作詞・作曲:浜口庫之助。マイク眞木のシングル、アルバム『バラが咲いた / マイク真木 フォーク・アルバム』(1966)に収録。とてもシンプルな編曲は小杉仁三。ザ・フォーク・クルセダーズ『イムジン河』『悲しくてやりきれない』の編曲を「ありたあきら」名義で担当したのも小杉仁三さんとのこと(参考Wikipedia)で、納得感。

マイク眞木の可憐な歌唱に深い感動を覚えます。

正直な話を告白すると、かつて私は『バラが咲いた』に、「はじめてのギターの弾き語り学習者向けのやさしすぎてつまらない曲」のようなイメージを抱いていました。ずっと前の話です。

ドードドドーレ、ミーミミミーファ……(“ばーらがさいた、ばーらがさいた……”)と、完璧なまでの順次進行をもつ歌メロディ。順次進行は、なめらかで優美な印象を与えうることを『バラが咲いた』は教えてくれますが、同時に、やさしすぎて物足りなさを感じさせることもある予感を私にもたらしました。

そこで、このマイク眞木の可憐な歌唱のニュアンスです。楽曲がとても平易で、なめらかがゆえに、歌唱の繊細な機微がいっぱいに伝わってきます。アクロバティックで複雑高等な楽曲では、こうした機微を表現するのはだいぶしんどいものがあるに違いありません。「歌声」それ自体が、ボーカルミュージックにおいて、いかに重要な要素であるかを深く思い知らされます。

どこで聞いたのかも忘れた根拠もわからない話なのですが、「一般のリスナーはほとんど歌しか聴いていない」みたいな話を耳にしたことがあります。作曲者や編曲者が音楽上の意匠にいくら腐心し身を削っても、リスナーが持って帰ってくれる印象のほとんどはシンガーの表現、声やことばなのでしょう。

もちろん、そのシンガーがパフォーマンスするボーカルメロディはほかでもない作曲の範疇ですし、作詞も作曲も編曲も、すべてが等しく機能し合って、全体の美が醸し出される……と、まがりなりにも私自身作詞作曲編曲するはしくれとしてつい擁護したくなるのですが、現実は私の認識とはやや異なるのでしょうか……編曲や作詞作曲が良いからこそ、一般のリスナーが主役のシンガーのパフォーマンスの魅力を十二分に堪能できるものと思うのですが……。

それ以上に、歌詞を、言葉を、その意味を重点的に追うリスナーもいるようです。私は主役(ボーカル)の表現と同列に、編曲も作詞の妙味も全部を聴きたいとはもちろん思っているのですが、音楽上の意匠や各パートの演奏、コード進行などの楽曲構造にも注意を割きがちなので、歌詞に注目するときは、そこのみに注意を絞ることを意識的にやって鑑賞する場合が多いです。

話がそれてしまったかもしれません。マイク眞木の『バラが咲いた』はアレンジもとてもシンプルで、伴奏のほとんどは2本程度のギターが担っている様相ですので、そのぶん歌に注意を絞りやすいパフォーマンスになっていると思います。

なんとなく、初級の学習者向けで地味な曲だな…と思っていた頃の私は、マイク眞木の歌声でこの楽曲を味わったことがありませんでした。何ではじめてこの楽曲を私が知ったのかはもはや自分でも特定できませんが、数多の歌本や教則本や教科書・教材の類に『バラが咲いた』が掲載されているのは事実で、マイク眞木の歌声を通さずに楽曲を初めて認知する人はきっと私だけではないでしょう。もちろん、『バラが咲いた』がはじめて発表されたときに若い世代だった人にとっては、その意見は考えにくいものなのかもしれません。

バラは心の中に咲くものであるとするイノセント(無垢)で純朴な曲想は、多くの人が自分を映す鏡の役割を果たすのかもしれません。自分の思ったことを代弁してくれたり、自分が思ったり経験したとしてもなんら不思議のない、あったかもしれない未来・過去をリスナーに感じさせたら、その歌はひとつの大成功だと思います。

青沼詩郎

参考Wikipedia>バラが咲いた

参考歌詞サイト 歌ネット>バラが咲いた

『バラが咲いた』を収録したアルバム『バラが咲いた / マイク真木 フォーク・アルバム』(1966)

ご笑覧ください 拙演(YouTubeへのリンクShiro Aonuma @bandshijin『バラが咲いた(マイク眞木の曲)ギター弾き語り』)