受験生の悲哀
私に受験生としての悲哀があるかと問われると、フリーズしてしまいます。おそらく多くの人が経験するような受験生活の経験とちょっと違うからです。
もちろん私も受験生だったことがあるし、その本質は同じだと思うのですが、私の場合、受験の科目や分野がマイナー(少数派)だったのです。
音楽大学を受験した私にとって、受験勉強は、和声(音楽理論)や楽典を学ぶこと・ピアノを弾くこと・声楽などでした。
音楽大学を受験するにしても、センター試験で英語が必要だったのを覚えています。ですから英語の学習には取り組みました(国語も受けたような気もしますが記憶があいまい)。
センター英語に関していえば、音大受験以外の人と共通する科目を学んだかもしれませんが、私の学習の中心(比率として割合を多く占めるもの)は、圧倒的に音楽の実技だったのです。
今おもい返せば、現在の私(35歳)と似たり寄ったりな年齢のピアノの先生に師事し、その指導とそれに至らない自分の情けなさに涙したことが私にとっての悲哀かもしれません。当時はそれを悲哀だとも思いませんでしたが、今になったからこそ、当時を振り返りそこに悲哀を見出します。情けなかったなぁ……。
このように、悲哀とは、客観によってはじめて認めうるものもあるようです。
音大を受験できたことに関して、私は両親への感謝を思います。そのありがたみからすれば悲哀など感じる余白などないとも思うのですが、やはり当事者は距離が近い。自分がいかに恵まれているかを知る程度の客観も、当時の私には不足していたのでしょう。
今この瞬間の自分自身を客観するのには、すこしコツのようなものがいるのかもしれません。ものの見方のクセ、思考の方針も関わります。身につけてしまえば難などない気もします。
チンチンに熱したヤカンに今この瞬間さわったら、「あつっ!!」と勢いよく反射神経を発揮するでしょう。そこに思考をはさむ余地はなさそうです。あとになってみれば、「あのときは熱かったな」です。下手をすれば、熱かった体感すら忘れてしまうかもしれません。ものごとを「離れて、みる(観察する)」ことには、それくらい劇的な効果(?)があります。
高石ともや『受験生ブルース』を映像でみる
テレビ放送されたのでしょうか。お客さんをいれた広いコンサート・ホール。
軽快な演奏。お客さんが手拍子で応えます。
全身でたのしげな高石ともや。演奏を見終わったあとにも、彼の笑顔、湧き出る陽気なエナジーの印象が深く残留します。
失礼を承知でいえば、彼のような風貌の陽気なおじさん、私の家の近所で酒屋さんを営む店主だったとしても不思議に思いません。その店主がこんな芸を繰り出したら、私は深く感動するでしょう。
歌いながらアコギをぽろぽろとやって、バンドが入ってきます。最初なんてカポタストをつける前から歌い出してしまっています。コンサートを間延びさせない気遣いであり、見る人への愛情でもあります。あるいは、彼自身のたぎるエネルギーが自然にそうさせたか。
エレクトリック・ギターのクリーントーンのソロがなお軽快。気持ちよく響きます。
小躍りするような高石ともやのパフォーマンス。映像のときで、いったい何歳くらいなのでしょう。受験生という苦しみや忍耐に満ちた主題と、曲を披露する高石ともやの軽妙なギャップもおかしみ。
曲の名義など
作詞:中川五郎、作曲:高石友也。高石ともやのシングル(1968)。同年のLP『受験生ブルース 高石友也フォーク・アルバム第2集』にもライヴ・ヴァージョンの『受験生ブルース』が収録されています。
高石ともや『受験生ブルース』を聴く
バンジョーの音色。笛の音色はリコーダーでしょうか。ハーモニカかアコーディオンのようなリード系の音。躍動をそえます。
各コーラスのあいだに小ネタをはさみます。ピアノが絢爛に奏でるのは結婚行進曲のモチーフでしょうか。カップル(アベック)のことを描いたコーラスのあとに入ります。
ラジオ講座のことを描いたあとには番組をおもわせるアナウンス(ナレーション)。主人公はこんな放送を聴いていたのでしょうね。
サインコサイン……のあとには曲調がマイナーになります。
『はじめてのチュウ』のコロ助をおもわせる声のような速まわしボイスで“ふろくがついてるよ”。似たような速まわしボイスが演じる歌詞に“おらはしんじまっただ”……が含まれるザ・フォーク・クルセダーズの有名曲『帰って来たヨッパライ』も思い出します。
最終コーラス後の合唱曲は『We Shall Overcome』
最後のコーラスを終えたあとに入るシンガロング。なんと歌っているのでしょう。“汽車路場館(きしゃろばかん)”? “飛車路馬冠(ひしゃろばかんむり…)”?
