えにくいことではあるが、認知をそういうモードにしたらそう見えるかもしれない。何を思ったのか目を細めてみても、その試みは失敗するだろう。薄目にしても駄目だ。簡単なのは片方の目をつむること。あなたに視覚が有効な眼球(感覚器官)が二つあるのであれば。

ドライとウェットと意図の内外

話を戻そう。ボーカロイドは、プログラミングだ。だから、コンピューター上でつくる。つくるというか、その名のとおりプログラムをする。生演奏を収録するのは違う。

指示したとおりに、コンピューター上でそういう音が鳴ることになる。各パートにおいて、そうしたプログラミングをしていく。ドラムもベースもギターもピアノもプログラミング可能で、生演奏は必須じゃない。もちろんプログラミングと生演奏を組み合わせる作品もある。むしろそういうものが多いかもしれない。ギターやボーカルだけを生演奏の収録とする作品は多い。

楽器が振動を生み出して、それが空中を伝わる。その波(“空気のおしくらまんじゅう”というのが音響学の山下充康氏によるピカイチの喩えだ)をマイクが拾う。そうやって現実空間を介し各種機器や配線を通って収録した音源は、ノイズが加わりやすい。意図しない悪者の面。それがノイズ。

いわゆる“ナマオト”には、反響音も収録される。楽器自体に由来する音が、鳴らされた空間でいろいろの物(壁とか人間とか、ほかありとあらゆる物体)によって反射したり、あるいは同じ空間の中にあるものを共振(共鳴)させたりする。

反響や共鳴を含めた結果を意図で満たすのはなかなか高等技術だ。だから、なるべく反響や共鳴を抑えるのが、意図どおりの音を収録しやくする工夫・技術である。残響がないのを「ドライ」、完膚なきまでに排除した様を特に「デッド」と音響に関わる人間は呼ぶだろう。

一方、意図の外側で得られる反響・共鳴・残響を「良し」として受け入れるのもまた意図だろう。重ねていうが、反響・残響・共鳴すべてに及んですっかりデザインし意図通りに収録するのは高等技術だ。意図しない残響・反響・共鳴が入らないように「殺して」しまうのは、それよりはいくぶんたやすいかもしれない(いや、それはそれで苦労が多く奥深い世界かもしれないが)。積極的に反響・残響・共鳴を仕掛ける表現の世界が趣深い。残響づけがあるのを「ウェット」と呼ぶ。

近く、明瞭な音像

まわりくどかったかもしれないが、つまり、主役となるボーカルがコンピューター上で「意図しない音がほぼ入り込まない環境(仮想空間)」で鳴り、それを引き立てる背景となる伴奏(オケ)も便宜上(あるいは積極的なスタンスとして)コンピューター上のみでつくられることの多いボーカロイドを用いた音源は、概して「平たい音像」になりやすい。

「平たい」では私の思いを言い表すのにまだ不足する。平たく、かつ「明瞭」だ。意図の外の音響が入り込みづらいのであるから、自然とそうなる。明瞭で、「近い(耳のすぐ近くで鳴っているような)」音が得られやすいだろう。

これは、楽器の音を収録するときでも、マイクを極力近くに立てることでも得られる。「オンマイク」と音響界隈の人間は呼ぶだろう。

なんだ、じゃあオンマイクとプログラミングの音は似るんじゃないか? そんなことはないとすっぱり言いたい気もするが、それは一理ある。オンマイクで録れば、結果として反響音よりも直接音がより多く含まれ、近い音像の収録が成立しやすい。

表現者と周囲の環境を写し取る音楽

じゃあプログラミングと生演奏の違いは何か。これは、実は、プログラミングのしやすさ(ソフトやインターフェイスの単なる使いやすさを含む)とか、プログラミングできる値の解像の限界値が更新されるほどに近づくだろう。

