まえがき 舞い込んだ月の種

私の妻はフルーティストで、彼女の生徒さんがレッスンの題材に色んな曲を持ってくる。生徒さんの中にはアカデミックにクラシックの道を邁進するというよりは、ポピュラー曲に親しみつつフルートの演奏技術を身に付ける志向の人もいるようだ。

楽しく学ぶうえでも、締切りがあったほうが良い。いつまでに、どこまで深くその楽曲を学び、表現を追求できるか。演奏が趣味であってもなんでも、期日のイメージ、発表の出口を設けると良い。その扉は、出口であると同時に入り口である。期日までにやり切ったぶん、さらに向こうの表現への切符が手に入る。

そんなわけ(内輪の縁)で、フルーティストの生徒さんの伴奏を私が務めさせてもらうことがある。これもまた、世の人と音楽の接点を、価値観のズレた私が認める貴重な機会でありがたい。

1980年代~1990年代くらいの日本のボーカルミュージック(歌もの)を中心にポピュラー志向のある生徒さんが近々フルートで吹くのが『Fly Me To The Moon』だ。発表会で、私がその伴奏を担当することになった。

伴奏の侶

Nat king Cole Sings/George Shearing Plays(1962)収録『Fly Me to the Moon(In Other Words)』

ポロロと儚げなピアノソロで幕を開ける。ナット・キング・コールのシルキーな肌ざわりのむこうに魂の熱さを透かす歌声がやわらかく漂う。ストリングスの重複する輪郭が感情に揺らぎを添え夜風を吹かす。ベースがポン、ポン、と寂しげに短く嘆くようにルートの杭を打つ孤独感に胸が締め付けられる。サワサワとドラムスのブラシは夜風を受ける草木の噂話か。ピアノのバディはヴィブラフォン、音型に帯同するフレーズで、ホワンと温かに寛ぎ感を匂い立てる。月の光る夜にリヴィング・ルームで親密でスローな時間を過ごした記憶のひとつでもあるのならば、瞼の奥に流れるのは回顧のフィルムか。しめやかなピアノトリオとボーカルを基調に楽団が視界を拡げ、夜の色彩の天井に底に、星みたく街灯りをまき散らす。

街灯り。天井なのか、底なのか

言い換えれば、というウィット

その“おにぎり”は当たり前じゃない

歌詞を引用して『Fly Me to the Moon(In Other Words)』の言葉の情景に浸り、味わいに酔ってみる。

“Poets often use many words to say a simple thing

It takes thought and time and rhyme to make a poem sing

With music and words I’ve been playng

For you I have written this a song

To be sure you’ll known what I’m saying

I’ll translate as I go along”

(『Fly Me to the Moon(In Other Words)』ヴァース部分より引用、作詞・作曲:Bart Howard)

端的に真理をつく冒頭のラインにドキリとしてしまう。いつの間に私は詩人(“Poets”)になったつもりでいるのだろう。

唐突だがここにひとつ、大きなおにぎりがある。おにぎりはお米と海苔と具でできた、携行や作り置きに向く素晴らしい万能食だ。その原材料はどんなもので、いつどこからどんな道筋でここにやってきたのか。流通におけるあらゆる人の手を渡る旅の末、指揮棒を振るうみたく魔法の力でひとつにまとめ上げるあなたの仕事、生命の豊穣の象徴が私の目の前にあるでっかいおにぎりだ。

まどろっこしいことをいっぱい述べたが、食べたらウマい

どうだろう、簡単なことのために言葉を尽くす例を演じようとした努力くらいは汲んでいただけるだろうか。

言葉は最大の発明品で、秒で共通の観念を示し合える、代謝する財産だ。“おにぎり”と聞いたら即時、きっとあなたの頭に“おにぎり”の観念が立ち上がるだろう、おそらく、あなたが日本人であれば。

でも、個別の言語表現の意味の幅を、一人ひとりが多様に持っている。言葉は諸刃の剣というか自分を映す鏡のようなもので、楽チンこいて使うとその分受け手も楽をして大雑把に解釈する。

意思や感情の広がり、多様さ・豊かさ、そのディティールを示したければ、それだけ言葉を尽くして、個別の言語表現のポテンシャルを掛け合わせにするべきだ。あなたの無限のディティールを秘めた思想・信条・感情・命のありようを解き放つも胸に秘めて朽ちるのも、あなた次第なのだ。一言すれば“おにぎり”だけど、それはどんな“おにぎり”なのか。具に、おにぎり全体に、いかにして“愛”を握り込んでやろうか。

