全身全霊で恋をする権化

2コーラス目から英語に変わるメロに面くらいます。複数の人格が曲のなかに含められているかのよう。流暢です。

ダイヤル回して手を止めた」のフレーズが心のまよいの機微を表現すると同時に、時代を限定するモチーフでもあります。そうした表現のテクスチャを作品に残すことに意味があるし、それが作品特有の質感、特長になりうると思います。「ジーーコ、ジコ、ジィイー……」などと、数字を記した盤の上を穴のあいた盤に指をひっかけて、任意の番号の位置まで盤を引っ張って回転させ、盤が元に戻るまでの時間差がかける相手先の電話番号を特定する固有の信号になるのですね……実物を知らない方に言葉だけで説明すると案外分かりにくいかもしれません。

そんな、相手への発信のためにかかるお決まりの儀式にかかる時間、所作こそが、本当にこの発信をしていいのだろうかという迷いの猶予に重なるのが妙味なのです。儀式(全てのダイヤルを回し切って、相手が出るのを待つ)の最後の一手順を終える瞬間まで、いつでも中断してしまえるのですから……

恋をすると、全身全霊が恋そのものになってしまう危うさ、儚さ、耽美な趣が感じられる、美メロが記憶に残る楽曲です。

恋におちて -Fall in love- 小林明子 曲の名義、発表の概要

作詞:湯川れい子、作曲:小林明子、編曲:萩田光雄。小林明子のシングル、アルバム『FALL IN LOVE』(1985)に収録。

小林明子 恋におちて -Fall in love-(アルバム『FALL IN LOVE』収録)を聴く

ボーカルの力加減がとっても穏やかなんです。どんな音域にいっても、豊かに胸のあたりに響いて、息の通りぬけるしゅわしゅわと清涼な通行音がしているのです。永遠の安息がこの歌のなかにある、それを貫徹しているブラボー。

恋は激しく感情を揺さぶったり、平常時の己とはかけはなれた行動・言動を突発的に誘発したりします。特殊な状態、ゲームのステータス異常みたいな状態でもあると思うのです。恋を病に例える言説や慣用句も世にはあることでしょう。

そうした恋の極端な一面はそれとして、ロマンチックで器の寛い視座から恋を描く妙があります。

ピアノの印象を全面に、ほわっとした質感のシンセの耳あたりが優しいです。間奏などでシンセがリードしても、心の安息を奪いません。こちらの胸のなかに流れる時間の大河の流れを阻害しない、むしろそこに浮かんで流れる小舟の上に乗っているのがこの歌であるかのように思わせます。

低音が深く、寛ぎのフィールです。サビの終わり付近にクロスして、ストリングスが浮かんできては私の意識の外にまた溶けていきます。バックグラウンドボーカルもしゅわしゅわと、木立のささやきのようなテクスチャを加えて清涼です。

口に出せない願いとは

“Darling, I need you どうしても 口に出せない願いがあるのよ 土曜の夜と日曜の 貴方がいつも欲しいから ダイヤル回して 手を止めた I’m just a woman Fall in love”(『恋におちて -Fall in love-』より、作詞:湯川れい子)

平日あるいは土曜の夜まではたらき、土曜の夜から日曜が明けるまで休む生活をしている「貴方」であるとすれば、そこの限られた時間帯の貴方が欲しいという主人公の願いは、私服な、つまりカジュアルで素の、つまりプライベートの貴方との関係を望む心の表れです。

口に出せない願いとはなんでしょうか。土曜の夜からは会えるから、だから平日のいまこの瞬間はどうか私よ、貴方のウィークディを邪魔しないように電話を控えるのですよ!というためらいなのか。あるいは、現実の自分は平日の、つまり仕事モードの貴方としか然るべき関係を結べていないので、土曜の夜以降のプライベートの貴方に干渉し、立ち入る勇気が出ないのです……というためらいなのか。

いずれにしても恋の特殊状態におちいり、心が揺らいでいるようです。それにしては、もう永遠の安息を手に入れてしまったみたいな、カタルシスの後の凪にあるかのような後味を両立しています。

“I’m just a woman”“ Fall in love”のあいだにある「ah…」の歌詞のないボーカルがまるで板挟みの心を象徴しているかのようで、細部ですがきゅうっとなるポイントです。

青沼詩郎

参考Wikipedia>恋におちて -Fall in love-小林明子

参考歌詞サイト 歌ネット>恋におちて -Fall in love-

小林 明子 MSエンタテインメントプロダクツサイトへのリンク

『恋におちて -Fall in love-』を収録した小林明子のアルバム『FALL IN LOVE』(1985)

ご寛容ください 拙演(YouTubeへのリンクShiro Aonuma @bandshijin『【寸評つき】ダイヤルを回したあの日『恋におちて -Fall in love-(小林明子の曲)』ギター弾き語り』)