演奏者は「こう演奏したい」と意図して、その意図どおりの音を現実に再現することを目指す。その精度が高ければ高いほど、意図通りの結果が得られるだろう。だから、プログラミングにおいて「ここはこうしたい」を設定できる解像度が上がれば上がるほど(また、それがやりやすくなればなるほど)、両者の境界はあいまいになっていく。すでにそうなりつつあるかもしれないし、まだまだ両者の距離は遠い気もする。

ここで私の頭に浮かぶのが、やはり「意図の外側を良しとして受け入れる」という意図だ。すべてが意図したとおりのままにはいかない。ありのままがその通りの結果を生むのは、ある意味プログラミングと生演奏に共通する。

すべてにまでは意図の及ばない領域の中で生き、私は演奏をする。私にできる限りのことをするし、できる限りの自分の意図の表現を試みる。それが音楽家としての私の誠意であり熱意だ。同時に、私の意図や誠意はこの世界のごく一部でしかない。生演奏は、演奏者とその周囲の環境までも写し取る。それが魅力なのだ。同時に、それはプログラミングにもあてはまるだろう。

プログラミングにおける意図の内外

プログラミングによる音楽は、環境からの干渉を受けにくい。これがプログラミングを用いた音楽の魅力である。

プログラミングを中心とした音楽は、表現の出力が安定しやすい。これはたとえば、線を引っ張ってキャラクターを表現する漫画制作のワンシーンに喩えていえば、線の太さが一定することにも似る。太くしたいときにはちゃんと線が太くなってくれるが、力を込めすぎてしまって失敗し、線が太くなりすぎたりインクが飛び散ってしまったりすることがない。これがプログラミングに似る。指示を決定し、コンピューターはその指示通りにするだけ。この積み重ねによって作られた音楽は、意図の純度が高いだろう。

もちろん、プログラミングも使い手が習熟しないと、「やり方がわからない」といった単純な欠陥・未熟を理由に意図の通りの表現(結果)が得られないことがある。使い手の理想通りの音が鳴っていないにも関わらず「ま、いいか」とすれば、プログラミングを中心にして作った音楽であっても、(歓迎すべきでない類の)意図の外側はやはり入り込む。つくづく人間がつくるものは、方法や道具が違っても人間的だなと思う。

音楽家の命題

結局、「意図しない音」が入り込み、それが好ましいから受け入れる場合と、「意図しない音」が入り込み、それは好ましくないが、あらゆる側面からの事情を考慮して総合的に「これで良い(良くなくとも、これで行く)」とする場合とがあって、それらが混然一体となったものが、結果として得られる音楽作品だ。

「いや、そんなことはない。自分は100%意図通りのもののみを生み出してきたし、これからもそうする」という人がいたとしたら、私は感服する。ある意味、未来の自分をどこまでその理想100%の音楽家に近づけられるかが、あらゆる音楽家の命題かもしれない。それを目指すのをやめてしまったときが、音楽家の死(の一種)なのかもしれない。目指すこと自体はあきらめていないが、現実がなかなかそうなってくれないのと、目指すこと自体をあきらめたのとでは、いくぶん態度が違ってくるだろう。もちろん、違うのは態度程度のものかもしれない。

ボカロ沼にはまる感覚

また話が逸れたのを戻そう。プログラミングを中心として作った音楽は、表現の幅が安定しやすい。ブレにくいと言えば分かりやすいだろうか。そういうものは、安心して聴いていられる。ボカロ音楽を好きな人が、際限なくボカロ音楽を聴き続けてしまう、すなわち「クセになる」「沼にはまる」感覚が、あるとき私は分かった気がした。

実際、ボーカロイドやプログラミングを中心につくられた音楽をなんでもいいからひとつ検索して聴き、そこから類似のランダム再生をひたすら続けて諸楽曲を聴いていくとよくわかる。きっと、音が近くて明瞭で、(結果として)平たく安定した音像という多くの共通点を持った音楽が、延々と再生され続けることと思う。それは耳に心地よく、ストレスが少ないのだ。

