質感のちがう言葉とその意味
高齢の方々が日中を過ごす居場所で演奏する機会をいただくことがしばしばあります。
季節にちなんだ歌はそういうとき重宝します。季節というのは、日本にいる人にとっては最強の共通の話題といったところでしょう。
もちろん日本のなかにもいろんな地域があり、四季のうつろいの様相はそれぞれに違います。私自身の居住経験が東京のみなので、おおむねその知見を基準にものを言わざるをえないのをお赦しください。
かなり昔からある歌というのが、高齢な方々と一緒に音楽で時間を共有する際の有効なレパートリーになります。もう亡くなられているくらいの年代(この記事の執筆時は2024年)の作曲家が書いた歌曲。あるいは文部省唱歌などがしばしばそれにあてはまるでしょう。
そうした歌曲や唱歌のなかでつかわれている言葉づかいは、現在私がこの口でしゃべるのとかなり質感が違います。そんな言い回しする? そんな単語つかう? と思わず漏れます。語末が古風です。
そういう歌の多くは、昔から私も存在くらいは知っています。でも、そうして「言葉遣い」がいまの私が普段の暮らしでつかうのと違うために、歌詞の意味をあまり理解していない……ちゃんとその本質、その曲がもつ景色、その曲が鑑賞者にあたえうる記憶の庭みたいなものを、私個人においては未賞味な曲が案外あるのです。ぼうっとして、そうした曲たちと私はついすれ違って生きてしまいます。
そうした、たとえばデイサービスや高齢者のホームのような場所で演奏するのをきっかけに、今まですれちがってきた、美しい日本の歌のもつ風景にあらためてふれると、そのわびさび、風流さに驚きます。目から鱗が落ちるとか、青天の霹靂とでもいうのか。
生まれた年代の離れた人同士でも接点をもつことができる媒介として、現在に及んで残っている歌曲の景色には普遍があります。その歌曲が生まれた頃とは年代が違う私でも、言葉の質感の違いという壁をこえる努力をちょっとするだけで、歌の味わいが七色以上のいろどりを放って輝き出すものです。たとえば『花』(滝廉太郎)も私にとってそういう曲の一つです。
日本歌曲 花 曲の名義、発表の概要
作詞:武島羽衣、作曲:滝廉太郎。1900年に“瀧廉太郎の歌曲集(組歌)『四季』の第1曲”(引用元Wikipediaリンク)として出版された。
日本歌曲 花 日本合唱協会の演奏を聴く
左にソプラノ(上声)、右にアルト(下声)と定位をはっきりふります。まんなかでアルトのほうがメインを歌いソプラノが休んだり、ほかの場所ではその逆。そしてユニゾンしもしますし分かれてハーモニーを歌いもします。
ピアノのダイナミクスがよく出ています。ひゅっとひっこめて、力を抜いてトンと終わる。エンディングなど特にその機微がよく出ています。古典の西洋音楽を参照しているみたいな聴き心地のよい美しい調和した音楽です。ぶわっと風に花びらが舞うみたいに細かい音価値でたたみかけるようにフィルイン(オカズ)するピアノ。ベースもこれでもかと分割して滑らかに上下行するなど伴奏が華やかです。歌を引き立ててもいますし絶妙ですね。
自然な残響感で、ホールに響くタイム感がビシャビシャという感じもありません。ソプラノとアルトの定位ははっきりしておれど、自然に一発録りした一期一会の空気感があります。録音作品であっても、合唱という音楽の形式上当然かもしれませんが。
ことばの質感が、わたしの普段づかいとギャップがあるのでこれまでなんとなくすれ違ってきてしまっていましたが、春にありがちな情景、その一瞬一瞬のかがやかしさ、尊さがこれでもかとコンパクトに込められています。船をこぐオール……「櫂」が水面をうち、ゆらし、飛沫をあげる映像の、乱反射しキラキラした映像や静止画を私は想像します。ああ、わかるわぁ。その春なら、私のなかにもあるのです。百年以上前に書かれた歌ですよ。私は嬉しいです、時を越えてこの国の町の風情を共有できて。春のうららかさを端的に表現した美しさです。
歌詞をみる
“春のうららの 隅田川 のぼりくだりの 船人が 櫂のしずくも 花と散る ながめを何に たとうべき”(『花』より、作詞:武島羽衣)
寒かった季節の背中は遠くなり、のどかな川沿いの風景がみえるようです。河口……海がほど近く、流れもゆっくりな隅田川を私は想像します。陽光、天気のよさが、櫂が押し動かす水の回りを祝福するかのようです。
船人(ふなびと)とは舟をこぐ船頭さんか、あるいは乗っているお客さんのことでしょうか。現代(執筆時:2024年)の日常生活ではなかなか「ふなびと」との単語を会話で口にすることは稀でしょう。現代基準ですと、町を流れる川を船(船)で移動するのはもっぱらレジャー(観光や娯楽)目的に思えます。100年以上前の町でしたら……水運は、人や物の移動手段としてもっと重要だったかもしれません。インフラとしての比重が大きかったのではないかと。
