SWITCH VOL.38 NO.6 JUN.2020』を買った。

特集は「うたのことば」。松本隆のインタビューが載っている。自選の詞も11載っている。

購入に至った伏線として、岸田繁(くるり)が載っていることもある。私はくるりファンだからだ。最近の私の消費に占める「くるり関連」は大きい。くるりメンバーや公式Twitterのフォローを始めたことで情報がよく流れ入るようになったからだと思う。

脱線したが、岸田繁が詞について思うことや、「詞」を主眼として選んだ自作や他の人の作が載っている。並んで、佐野元春・aiko・川谷絵音・中村佳穂も載っている。

憧れの人が詞について思い、曲を挙げている。すると、当然(当たって然りとは偉そうだけれど)自分もやりたくなる。

特に「詞」に着目して私が思い出した曲が、『TAKESHIの、たかをくくろうか』(1983)だった。これは、2018年1月に「谷川俊太郎展」を観に行って初めてその存在を知った曲だ。会場内のひとところに、ラジオみたいな機器が棚いっぱいに置いてあって、そこから谷川俊太郎が作詞した音楽がつぎつぎ流れるという仕掛けの展示があった。『鉄腕アトム』なんかも流れていたけれど、その中でひときわ心を引くのがビートたけしの歌声を含んだサウンドだった。作詞は当の谷川俊太郎。作曲者が坂本龍一だったのに驚いた。メージャーセブンスのもどかしい響きを用いた印象的な美しい曲だと思った。会場で、帰路で、自宅で、熱心に私はこの曲を何度も聴いた。

歌詞 http://j-lyric.net/artist/a000fd4/l01cc64.html

で、そう。サウンドのほうについ意識を集らせてしまったけれど、歌詞で思い出した曲なのだ。でも、これは何度でも立ち返る結論なんだけど、歌詞は音の一部なのだ。もちろん、言葉や意味だけを取り出しても成立する観点も認める。でも、音楽的な拍子や音程に乗せるかどうかはまた別として、やっぱり声に出して世に顕現させるための存在が詞(詩)だと思う。やっぱり私は、まず歌詞を「音」として聴いてしまう。曲と出会い、サウンド(響き、音)としてインプットを始める。原初の「なんだこれは?!」という立ち止まり(引っ掛かり)、つまり身体反射を経たのちに、ようやくことばの意味を参照しだすという順序のパターンが私の音楽と出会うときの反応として多い。もちろん、脳活動も身体反射のうちだけど。

『TAKESHIの、たかをくくろうか』の詞で気に入っているところは、諦観が漂っているところ。

“たかを くくろうか” そのことばに、諦観を思う。でも、たかをくくることは、前向きにこれから何かをする始点でもある。そこに希望がある。空に“散らばる”、小鳥たち。子ども、“ぬるいビール”といったモチーフが画用紙を埋める。それでいて余白も多い。そこに美しさが漂う。歌を紡ぐ主体も美しいし、世界も美しい。ビートたけしの軋んだ声は、私にとってブルースギターの音色なのかもしれない。

この曲は少なくとも30年以上前(執筆時:2020年)の『ビートたけしのオールナイトニッポン』エンディング曲とのこと。「谷川俊太郎展」の仕掛けは、きっと当時を知る人の記憶を呼び起こすものでもあったのだろう。

詩というより「歌詞」について思うときに、胸に立ちおこる曲の作詞者が谷川俊太郎だったというのが我ながら意外だ。作詞ももちろんたくさんやった彼だけど、どちらかと言えば当然「詩」のイメージが強い。

個人的な話を重ねるけれど、私の母は詩を書く人でもある。それで、私の名前は詩郎になった。女だったら、詩織になっていたらしい。母はピアノ教師を生業とする人で、私もその影響か音楽をずっとやってきている。そう思うと、「詞」から思い出したある歌の作“詞”者が谷川俊太郎であったという点は、至極当然のことにも思える。

倒錯してしまうようだけれど、“詞”はうたのことばあり、音楽とうたのことばがあわさったものが私にとっての“詩”だ。それは私が詩郎だからのバイアスだろうか。谷川俊太郎は私にとって尊敬するミュージシャンでもあるのだ。

青沼詩郎

『TAKESHIの、たかをくくろうか』を収録した『ゴールデン☆ベスト ビートたけし』

『TAKESHIの、たかをくくろうか』を収録したベスト盤『Singin’LoudII』

松本隆のインタビューを収録した『SWITCH Vol.38 No.6 特集 うたのことば』(スイッチパブリッシング、2020年)

ご笑覧ください 拙演