おにぎりは山の擬態だとか

愛を示すディティールの幅

言葉はコミュニケーションのやり方のひとつにすぎない。

・「あなたを愛している」とその場で告げる

・「あなたと一緒に食べるための味噌汁を生涯作りたい。愛している」とその場で告げる

・上のせりふを告げたうえで、有言実行

・無口だけど、何十年間もずっと味噌汁を作って一緒に食べるかけがえのない仲でいる

上のいずれもが、愛を示す言動で括れるのかもしれない。しかし、そのディティールに幅があるのはお気づき頂けると思う。言語を用いた表現形式の“詩”において、詩人は限りない語彙を繰り出し表現に尽くす。ソングライターならば、音そして言葉だ。ソングライターはソングライティングに命を燃やし尽くす。そのソングライターの固有の物語(人生)において、彼やら彼女やらが出会い・経るすべてのものが作品に反映される。言葉や音符の奥のディティールを無限にすべく歌い、演奏する。ソングライティングを通して人生を謳歌する生き物である。

作詞・作曲の賜物に命を見出すのはユーザーの使命でもある。銀幕に映し出される物語の奥を見てほしい。スクリーンの奥は言い換えれば(視点を入れ替えれば)“こちら側”である。スクリーンから見たら、観覧者たちは各々の想像によって、自身の頭の中に固有の物語を成立させている。一本のフィルム(仮に)『Fly Me to the Moon(In Other Words)』を鑑賞した体験ぶんの、あるいはそれ以上の物語がユーザーの方に刻一刻と生じている。月に届きそうな広がりだ。

届きそうな高さに感じることがある

あらゆる可能性を試す愛 〜あるいは金星の春〜

“Fly me to the moon, and let me play among the stars

Let me see what spring is like on Jupiter and Mars

In other words, hold my hand

In other words, darling kiss me

Fill my hert with song, and let me sing forever more

You are all Ilong for all I worship and adore

In other words, please be true

In other words, I love you”

(『Fly Me to the Moon(In Other Words)』コーラス部分より引用、作詞・作曲:Bart Howard)

月に行くのは大変なコストだ。人類がかつて到達したとはいえ、一般の地球の民が最寄りのコンビニに行く感覚で月の土を踏むのは難しい。でも紡ぎ出す物語の中で、思想を星間に撒き散らす自由がある、私に、あなたに。気象条件(どころかもっともっと何もかも……)の異なる惑星の春を想像するのも、それを問うのも。

名前も知らないその辺のコンビニの店員さんに異惑星の春を問うにはシビアな文脈、コミュニケーションのリテラシーが要る。店員さんは店員さんの都合で働いている。接客の使命を負うとはいえ、異なる星に寄せるイマジネーションの話に愛の溢れる言葉を返すほどのサービスは過剰である。もちろん本人の積極的な意志でそれをするのは咎めないし、特別な仲のコンビニ店員と客が存在したっていい。私がそのコンビニを利用する際、必要最低限の業務をこなしてくれさえすれば(コンビニ店員の雇用者がそれを認めるかは別の話だが)、私は支払いを済ませた商品を持って自動ドアを出られる(無人レジもあるだろうが)。

(コンビニで買いがちなもの代表)

この世界のどこかで、このへんちくりんな長文を読むあなたに愛の宇宙を伝えたくて私は働いている。歌うことは必ずしも愛の告白ではないが、歌を通して愛を伝えられる可能性がある。あらゆる可能性を試すこと自体が、愛を伝える手法なのだ。最短距離で愛は伝わらない。たった今はじめて会ったコンビニ店員さんを見た瞬間に“愛しています”は嘘だ……いや、それも私の価値観をひっくり返す奇天烈なラブストーリーの芽生えだろうか。

目を疑うような愛の形に私は興味がある。言い換えて、言い換えて、言い換えていくうちに、月の裏の民もびっくりしてラブレターを返信するかもしれない。木星や火星の民に地球の春を語って欲しい。私もそれをしていよう。ねぇ、金星の春ってどんなだろう?

Fly Me To The Moon (In Other Words)の多様

宇多田ヒカル Fly Me To The Moon (In Other Words)[2007 MIX / 2021 Remastered]

きらびやかなお伽の世界を立ち上げる、彼女のオリジナル曲かと思わせるリッチで清涼感あるヴァース。遊戯の城を思わせる揺らめく6/8拍子感。

ウワモノ系のサウンドのみを連れてコーラスにたどり着くと、ようやく私の記憶の中のFly Me To The Moon (In Other Words)が呼応する。弾けるように跳ねるグルーヴが快い、宇多田ヒカルの得意な筋を思わせる都市型R&Bの調べ。短くルートを置くベースは先述したNat king Cole Sings/George Shearing Playsのものを私に思い出させると同時に異星からの転生かと惑うほどに別物。