おそらく、これまでボーカロイドやプログラミングの類を中心に用いた音楽を聴いてこなかった人でも、小一時間程度そんなリスニング体験を何度か積めば、好きになってくると思う。何を隠そう、私がそうだったからだ。

もちろん、個人差があるだろう。一発聴いてすぐボーカロイドやプログラミング中心のサウンドの虜になる人もいるだろうし、何度、何時間聴いても好きになったり心地よく感じたりすることのない人もきっといる。

出会いの刺激

プログラミング中心の音楽はどこか、平面の上に白と黒(紙と墨)だけを用いて表現する漫画の表現に似てもいる。紙と墨だけだ、という表現における環境面での安定。それと、プログラミングという手法に由来する環境面の安定が重なるのだ。そうした環境面での安定(ある意味での、制約)を確保して出力される表現に共通してみられがちな特徴を揚げると、「音が近い」「明瞭」「出力がブレにくい」といったことになるのかもしれない。

もちろん、紙と墨でも、白と黒の境界が溶け合ってしまいそうなスーパー・リアル(高解像)な表現は可能だろう。プログラミングを中心に用いた音楽でもそれは同じだ。でも「紙と墨だけ」という手法が誘いやすい表現やタッチの傾向がおそらくきっと存在するように、プログラミングを中心に用いるからこそ生じやすい表現の傾向というのも確かにあるはずだ。

そういう傾向を備えた音楽を好きになることは私にとって、新しく人と知り合うのに似ている。これまで遠ざけてきたある種の傾向を持った人たちとの出会いのようでもある。刺激的だし、冒険に満ちた体験だ。

ボカロPからの歌手

プログラミングを中心に用いた音楽、あるいはそれを背景として発展させた音楽の隆盛はめざましい。先にも触れかけたが、プログラミングをオケに用いて、ボーカルやギターのみを生演奏としたヒット曲が目立つ。2010年前後くらいから現在にかけてその傾向が特に著しいだろうか。ボーカロイドを用いた音源の発表を重ねたのち、自分自身で歌唱したものを発表するスタイルに移行したヒット作家の筆頭は米津玄師であることに同意してくれる人は多いはずだ。影響力を増すとともに、サウンドに占める生演奏の割合が増えるケースも多そうだ。

YOASOBIの超自然

ボーカロイドを用いた音楽をしばらく巡回して聴いたあとに、YOASOBIを聴くと耳のストレスが驚くほどないことに気付く。オケはもちろんプログラミングを主体にしているし、収録されたikuraのボーカルは表現が安定していてプログラミング主体のオケに馴染む。どこまで収録や編集・加工・ミックスの技術の妙で、どこまで生演奏(歌唱)それ自体の技術の賜物なのか判然としない。奇妙なくらいの「非自然さ」を感じる。「超自然」とでもいおうか。これがプログラミングのオケと超自然に臨場している。

2020年の紅白歌合戦、角川武蔵野ミュージアムのお化けみたいな本棚に囲まれた舞台でパフォーマンスした『夜に駆ける』ikuraの歌唱は完璧すぎて機械みたいに感じた。いや、厳密には「機械みたい」というのも私の語彙がひどく不足する。リップシンクなのかほんとに上手すぎるのかすらわからないのが奇妙で、いろんな意味で私の好奇心の的になったのだ。だから、超自然とか非自然といった言葉を私は思った。

題材と観察眼

「小説を音楽にする」とある、YOASOBIのプロフィール。数多の音楽家の迷い種、落とし穴(スランプ)のひとつが、表現する題材の困窮だろうか。何かひとつ、愛や関心の尽きないものを持つのも息の長い音楽家の強みかもしれない。もちろんそれは「好き」とか単純な感情を寄せることのできる対象に限る必要はない。もやもやするとか、気になるもの、疑わしいもの、怒りの種を題材にするのも良いだろう。

