超有名人の固有名詞が印象的に用いられた楽曲。アルバム曲なのですけどかなり私の印象に残っています。B面曲っぽくもあるのですがそれもとも乖離した個性を感じます。
バンドっぽくはないですね。打ち込みのリズムが恒常なビートを出します。クラップの音がカチャッと入る。いいアクセントです。
2本のアコギがそれぞれのリズムでビートを出します。これが基調になっていますね。真ん中らへん、ボーカリストが弾く位置付けを感じる定位の、カポをつかったハイフレットの開放弦のチャカチャカした愛嬌のある響きを出すギター。右に定位した、低域の完全音程をガツンとだした、土臭くてパワーのある響きを出すギター。ハイフレットは「●・・● ・・●・」的なリズム。右寄りの低域ギターは「●●・● ●●・●」的なリズムを感じます。ふたり組くらいのアコースティック編成で、二人でギターを弾き語っても魅力が伝わりそうな楽曲です。それこそ桜井和寿さんとスガシカオさんの二人だけ、とかのライブ演奏があれば見てみたいものです。
プログラミングのようなピコーンと帯域の限定された、余韻の長くておおらかな動きをするカウンターラインが印象的です。少しあとのコーラスから入ってきますね。これが、どうも定位が少し動いて感じるのは気のせいでしょうか。非常にかわいらしく、輝きを添えるアクセントになっています。生楽器ならグロッケンなどが担うべき役割だと思いますが、生楽器の複雑な倍音やダイナミクスではかえってこの「コンパクトでインスタントな良さ」を出すのはむつかしいでしょう。「テレビをつければ簡単に会えた超有名人」と「主人公の私生活・性活」をかけあわせたような妙味を持つこの楽曲において、シンプルなアコギと、リズムやカウンターラインのプログラミングの掛け合わせた編成は非常に意匠の相性が良いと思います。
ストリングスのボウイングがまた良い肉薄感を出しています。プログラミングがいるので、ストリングスのフィジカルっぽさがないとかなり寂しいアンサンブルに陥るかもわからない、繊細なバランスの楽曲であるようにも思います。このストリングスが、単一の線なのがまた良いですね。ポップソングにありがちなのは圧倒的に集合音です。右側に低いパート、中央〜左寄りにちょっと上の音域のパートが「1本ずつ」いる感じです。長いボウイングと、短い刻みによるリズムや分散和音。楽曲に起伏を与えるます。わびさび、寂寥を感じさせるサウンドです。
アタックのほとんどないようなおばけみたいなサウンドの鍵盤もののダウンビートは、リバース加工のイメージでしょうか。メロトロンで鳴らしたフルートの音を逐一リバースにしたみたいな、やわらかくてあたたかい音で、盛大に脇役なポジションですがこのシニカルある楽曲を愛嬌あるポップソングとして肉付けする意味で重要なパートに思えます。
間奏のピアノがまた絶妙で、達人が鬱を発症しつつ、迷いながらもうろうろと和声音と和声音のあいだをさまよいながら独りで歩こうとしているような、心と体が離れていく最中を描きつつギリギリの線で調和をとったような趣があります。酩酊しているような、ダウナーになるダメなやつが決まってしまいながら夜中に弾いたような、舌っ足らずなパッセージが癖になります。
“きっと ウルトラマンのそれのように 君の背中にもファスナーが付いていて 僕の手の届かない闇の中で 違う顔を誰かに見せているんだろう そんなの知っている”
(『ファスナー』より、作詞:桜井和寿)
モチーフづかいと光陰ある感情の幅の描き方、その重ね合わせ方が天才的です。
誰と会っていると、自分はどんな奴になるのか。ある人が、ある人の何かしらの面を引き出す傾向もあると思います。まじめで良い奴でもあるんだけど、アイツとアイツがつるむとロクな事にならないんだよなとか、そういう「クラスメイトあるある」みたいなものをふと想像しもします。
なかなか、誰と関わり合っても、不動の自分でいられる……という芯の通った人間でいるのはむつかしいものでしょう。誰かの前で、ほかの誰かの前では見せられない面を見せて生きている。そういうあっちこっちでの不均衡、矛盾の集合体がひとりの人間なのです。
ファスナーをそのトリガーにして、さまざまな矛盾する外面、ソトヅラを着脱して生きる、誰もがウルトラマンであり仮面ライダーみたいなものなのでしょう。その着脱可能なソトガワの内側にあるものが、ほんとうのあなたや私なのでしょうか。それを、完全に最後まで脱ぐ事って、いったい人生のどんな局面で? 極論、最後の最後まで、私たちは、生まれ落ちて間もなくしてから、何かしらの「ガワ」(参考:ピクシブ百科事典)をうっすらまとってしまうようにも思えます。うっすらしたオブラートのようなものから重厚な甲冑のようなものまで、ありとあらゆるガワを獲得して重ね合わせにした存在が、あなたや私一人ひとりであるようにも思います。
だから、ファスナーで着脱可能なその「ガワ」もある程度含めて、あなたや自分自身を敬い、愛して接してあげることが必要なようにも思える……それを示すような最後のライン、
“惜しみない敬意と愛を込めてファスナーを…”
(『ファスナー』より、作詞:桜井和寿)
が至上のオチをつけています。いえ、ある意味オチをつけていない。「ファスナーを…」なんなのでしょう?「…」に省略、割愛されたものは? ファスナーを「おろす」、すなわち「ガワ」を取り払うことなのか、あるいはファスナーを「あげる」……「ガワ」をまとうことなのか? あるいは、ただただ「ガワ」自体に観察の視線をやることなのか。その総意を私は感じます。そのあたりが、愛であり敬意であると思うし、最終的には生の肯定であり、Mr.Childrenがすべてのレパートリーを通して放つ渾身だと思うのです。
生は死の裏返しであり、始点と対になった終点です。死は可能な限り後回しにすべきですが、「生きろハラスメント」みたいなのも、それはそれでしんどいし、つらい。Mr.Childrenの描く影や辛辣さはそういう闇にも目を背けず、むしろ積極的に描いていると思うのです。そこが、醜さと美しさのぐちゃぐちゃになったありのままの人間の真のまんまの姿を思わせて、私が好きだと思うところです。
青沼詩郎
参考Wikipedia>IT’S A WONDERFUL WORLD
『ファスナー』を収録したMr.Childrenのアルバム『IT’S A WONDERFUL WORLD』(2002)
ご寛容ください 拙演(YouTubeへのリンクShiro Aonuma @bandshijin『ファスナー(Mr.Childrenの曲)ギター弾き語りとハーモニカ』)