1:52頃からのストリングスのエモーショナルなアルコが光の尾をこぼしステップを刻む。宇多田ヒカル初期のヒットシングル『Automatic』を思い出させるスキャットがストリングスと戯れながら月にキスしそう。そのままコーラスの後半かつ主題の“In Other Words”以降のラインを再現し、儚く孤独な響きを残すエレクトリックピアノのトーンとともに夜の吐息に吹かれてふわっといなくなってしまう。

シングル『Wait & See ~リスク~』(2000)にカップリングされたのが最初で、“2007 MIX”はシングル『Beautiful World/Kiss & Cry』(2007)に収録された。

高橋洋子 『EVANGELION FINALLY』(2020)収録 YOKO TAKAHASHI Acid Bossa Version

ウッドブロックを電子化したみたいなトーンのイントロ。サワサワと打楽器小物(シェーカー?カバサ?)がニュアンスをつけた語句を一心不乱に唱え続ける。電子のリズムのアクセントはコンガに憑依、ヴァースを省略しコーラス部分を扱う構成で歌がはじまる。極限まで歯切れの良さを研ぎ澄ませたギターのピッタリしたカッティングがエロティック。オブリガードのフルートが素早いフレーズの重奏でハーモニーを決める。間奏の語り部もフルートで、蓮の葉を踏むみたく舞い、軽やかに滞空しソワソワと浮遊する和音進行の斜め上で風に乗る。アコースティック・ベースはねっとり・たっぷりとした質量感でウラ拍をズンズン攻める。

オープニングとエンディングの“I Love You”のウィスパーが軟弱者の意志を振り回す小悪魔感。脳の規律を崩壊させ炎天下のチョコレートみたくドロつかせてしまう。おまけにコーラス明け~間奏の余白に“Kiss Me Please”の缶詰投下。理性が音を立ててプルタブとともに抜けてしまう。ねっとりと扇情的にも、風のように颯爽とも感じられる。空いた加工食品の容器の散らかった部屋に住む美人の趣である(迷言)。

『NEON GENESIS EVANGELION』(新世紀エヴァンゲリオンのサウンドトラック、1995年)がFLY ME TO THE MOON(YOKO TAKAHASHI Acid Bossa Version)最初の収録盤か。新世紀エヴァンゲリオン関連のサントラ・コンピの数の多さに驚く。

Astrud Gilberto『The Shadow Of Your Smile』(1965)収録

マネキンが歌っているのかと惑うほどに抑揚の小さい平坦なボーカル。マネキンのほうが高らかに歌うかもしれない。ノン・ビブラートで、息が真っすぐ柔らかくカーテンの隙間からこちらへ抜けて来るようである。朝食に味噌汁を啜るくらいの造作のなさで“Darling kiss me”。“ちょっとそこのたくあん取ってくれる?”ならまだ分かる。

エンディング付近の“Please be true”の上行跳躍の軽やかさは白米の湯気にしなる味付け海苔の如し。リズム感が独特でマイペースにふわふわと、食後に髪の毛を手持ち無沙汰な指にからめる無垢さで言葉を滑らせる。酢に浸かった煮干しみたいな背骨の柔らかいボーカルをエスコートするのはトロンボーンか、車道側に立ちフランクかつ丁寧な言葉で気遣うさりげないポルタメント。オープニングとエンディングのボーカルのスキャットとのユニゾンの運命共同体感は卵かけごはんに文句のつけようがないのに似る。

Bobby Womack『Fly Me to the Moon』(1968)収録

パキパキとしたアタック、芯のあたたかみある重心の低いトーンでベースとアルペジオを同時進行するギターソロのオープニング。1:33頃にも存在感あるこれに似たキャラクターが顔を出す。熱いシャウトを見守るストリングスが感情の水面を高め、ホーン・セクションはお気に入りの穴場にたむろする。絹のような夜の色をはじけるオレンジ色に塗り替える異色のカバーが熱い。夕暮れにハイタッチしたくなる。

Frank Sinatra , Count Basie『It Might as Well Be Swing』(1964)収録

ノーネクタイにジャケットで王道を行くような気の利いた恰好良さ。要所でリズムやメロディをフェイクしつつ、ダウンビートの決めどころを押さえスウィングする。私に築かれるFly Me To The Moon (In Other Words)の認知、そのアイデンティティの大部分はこのパフォーマンスに由来しているようである。ウッド・ウィンド、ホーン・セクションにベースにドラムにピアノと全部入り、最前面のボーカルの堂々たるや、堅牢で盤石に遊ぶエンターテイメントの要塞か。楽団とボーカルの幅広なダイナミクスと富んだニュアンスが素晴らしい。