音楽家としてはやはり音楽そのものを尽きない愛の対象とするのが私のおすすめで、私の思う素晴らしい音楽家には音楽そのものを愛する態度を感じる例が多い。例として安易かもしれないが、The Beatles、それから大瀧詠一氏の音楽への観察眼や好奇心・研究心は特に見習いたい。気になるものを見つけ、心酔し、特徴を抽出し、徹底的に真似て、自分の中を通して別の出力(似ていてもいいし、特徴を反転させたり、飛躍してまったく異なるものにしてもいい)として表現することだと思う。

「小説」を題材に音楽を生み出すのは、「音楽」をモチーフ(動機)に別の音楽を生み出すのよりは少数派だと思う。それはひとつの独創性への手がかりかもしれない。手法や題材が珍しければ(マイナー、少数派であれば)、生まれるものにも強みとなる特徴や高い独創性を与えうるかもしれない。

もちろん、なんでも音楽から遠いものを題材に選べばいいわけでもない。世界の広さを思うと、小説は題材としては音楽、特に歌詞のあるボーカル音楽とはかなり接点の多い題材だろう。題材選びに関して、あなたの素直な関心の趣きに従うべきだと私は思う。

音楽家と環境

私はYOASOBIを一聴(あるいは多聴)して「これは小説だ」とは決して思わない。当たり前かもしれないが、題材が小説なだけであり、あくまで音楽家としてのバランス感覚の妙で、プログラミングを中心にしたサウンドの地平に耳心地よい表現を成立させている。結果としての出力が、「ひとりよがり」ならぬ「小説よがり」なものでは決してなく、あくまでアイデンティティを確立したポップソングになっている。

ikuraの歌唱とAyaseの曲・詞・音(オケ)からなるYOASOBIというユニットのバランス自体も超自然。「自然とは別次元であり、自然に非ず」とも思うし、「自然すぎて不自然なくらい自然」とも思う。YOASOBIの活躍が大きくなったのも含めて、超自然か。そこには、音楽家(YOASOBI)自身と、それを含めた環境が映り込む。

YOASOBIにしても、意図の外を含めて、生まれるべくして生まれたユニットだったかもしれない。もちろん個人の意図や意志のたまものでもあるだろう。YOASOBIに限ったことでなく、私も、あなたも。音楽家でも、そうじゃなくても。自分と、自分を含めた環境の相互の干渉の果てが、今の世界の姿だと思う。それは自然だし、超自然でもある。

YOASOBI『群青』

『群青』シンガロングへの道と眺望

『夜に駆ける』ほかデジタル・シングル曲を多数収録したYOASOBIのアルバム『THE BOOK』(2021)。あなたがもし『夜に駆ける』のみを中心に認知している私のようなYOASOBI初心者だったらば、ぜひ『群青』を聴いてみてほしい。複数のシンガーによるシンガロング(音楽ユニット・ぷらそにか(PLUSONICA)メンバーらによる歌唱とのこと)を取り入れ、ikuraの超自然ボーカルとプログラミング中心のサウンドに幅と奥行きを与えている。クラップ(拍手の音。0:25頃〜ほか)、舌を打ったような「コロン」という音(随所)、くちびるをブルブル震わせたような音(2:14頃)など、肉体をイメージさせる音の情報量が多い曲だ。

コンピューター上を中心に練った音楽作品は、その手法に由来して特有の私的・閉鎖的・孤立した空気感を帯びやすい。『群青』はYOASOBIなりのバランス感で「次へ行ったな」と思わせる。たとえばサッカーアンセムのような連帯・共有感を漂わせ、エンディングではオケをブレイクして裸にしたシンガロングでカットアウト。この記事を私が書くきっかけを与えてくれた印象的な意匠だ。

YOASOBI『群青』と漫画『ブルーピリオド』

嗚呼いつもの様に過ぎる日々にあくびが出る

さんざめく夜越え今日も渋谷の街に朝が降る

(中略)

