左側にボーカルとコーラス、右側にドラムス、ベース、ギター、ピアノがドチャリと固まる、まさに現代の定位づけの価値観が醸成される前の定位が新鮮です。ステレオをどう使うかという価値観の正道も何もない。すべてが野の道、といった感じでしょうか。これはこれで面白いですし、現代の定位の基準を何にでも持ち込むのも偏見の一種。私の耳に戒めをくれます。
ダウンビート、強拍のパワー感がブンブン効いたベースはアコベでしょうかね。ドラムスのスネアのオカズやニュアンスづけがタカタカと軽快。間奏でおもいっきりピアノがでてきて、ギターはぐぐっと引っ込みます。ミキサー・ミキシングで調節するというよりは、演奏の段階で瞬間瞬間の主役のバトン渡しがはっきりしており、チームワークしている感じを覚えるのがどうでしょうか。そうした演奏の機微に私は感心します。
ブライアン・ハイランドの歌唱もなんと精神衛生によいことか。『Baby Face』を収録したアルバム『The Bashful Blond』を流し聴きしながらこの記事のテンプレ的な部分を書く作業をしましたが、もう、「いくらでもください」と思いました。この種のサウンドが私の心の原風景なのじゃないか。こういう音、演奏なら、本当にいくらでも聴いていたいです。この時代の大衆音楽のスタンダードってこういうものだったのか、それでもやっぱりマイノリティの嗜好だったのか、当時の空気感はわかりかねます。今でもこうしてネットを介して簡単にアクセスできるし注文すれば円盤も届く。私は恵まれた時代に生きられていると思います。もちろん、こういった便利さを知らなければそれを「制約」と思うこともないでしょうし、何かを成功させたり実現させたりするために知恵をしぼり、努めを尽くすために突き進むことの痛快さはいつの時代も変わらず、ヒトの生きる最たる目的になりえることを想像します。
楽曲の話と関係ないところに逸れてしまいました(いちおう音楽にかける情熱や注ぐ心血の話のつもりではいましたが)。話を戻すと、イントロのアノ部分。私はおそらく『タモリ倶楽部』で知ったんです。でもタモリ倶楽部のコーナー「空耳アワー」自体が音楽を扱うコーナーなので、「空耳アワー 曲」とかであいまいに検索するとたくさんの曲がヒットしてしまい曲を特定するのにはじめ少し難儀しました。頭の中に鳴るあのイントロと、Braian HylandのBaby Faceがピタリと合致した瞬間は相当に爽快なものでした。
先述のグイっと出てくるピアノソロを終えると、イントロのあのモチーフの再現です。このモチーフに入るアタマの瞬間で、スっとスムーズにといいますか至極強制的・強引といいますか、半音上に転調します(D♭→D)。2コーラス目のヴァースのメインは女声がとります。シンプルに同じ歌詞を繰り返す構成ですが、音楽的に飽きさせませんね。転調と、メインボーカルの部分的な交代。どちらかひとつの要素でも変化がじゅうぶんに感じられると思いますが、丁寧な音楽づくりのアイディアと演奏が好ましい。
エンディングでもイントロ・2コーラス目の開始前と相似するモチーフの再現がありますが、トニックに終止する仕様に変化させたモチーフになっており、主音(D)に上行でリーチしてきっぱりと気持ちよく終わります。ずっとBaby Faceの夢に浸かっていたい、あぁ。
青沼詩郎
参考歌詞サイト AWA>Baby Face by Brian Hyland
参考サイト Discogs>Brian Hyland – The Bashful Blond
竜馬のブログ 我が青春のポップス>【原曲は20年代の曲】ベビー・フェイス|ブライアン・ハイランド 楽曲をパフォーマンス・発表した例を多数リンク。Brian Hylandの録音に参加したコーラスがトルディ・バッカーだと伝えてくれる。
洋楽譯解>歌詞和訳 Brian Hyland – Baby Face コード ポール・マッカートニー、リトル・リチャードなどの実演例に焦点を当て、それぞれのパフォーマンスやキーの差異などを観察し比較したdeniさんのブログ記事。
Brian Hylandの『Baby Face』を収録したアルバム『The Bashful Blond』(オリジナル発売年:1960)。サブスク配信されているものと曲順や曲数が違う模様(CD版のほうが曲数が多い。取りこぼしは無い様子)。