ソラミミを抜け出せません。耳に素直に、なお耳をすましてみます。なんだか外国語……そう、英語のような子音が徐々に感じられはじめました。
ウィー・シャル・オーヴァー……
We Shall Over……??
ここまで聴き取れたら検索で出てきそう……と、出てきました。
『We Shall Overcome』。
リンクのYouTubeはJoan Baezが演奏する『We Shall Overcome』。邦題は『勝利を我らに』。アメリカのプロテスト・ソングとのこと。
勝利を我らに……なるほど。受験に勝つということですね。最後までネタを盛り込みます。高石ともやの音楽への愛情を感じます。音は楽しくなきゃね。音の外に宿るコンテクストを含ませるのも高等なウィットです。
表面をみると「勝とう」かもしれません。本質的に掴み取るべきものは、受験の向こう側にあるもののはず。「乗り越えよう」「育もう」。闘争の向こうにあるものを志し、主人公も私もあなたも、いまを一歩ずつ行くべきなのかもしれません。
歌詞
“朝は眠いのに起こされて 朝めし食べずに学校へ 一時間目が終ったら 無心に弁当たべるのよ”(高石ともや『受験生ブルース』より、作詞:中川五郎)
お昼のためのお弁当が、おそめの朝ごはんに充当されてしまいました。ブランチというとオシャレな気もします。一時間目のあとではブランチにも早いかもしれません。遅朝ごはんに消えた弁当のポストにつくのは購買のパンなどでしょうか。主人公の学校にそれがあるのかどうか知りません。若い人はとにかく腹が減りがち。早弁は世代を超えた普遍ではないでしょうか。私も身に覚えがあります。朝飯を食べたうえで早弁・買い弁です。
“昼は悲しや公園へ 行けばアベックばっかりで 恋しちゃならない受験生 ヤケのヤンパチ 石投げた”(高石ともや『受験生ブルース』より、作詞:中川五郎)
よりによって、お昼に公園に行ってしまった主人公。やめときゃいいのに……おそ朝ごはんでお弁当を消化してしまったその足で行ったお昼の公園なのでしょうか。
「アベック」は死語か。1986年生まれの私は「アベック」という言葉を実用したことがありません。「カップル」でしょうか。カタカナをやめましょう。「恋人」でいいじゃない。いえ、恋仲じゃないただの男女かもしれません。主人公には男女というだけで恋仲にみえたのかもしれません。今のじぶんにはその自由がないと考える人には、その自由があるようにみえる人がうらやましく感じられるものです。実際にはそうでない人でさえ、その自由を行使している人に見えてしまうのです。もちろん、主人公が観察した通りの恋仲かもしれません。
“ヤケのヤンパチ”は私にとって初めて出会う言語表現です。石をなげてはいけません。あぶないです。
“夜は悲しや受験生 テレビもたまには見たいもの 深夜映画もがまんして ラジオ講座を聞いてるよ”(高石ともや『受験生ブルース』より、作詞:中川五郎)
今の受験生が見たいけど我慢しようと思いがちなものといったらスマホでしょうか。
私は十代のうちに一生ぶんのテレビ鑑賞を済ませた気がします。30代なかばの今、私からはテレビをみる習慣が消えました。ヒマさえあればスマホを見てしまいます。なんならヒマをつくってでもスマホを見る。そんなにスマホが好きなのか。いま、自分が受験生じゃなくてよかった。いえ、べつに、受験生がスマホを見たっていいと思います。むしろ、必要な量の勉強を済ませて好きなことをやる時間を確保できる人は優秀です。「受験生」という肩書きは、その人を語るごく狭い一面でしかないのです。
主人公は勉強に相当するラジオ講座を聴くようです。受験にのぞむ積極性や、相当な自制心を持つ人物に思えます。直前のコーラスでは「アベック」に石を投げたようですが……振れ幅のある人格がリアルで妙。
“テストが終れば友達に ぜんぜんあかんと答えとき 相手に優越感与えておいて 後でショックを与えるさ”(高石ともや『受験生ブルース』より、作詞:中川五郎)
「ラインマンガ」などの漫画アプリを私はよく見ますが、いまだに「デキるのにデキないふうにケンソンする態度」はあるあるネタとしてさまざまな作品に登場する気がします。漫画作者も高齢化しているのでしょうか。いえ、きっと若い作者もいるはず。「デキるのにデキないふうにケンソンする態度」はきっと世代を超えた普遍なのでしょう。
主人公は、ちょっと意地悪な感じがします。したたか、狡猾。相手の束の間の優越感をあとで崩す光景までを予見して、現在の態度を選んでいるようです。そのくらいの演算ができなければ、受験には勝てない……?
