雨の街を 荒井由実 曲の名義、発表の概要
作詞・作曲:荒井由実。荒井由実のアルバム『ひこうき雲』(1973)に収録。
荒井由実 雨の街を(アルバム『ひこうき雲』収録)を聴く
たとえばスピッツ『楓』を思わせる、メランコリックなピアノです。もちろん時代は逆、ユーミン(愛称で失礼します)の『雨の街を』の方が発表年は(言うまでもなく)ずっと早いです。
ピアノの演奏が顕著に繊細で情感豊かです。指をわずかに触れただけで崩れてしまいそう……体温が乗り移っただけで火傷を与えてしまいそう……そんな国宝級の飴細工みたいな触れてはいけない秘密を思わせるピアノの演奏が千金、いえ、億万金の様相です。
ふわふわとビブラフォンのようなエレピのような音色が漂います。1メロサビを抜けると、竪琴の類に似た音色もします。たとえば木村弓さんが『いつも何度でも』で使用したのがライアーという楽器(参考:木村弓オフィシャルサイト> About Leier ライアーについて)ですが、あれを思い出すような繊細でパーソナルな音色です。
Ⅴの和音がドミナントセブンスでなく、ナチュラルマイナーのフィールでメインの短和音に帰るので帰結感がうすく、ずっと感情の海に浸かって行先を潮目に任せた小舟に揺られて天を仰いでいるような気分です。
C#mキーで、A→G#m→C#mと解決するような進行が帰結感の薄さの具体例です。エンディングで歌詞“歩いてゆけそう”(演奏時間3分58秒頃)とつづるあたりがそうですね。それに続けて“歩いてゆけそう”を反復し主和音に解決する結びの結びのところ(最後の最後)で鳴るのは長和音。短調で、終止のところだけ長調みたくしてしまうエンディングのことでピカルディ1度(ピカルディ終止)と呼びます。
意外性を意図しないのであれば通常C#mで筆を止めるところを、C#(D♭と異名同音)でピリオドします。不安を増長するくもり空が永遠に続くかと思わせるメランコリック100%予報な曲調でしたが、鼻の先の未来に晴天の兆しを呼び入れたような、開放的な響きのエンディングを綴ったユーミン。
あとは、鑑賞者が明るい結末を自分で歩みましょう。
普遍は寂寥
夜明けの雨はミルク色 静かな街に
(『雨の街を』より、作詞:荒井由実)
ささやきながら 降りて来る 妖精たちよ
誰かやさしくわたしの肩を抱いてくれたら
どこまでも遠いところへ 歩いてゆけそう
庭に咲いてるコスモスに 口づけをして
垣根の木戸の鍵をあけ 表に出たら
あなたの家まですぐにおはようを言いにゆこう
どこまでも遠いところへ 歩いてゆけそう
感性がおそろしい。これは現実の世界でないし、少女漫画の世界でもありません。言葉の意味と音楽のなす幻の情景の世界です。
もちろん現実に見たことのある風景を歌詞に転出したのかもしれませんが、しかし“ミルク色”の雨をあなたは見たことがあるでしょうか。
それは私やあなたが見たどの雨でもなく、ミルク色の夜明けの雨なのです。それを私やあなたは、このユーミンの音楽の世界に観に行かなくちゃならない。
ここにしかない情景にアクセスするために、ユーミンの楽曲の中へと繰り返し旅をするのです。はたまた、“ブドウ色”の夜明けの空を求めて。
いつか眠い目をさまし こんな朝が来てたら
どこまでも遠いところへ歩いてゆけそうよ誰かやさしくわたしの肩を抱いてくれたら
(『雨の街を』より、作詞:荒井由実)
どこまでも遠いところへ 歩いてゆけそう
未知に希望の光をみる思念を思わせるのに、音楽が深く哀しいのです。
この人には何があるのだろうと、話を聞いてみたくさせる人格が楽曲に宿っています。
激しく深い怒りの果てに、落ち着きはらったトーンで冷静に話す法廷の人。
この喩えが的確かどうか微妙ですが……
明るく希望を抱いているのに、哀しく儚げな空気をまとう主人公に、私は魅入られているのです。
庭に咲いているコスモスにも重なります。どこへでも現れるのに、どこにも行けないような。
普遍はさびしい。寂寥なのです。
コスモスはありふれていて、あのときのコスモスといまめの前にあるコスモスの区別を私はつけられるんだろうか。
青沼詩郎
『雨の街を』を収録した荒井由実のアルバム『ひこうき雲』(1973)
ご寛容ください 拙演(YouTubeへのリンクShiro Aonuma @bandshijin『雨の街を(荒井由実の曲)ピアノ弾き語り』)