まえがき 継続をニュースにかえて
自死(※)について考察するとき、私はある著者に影響をもらいました。
それはシェリー・ケーガン氏で、『「死」とは何か』という著作があります。自死によって、自死しなければ残された人生で得られることが予想できる幸福や充足の総量と、自死を選ぶことでその後も増長や保続が予想される苦痛や不幸の総量を、平静なまなざしで比べることを考察する内容が含まれていた、と、ぼうっとしている私なりに記憶しています。
印象的だったのは、必ずしも、その人が生き続けることでのちの苦痛の総量よりも幸福や充足の総量が勝るとはいえない、といった主旨のことを、(生きることを他者に無理に強いるでもないトーンで)述べていたことです(私の記憶違いでなければ)。
平静な考察こそがむしろ、やさしさにも思えます。自死はぜったい駄目だと他人に介入することは、介入された人にとっては、自分の苦しみを否定されたことになりかねません。その人だけがわかりうる苦しみや痛みを含めてその人への思いやりや尊重が適用されるべきだとすれば、うなずける理屈です。
お互いが依存し合っていたり、深く人生が癒着しているようなパーソナルな間柄においてであれば、相方の自死については、門外漢が口を出すよりはずっと、相方が口を出す筋合いは認められて然るべきでしょう。それはそれとして。
1969年3月30日、フランシーヌ・ルコントという人は、パリの路上で焼身自殺してしまったそうです。ネットでヒットする検索が多いのでいくつか見ていくうちに薄い知見が多少立体になるでしょう。独立の是非をめぐるビアフラ戦争。独立を認めない側が行った包囲・封鎖が飢餓を招き、多くの人が命を落とした。フランシーヌの自殺はそれへの抗議だとか、心を痛めてだとか、あるいは精神を病んでいたといった私には事実確認の及ばない数多のことがネットに転がっています。
いち門外漢としては、フランシーヌの場合は、自身のその後の人生を放棄しなければ、幸福よりも不幸や苦痛の総量が勝ると冷静に自己判断して自殺を決行した事例だとはいえなさそうに思います。
抗議の意思を示すために命を投げたのだとしたら……その命をつかって数多の抗議を継続したほうが、抗議を招く大元の問題解決に資したのではないかと門外漢の私にはいくらでもいえてしまいます。
精神状態の問題で、どんな行動を起こすと自分の命が危ういとか、それによってその後の人生がなくなることとそのときにその衝動的な行動をとることの価値を比べた時どうかといったとき、やはりやめておくべきだったと思うのですがこれもフランシーヌ自身やその周りやあるいはピアフラ戦争の当事者や関係者状況などを直接何も知らない私としては察しきれないところがあります。
何かが続いているということは広いニュースになりにくいですが、何かが終わるとニュースになるのだなということは、最近のミュージシャンの訃報の多くに触れていて漫然と思うところです。
がんばり続けている一線の人たちはほぼ例外なく、「〇〇周年」「アニバーサリー」など、五年や十年で「区切る」ことで、活動が「続いている」ことを自ら動機づけてニュースにし、さらなる表現やパフォーマンスを眺望しています。
生きたまま、知恵を絞って、命を賭す本気度が衝撃とともに伝わるニュースを起こすにはどうしたらよいかを誠実に図り、行動を起こし続ける人を応援したいし、自分もそうありたいというのは私の綺麗事のひとつ。実際はのうのうと生き続けているだけなのですが。
他人に干渉したくないしされたくないですが、あわよくば、好きな人に長く生きてほしいというのは素直な思いであり、私のエゴ・わがままの一面です。自分のエゴ・わがままに大なり小なり他人を含めて生きるのが多くの人間の実態だとも思います……いえ、せいぜい私の実態、程度にしておきましょう。あなたの心の実態を知るのは、あなただけです。
(※自殺と自死については表現を確かに使い分けるべきとする向きもあるようです。ここでは私は単に「自分で死ぬ」というだけの意味で用いました。)
フランシーヌの場合は 新谷のり子を聴く
YouTubeへのリンク 新谷のり子/フランシーヌの場合 (1969年)
作詞:いまいずみあきら、作曲:郷伍郎、編曲:テディ池谷。新谷のり子のシングル(1969)に収録。
さびしい思念がひしひしと伝播してきます。右にがっつり寄った定位のナイロンだかガット弦のギター、真ん中から新谷さんの歌唱。
外国のニュースの朗読みたいなものが混信したかな? と思ったら作品のうち。古賀力さんのフランス語の語りが入ります。シンプルなのですがラディカルな構造をした音楽作品です。
新谷さんパートがやむと、古賀さんの歌唱が右側ではじまり、左には闊達機敏に彼の歌とシンクロするピアノです。テンポ・ルバートといいますか、自由で緩急つけてピシャンピシャンと分厚い歴史書の薄いページをめまぐるしくめくるように、古賀さんの猛烈なフランス語の歌唱が綴られます。
新谷さんパートにもどって、Aメロを再現して音楽は結び。
シングルの線の女声、あるいは男声に、生ギターとストリングス、中間部はピアノのみ。質素なのか豪勢なのか混乱します。優美なのかひもじいのか。新谷さんの歌唱の残響がふわっとあたたかく匂って消えていくのは、命の温度なのでしょうか。
“ひとりぼっちの世界に 残された言葉が ひとりぼっちの世界に いつまでもささやく 三月三十日の 日曜日 パリの朝に 燃えたいのちひとつ フランシーヌ”
(新谷のり子『フランシーヌの場合』より、作詞:いまいずみあきら)
その人の思念、言葉になる前のイマジネーションの素子の様相をありのままにわかるのは、その人だけなのです。その命が燃えた真相は、いなくなってしまったフランシーヌだけが知っているのでしょうか。あるいは、本人がどれだけ分かっているのか。誰かに指摘されて、自分の想いや本当の気持ちに気づくということもあるからです。
生き続けて、伝え続ける意味はそこにもある。その命が地に落ちるまで、ふわふわ漂って動くのが思念や気持ちです。
青沼詩郎
新谷のり子のシングル『フランシーヌの場合』(1969)
Shelly Kagan(シェリー・ケーガン)『「死」とは何か イェール大学で23年連続の人気講義 日本縮約版』(2018、文響社)
ご寛容ください 拙演(YouTubeへのリンクShiro Aonuma @bandshijin『フランシーヌの場合(新谷のり子の曲)ギター弾き語りとハーモニカ』)