Kaye Ballard – In Other Words (Fly Me to the Moon) (1954)

余裕と貫禄のソファで色情たっぷりに愛を熱弁する堂々の歌唱に頭が下がる。ストリングスのほろ苦さ溢れる非和声音づかい、洒落たテンション感の仕業なのか、悲壮・悲痛な感情をロック・グラスの中で蒸留酒と解かすやるせなさ。愛の満ちた湯舟で足を伸ばすようなものまで含む後年のカバーが醸すFly Me To The Moon (In Other Words)のイメージの幅を思うと、孤高を映す寂しげな曲想に思えるが要所・瞬間毎の弛緩する和音、木管楽器の柔和な響きが絶妙にバランスをとる。ため息の似合う耽美の極致。

最初に『In Other Words』を録音発表したものがKaye Ballardだという。拍子が私の記憶の中で嵩を占めるフォー・ビート調のFly Me to the Moonと異なり、こちらがより元の『In Other Words』の姿なのだろうが、不思議と記憶の内容物と響きあい、調和して楽曲のアイデンティティを強める。

未完の言い換えのつづき

ヴァース部分を省略し、コーラスのみを繰り返す形のカバーが多く生まれている。コーラス部分の、天と地の間を大胆なまでの滑らかさ・おおらかさで謳歌し大衆にフィットするメロディはトントンと跳躍し反復するルート(根音)や刻々と緊張・弛緩するハーモニーを誘い、宇宙遊泳の如し心地良さ(想像)。コーラス部分を中心にカバーしたくなるミュージシャンの気持ちは良く分かるし、その実情もまた楽曲が作者の元を離れて大きくなる好例だろう。

『Fly Me To The Moon (In Other Words)』っぽいメロディとコードの例。安定した波のような順次進行がキレイ。ベースや和音も映える。それでいて究極にシンプル。

一方で、原曲の主題かつコーラス部分を結ぶ決め句“In Other Words”からして、ヴァース部分(導入)の歌詞の重要性を思い知ったのもこの本文が示すところ。

詩人は言葉を尽くし愛の端から端までを駆け渡り、一生をまっとうする。己の命を言い換えて言い換えて、言の葉を幾重にも散らしようやく愛の樹が根を伸ばす。一遍の詩が、ラブソングの一つひとつが、和音を積み上げるように言い換えを経て高められ、その樹葉の繁茂する様子に至る。幼樹を、芽を、種を、土を想像する真の味わいに感動する。

あなたも書きかけの物語:In Other Wordsの続きをどうぞ。

青沼詩郎

参考サイト

Wikipedia > フライ・ミー・トゥー・ザ・ムーン

歌ネット > 宇多田ヒカル Fly Me To The Moon (In Other Words) -2007 MIX-

伊藤アイコ OFFICIAL WEBSITE > FLY ME TO THE MOON > 確かで独自な歌詞の解釈に、か細い英語力の私と楽曲との縁をつないでいただいた思い。ご自身もシンガーの伊藤アイコさんのサイト。

まいにちポップス(My Niche Pops)>「フライ・ミー・トゥー・ザ・ムーン(Fly Me to the Moon)」フランク・シナトラ(1964) > 作曲者のバート・ハワードことハワード・ジョセフ・グスタフソンについての詳しい生い立ちと、筆者の推理を交えた『In Other Words』が『Fly Me to the Moon』として浸透していくプロセスの考察が参考になる堀克己さんのブログ記事。ブログタイトルからして鋭角で深い・高い趣味性がうかがえニヤリとさせる。

『Fly Me to the Moon(In Other Words)』を収録した『Nat king Cole Sings/George Shearing Plays』(1962)

宇多田ヒカルの『Fly Me To The Moon(In Other Words)』を収録したシングル『Wait & See ~リスク~』(2000)

宇多田ヒカルの『Fly Me To The Moon(In Other Words) (2007 MIX)』を収録したシングル『Beautiful World/Kiss & Cry』(2007)

『FLY ME TO THE MOON (YOKO TAKAHASHI Acid Bossa Version) 』を収録した『Evangelion Finally』(2020)

『Fly Me to the Moon』を収録したAstrud Gilberto『The Shadow Of Your Smile』(邦:いそしぎ)(1965)

Bobby Womack『Fly Me to the Moon』(1968)と『My Prescription』(1970)の併録盤

Frank Sinatra , Count Basie『It Might as Well Be Swing』(1964)

ご笑覧ください 拙演(YouTubeへのリンクShiro Aonuma @bandshijin『Fly Me to the Moon(In Other Words)ギター弾き語りとハーモニカ』)