人が動く、花が咲く……命が動いているのが視認できる季節。そのえもいわれぬ風情を、何に喩えてよいものか。「たとうべき」もなかなか現代の口語とは乖離していますが、私の語彙を凪がせてしまうほどの春のうららかさは時代が変わっても共有できる感覚、普遍でしょう。
“見ずやあけぼの 露あびて われにもの言う 桜木を 見ずや夕ぐれ手をのべて われさしまねく 青柳を”(『花』より、作詞:武島羽衣)
「みずや」? 耳でこの歌を聴く限りの私はまず「水や」(水屋?)だと思ってしまいます。まさかの「見ずや」。「見よ!」と解釈すればいいでしょう。こんなにきれいな春の風情を見過ごすわけがない、という。
「あけぼの」はなにかの商品名や作品名に含められたり地名・人名になったりと、固有名詞で聞き覚えのある単語ですが日常でなかなか私は使いません。「あけぼの」の意味をいま一度求めてみるに、朝日がのぼるまえの空のあかるみのことを指す言葉だそうです。早起きですね。マジ、あけぼの。
露をまとった桜の樹木の姿は、朝と夜の端境を独り占めする観察者の優越感に左団扇の風を送るかのようです。
桜の樹木に対比させるのは柳。時間帯も明け方から夕暮れへと移ろわせ対比します。
見なよ!あのものを言わんばかりの明け方の桜を。見なよ!おいでと誘う風に揺らぐ夕暮れの柳を。葉の青々とした柳も、昼に見るのとではまるで別人の夕暮れ。子供だと思っていた親戚が急に大人びて見違えるような……。“桜木を”に続けて“青柳を”と来る、韻律の反復が光ります。
“錦おりなす 長堤(ちょうてい)に 暮るればのぼる おぼろ月 げに一刻も 千金の ながめを何に たとうべき”(『花』より、作詞:武島羽衣)
錦は、複数の色味の素材がまじった意匠性や、自然に偶発する模様や様相や、あるいは単に美しく華や品のある様子の形容詞だと解釈すれば良いでしょうか。「錦鯉」という観賞魚がいますね。「あけぼの」の意味の認知が曖昧だったのを自覚した私ですが、「錦」もまた同じ。なかなか、日常で「これは錦だね!」などとこの単語を私が持ち出すことは稀です。日本語って、錦だね。
「ちょうてい」が「朝廷」なわけはありません。「調停」でもないです。「長堤」……字で見れば現役の生きた意味のある単語だとわかりますが、どうも訓読みするところの「長い堤(ながい、つつみ)」をパっと想像しにくい。「ちょぉぉぉてーいーにー……」と、「ちょ」が長めの歌へのはめこみ方です。
広く穏やかな様相の川面に沿って、人の手で平らにならされたり高い部分が残された地形がつづいている様子……そこが桜満開だったり種々の彩りを得て、「錦」の観念をまとっているのでしょう。
日が暮れるのを「暮るれば」……これも音声で一聴して私が理解するのは難しい。「来る」?「繰る」?「暮る」なのですね。おぼろは霞や霧がでていることの表現。汚しやテクスチャの効いた月の表情でしょう。
「げに」は「現代では稀な言い回し」のボス降臨。強調の意味だといいます。それ自体に意味があるというよりは、「現に」とか「実際」とか「マジで」とか「本当に」といったニュアンスでしょうか。「げに」をとってしまっても文章に誤解や事故が起きたりしません。「嗚呼(ああ)」といった感嘆と近い存在感でしょうか。リズムがととのう、力をこめるステップの機能といったところか。「げに、やらんや!(さあ、やってやろう!)」みたいな? 違うか……
とにかく、はっとするようなうららか度で、永遠の安寧ほどにありがたいおぼろ月夜なのでしょう。霞や靄が月の前をゆっくりと過ぎていき、刻一刻と見え方を変える。一瞬一瞬がお宝シャッターチャンスなのです。“げに一刻も千金のながめ”……そんなふうに解釈してみました。
こうした奇跡のような普遍の風情を、一体なんて言い表したらいいんだ? という、春のうららかさの美しさについ漏れてしまう吐息が顕現したのが歌曲『花』の味わいなのだと思います。
参考サイト 世界の民謡・童謡>花(春のうららの隅田川)瀧 廉太郎 歌詞の意味と由来/歌曲集『四季』より
源氏物語「胡蝶」や、中国の詩人・蘇軾の「春夜」から表現を採っているとの言及があります。百年どころか、千年前の人とも春のうららかさについて通じ合えることに驚愕を覚えます。
青沼詩郎
日本合唱協会が歌う『花』を収録した『やさしいうた贈ります』(2016)
ご寛容ください 拙演(YouTubeへのリンクShiro Aonuma @bandshijin『花(滝廉太郎作曲、武島羽衣作詞による日本歌曲)ギター弾き語りとハーモニカ』)