知らず知らず隠してた本当の声を響かせてよほら

見ないフリしていても確かにそこにある

感じたままに描く 自分で選んだその色で

眠い空気纏う朝に訪れた青い世界

”(YOASOBI『群青』より引用、作詞・作曲:Ayase)

山口つばさの漫画『ブルーピリオド』の主人公、矢口八虎は、ふるまいと内心に振れ幅のある青年に思える。要領がよく、愛想もあって、人間関係をうまくやれる面がある。絵を描き始めるまでの彼は、良くも悪くもそれで「やれてしまう」、乗り切れてしまっていたともいえる。

アーティストの創作の原風景というものがあるとして、矢口八虎のそれは、明け方〜朝の渋谷なのかもしれない。彼はそれをで表現する。彼の表現を形容したらだったというだけかもしれない。

矢口八虎が身の周りの環境と折り合い、なんとなくうまくやれてしまってきた(世渡りとでもいおうか)その暮らしで通ってきた風景の中で、心の中のある比重を占めていたのが「早朝の渋谷」だったのか。彼はその風景を好んでいるようだし、きっと大事に思っている。

高校の美術の課題で、絵のモチーフに選んだ早朝の渋谷。その表現の入口・出口としての“青”。

うまくやれてしまう要領の良さを備えた主人公・矢口八虎が、自分の根底、本心に添う題材は何かを出力した最初の体験が、このときの彼の高校の美術の課題だったのかもしれない。

ここを物語の出発として、矢口八虎(ほか魅力的な登場人物)と美術の二つの軸で漫画『ブルーピリオド』は進行していく。

YOASOBIの『群青』は、この『ブルーピリオド』が発想の題材だという。上に引用した歌詞は、ここに記したように、『ブルーピリオド』の物語が動きだすシーンをよく映しとっている。私自身『ブルーピリオド』のファンでコミックスを収集しているので、『群青』がまっすぐに『ブルーピリオド』の物語の世界や主人公の心を抽出しているのが伝わってくる。個人の葛藤の物語である面をプログラミングのオケやリードボーカルが映し、群像の青春の物語でもある一面をシンガロングやクラップのトーンが表現して思える。

私の生演奏びいき

肉体をイメージさせる音を多く含ませた楽曲『群青』が、YOASOBIが放った曲の中では特に私の関心を引いた点を思うと、やっぱり私の趣味・嗜好は「肉体びいき」なのかもしれないと改めて思う。

さんざんプログラミングやボーカロイドがうんぬん長々書いて、結局私は「生演奏びいき」だ。

もちろん、何度も書いたかもしれないけれど、プログラミングだって、誠意と熱意を持って徹底的に仕込めば、生演奏との境界は無段階に消えていく。どこかで凌駕すらするかもしれない。演奏という広義の中にプログラミングも含まれるのだ。

一発録音が主旨の名物コンテンツ『THE FIRST TAKE』の『群青』。複数のシンガーの声の線、綾がより生々しく伝わる。打ち込みの基盤と生演奏の臨場感のいいとこどりだ。
『群青』の英語歌唱版『Blue』。シンガロングももちろん英語。

青沼詩郎

YOASOBI 公式サイトへのリンク

YOASOBIの『THE BOOK』(CD)。2021年発売。

YOASOBIの配信シングル『群青』(2020)。

山口つばさの漫画『ブルーピリオド』コミックス(講談社)。2017年から月刊アフタヌーンに連載中(2022年時点)。

『Blue』を収録したYOASOBIの配信作品『E-SIDE』(2021)。

山下充康の『謎解き音響学』(2004年、丸善)。私の母校(東京音楽大学)に私が在籍した頃(2006

年〜)に音響学を担当していた教員で、音を“空気のおしくらまんじゅう”とするなど柔和なしゃべりや物言いが印象的な講義をしていた。この『謎解き音響学』が授業における教材だった。