恋の経験の輝きは一生モノ
当時の松田聖子さんが積み重ねてきたレパートリーによるイメージと、失恋ソングのイメージはいくらか乖離のあるものだったのでしょうか。
成就する恋が世に数多あったとしたら、それらは輝きであり、主人公の瞳に映るのはそうした「輝き」の数々なのでしょうか。あるいは恋など実らないものの方が大多数である……とも思います。
己の恋の悲しみからか、滲み出る涙が潤す瞳が下界の光を乱反射するさまはさながらダイアモンド、との比喩でしょうか。ダイアモンドは価値の高いものの象徴でもあるでしょう。悲しみで涙をまとってしまっても、その瞳は将来高い価値で取引の対象にもなるような財産に相当するものなのかもしれません。瞳を涙で潤した経験こそが、その後長い期間に渡ってその人物をよりいっそう魅力的にするのです。
瞳はダイアモンド 松田聖子 曲の名義、発表の概要
作詞:松本隆、作曲:呉田軽穂(松任谷由実さんの筆名)、編曲:松任谷正隆。松田聖子のシングル、アルバム『Canary』(1983)に収録。
松田聖子 瞳はダイアモンド(アルバム『Canary』収録)を聴く
朗々とした芯の強い歌声です。失恋、悲恋は逆境でしょうか。豊かな音数、編成は、未来に渡っての主人公の器の広まりを肯定するかのようです。
ウェットな感情が楽曲のモチーフにあったとしてもそれをカラっとさばけた音色のコンガ(ラテンパーカス)で演出します。「雨」といった、湿ったモチーフを扱うときこそ映えるのがコンガやボンゴなのです。雨を描いているのにこうした晴天を思わせる明るいキャラの地域性を思わせる皮モノのパーカスを取り入れているサウンドは大衆歌、バンドやソロ歌手、シンガーソングライターを日々鑑賞しているとしばしば出会います。そもそも、ラテンパーカスが明るくさばけたキャラで乾いた地域性を思わせるということ自体が私自身の偏見なのかもしれません。ラテンパーカスこそ、雨のような情念の権化なのかもしれないのです。雨のような情念を背景にしているからこそ、表面に情熱や炎、乾きといった質感が出てくるのかもしれません。
主人公の芯の強さを証明するみたいに、デチ!っとキックの音が硬質。べースのサウンドも非常に重心が低く太くグラマラスで快楽的です。
タンバリンが4拍目を輝かせます。ウィンドチャイムがはらはらはら……と悩みが氷解するみたく愛撫され、クロスするようにトライアングルがいつの間にか鳴り出しています。悲しみが癒えるのに必要なものは周囲の労いや主観的な短期中期長期の目標などさまざまあるかもしれませんが、総括していえば時間の経過でしょう。
オープニングに“愛してたって言わないで…”と、本編中で再現のない嘆きが冠されます。芯の強さがあったとしても、弱音や頑ななところを露呈することもあるでしょう。それはもうこれっきりなのです。
Gメージャー調ですすむ本編、エンディングでB♭M7の和音でまさかの方向に投げられる匙。しかし光がきざすようにGM7の和音に戻ってきます。はらっとしますね。私は私だったよ。
青沼詩郎
『瞳はダイアモンド』を収録した松田聖子のアルバム『Canary』(1983)
ご寛容ください 拙演(YouTubeへのリンクShiro Aonuma @bandshijin『【寸評つき】輝きは一生モノ『瞳はダイアモンド(松田聖子の曲)』ギター弾き語り』)