そう、「デキるのにデキないふうにケンソンする態度」は、その人の予見能力の表出なのかもしれません。
もっとデキる人は、その裏をかくかもしれません。「デキるのにデキないふうをよそおっといたほうが、あとあと有利」と考える人を出し抜くために、「デキる」で態度と能力を一致させておくのです……それって……どうなのでしょう。よくわからなくなってきました。
「能ある鷹は爪を隠す」といいます。能ある人は、爪を隠すときと、爪を出すときを使い分けるはずです。鷹と人を一緒にしてはいけません。
“母ちゃんも俺を激励する 一流の大学入らねば 私しゃ近所の皆様に あわせる顔がないのよ”(高石ともや『受験生ブルース』より、作詞:中川五郎)
近所の家庭の子の受験の成否を噂するような地域性は現代、薄れた気がします。
でも、ママコミュニティみたいなものがあって、子のステイタスのようなものでマウントをとりあうなんてことが現代にないともわかりません。「ママ」といってしまうのも私の偏見かもしれません。パパでもいいし性別に関係なくていいでしょう。
幼稚園や小学校くらいまで、つまり子の自立性が低いうちは親同士のコミュニティもある程度活発度があるかもしれません。子の成長につれて、つまり高校生くらいにもなると薄くなる? 未経験なのでわかりません。私が受験生だった過去よりも、私の子が受験生になる未来のほうがもう近いかもしれません。
“ひと夜ひと夜にひとみごろ 富士山麓にオウム鳴く サイン コサイン何になる 俺らにゃ俺らの夢がある”(高石ともや『受験生ブルース』より、作詞:中川五郎)
√2と√5のことでしょうか。こういったことを記憶することで受験や試験を戦った記憶が私にはありません。
たとえば一般の音楽の授業でやるであろう楽典に関わる一切の学びを、一生でまったく活かすことのない人はたくさんいるでしょう。私は、むしろ音楽に関わるあらゆる学びを日々ありがたく発揮して楽しく生きています。
サイン・コサインでもさまざまな方程式でもなんでも、人によってはそれを重大な真理として生きるうえで意識したり接したり、活用して生きているかもしれません。何をえらび、どう生きるかは人それぞれ。主人公の生き方には、数学に関わることは遠かったのかもしれません。私自身、「数学」をくらしに活かしているかどうかでいえば、どちらかといえば主人公に近い個性の持ち主かもしれません。でも、しばしば役に立つと思うこともあります。音楽は物理であり、数学でもあります。向き合うことで、私ももっと世界の真理を感じられるのかもしれません。
“マージャン狂いの大学生 泥棒やってる大学生 八年も行ってる大学生 どこがいいのか大学生”(高石ともや『受験生ブルース』より、作詞:中川五郎)
なんのために大学生になりたいのか。大学生になって何がしたいのか。見据えて受験に臨んでいる人がすべてとも限りません。戦いの末に得られるものを靄に包んだまま、闇雲に戦う受験生もいるかもしれません。
苦難を乗り越えることで至る光景。そこへのイマジネーションが、苦難を克服し、たたかう気力をもたらすのかもしれません。気力というと精神論みたいです。休養と活動を自制心。自分を運転し、行きたいところに至る能力。それをためされるのは、受験生にかぎりません。みんな、そうやって生きていくのでは。大人でもなんでも。
苦労してなった大学生。得たその肩書き。その環境において、マージャンしたり泥棒したり留年したり……それがしたくて受験を戦い抜いたのかと問われた時……彼らはなんと答えるのでしょう。もちろん泥棒は違法ですが、マージャンや留年はその人のしたいようにすればいい範囲の話でもあります。
“勉強ちっともしないで こんな歌ばっかり歌ってるから 来年はきっと歌ってるだろ 予備校のブルースを”(高石ともや『受験生ブルース』より、作詞:中川五郎)
きれいにオチました。……いえ、まだ主人公が「オチた」かどうかわかりません。歌のオチがきれいにつきました。キレがよい。
主人公は浪人生になる未来も視野に入れているのか。さまざまな可能性を予測し、備える(備えない)のもより自由に生きる指針です。受かった時のこととおなじくらい、落ちた時のことを考えるのも有意義かもしれません。浪人生になったくらい、なんだ。そんな瑣末なことは人生の汚損になりゃしない。主人公は諦観のある人かもしれません。子の浪人生活にかかる費用を思うと親は笑えない? 親でも子でも、その状況を「離して、見る(観察する)」こと。それがブルース(悲哀)ではないでしょうか。
青沼詩郎
シングル版とライブ版の『受験生ブルース』を収録した『受験生ブルース 高石友也 フォーク・アルバム第2集(+4)~第2回・高石友也リサイタル実況より~』(2006)。
ご笑覧ください 拙演