友よ 岡林信康 曲の名義、発表の概要
作詞:岡林信康・鈴木孝雄、作曲:岡林信康。岡林信康のシングル『山谷ブルース』(1968)B面に収録。異なるバージョンをアルバム『わたしを断罪せよ』(1969)に収録。
岡林信康 友よを聴く
『私たちの望むものは』のライブなど見ると叫ぶように激しいパフォーマンスも見られる岡林さんですが、アルバム版『友よ』では極めて柔和で繊細な歌唱が魅力です。
左側定位のクラシックギターの音色がハープのように、これまた繊細で機微があります。爪のあたる一瞬のエッジとぽろんと丸い音の立ち上がり、ボディへの響き・反響が衛生的。
ビートを遠い昔に置き忘れたみたいにアルペジオするギターとボーカルメロディのふしまわしに最低限の拍節感。ギターの低音位はドミナントのところで第2転回形をあてたりして浮遊感があり、根を張ることに対極する自由への意思を思わせます……いえ、根を張ることもまた自由でしょうが。
アルバム『わたしを断罪せよ』のラストに収められた『友よ』。岡林さんの語りからはじまります。
詩の朗読などでもなく、記名アーティスト本人の弁そのものなのです。
楽曲に宿る、仮想上の主人公が大衆の娯楽・商業音楽にはあると私は思います。たとえばOfficial髭男dismの『Pretender』の歌詞に一人称「僕」などが出てきたとしても、ボーカリストの藤原さんが自分自身のことを直接歌っているとは私は考えません。そういう主人公を描いていると私はまず解釈します。「君」などの二人称が出てきたとしても同様で、現実の藤原さんが想う現実の誰かのことではなく、楽曲のなかで描かれる主人公にとっての架空の「君」がいるのを私はまず想像します。
それを踏まえて岡林さんのアルバムバージョンの『友よ』に込められた語りをとらえてみるとどうでしょう。完全に、実在の岡林信康本人として、実在の私やあなたリスナーに直接語りかけている。
とくにこの時代のフォークにはそういう向きがあるかもしれません。たとえば映画の中の主人公たちの架空の恋愛物語を、登場人物を演じて歌う……みたいなポリシーとはかけ離れています。岡林さんの歌を「左翼」「反体制」と結びつけた言説を見出すのはたやすいでしょう。それも外からこじつけられた傾向にすぎないとも思うのですが。
明るい歌を歌う気になれない、うめきのようなものをあるがままに歌うようなポリシー・方針が岡林さんのこの「語り」の部分によみとれます。みんなに自分のうたを歌ってほしいといったメッセージも含まれていますから、何も『友よ』とかほか数多の岡林さん作品が示すことにあなたが同調する必要もなく、あなたの感じたあなたのままを表現する声を・歌を肯定する姿勢を私は勝手ながらこの岡林さんの語りから匂いとるのです。
そうした主義主張の違う個人の集団に向かって「友よ」と語りかけている。そんなきょうだい愛を感じます。
アルバムに込められた『友よ』の音響はどんどん深くなっていく。残響が長く強くなって、ハウリングを起こしてしまいそうなくらいです。あるいはどんどん洞窟の奥深くに音源が入り込んでいく。いえ、音を鳴らしながらライブ中継でトンネルの全長が深くなっていくような、現実にはありえない夢のなかでとろけるような長い長いフェードアウトで楽曲はとじていきます。
消えていく音源に耳を澄ましているうちに心がニュートラルになっているのです。自由のはじまりだ。
青沼詩郎
参考Wikipedia>友よ (岡林信康の曲)、わたしを断罪せよ 岡林信康フォーク・アルバム第一集、山谷ブルース
『友よ』を収録した岡林信康のアルバム『わたしを断罪せよ』(1969)
『岡林信康URCシングル集+8』(2009)。ディスク2に収録されている『友よ』がシングルバージョンと思われます。