観察の目を逸らすモーション
まえがき 宿題をしたモーション
宿題の入ったランドセルの位置が最後に家に帰って置いたときと微動だにしていなかったら、宿題をやるどころかランドセルに触ってすらいないのが明白である。そのことを親に悟られてはまずいと思った小学生がランドセルをちょこっと動かして触った形跡の工作を図ったとして、「宿題を済ませる」という本質的な課題は解決されないし、察しの良い親をごまかす謀略は失敗に終わり、甚だ無駄である。こんなまぬけな実例があるか知らないが工作(ふりをすること)の例として想像したまでである。
浴室の足跡
お風呂に入ると浴室は濡れるものだ。誰かが最近お風呂に入ったのが自然であるタイミングで、浴室がカラッカラに乾いていたらおかしい。使用済みの濡れた浴室を装う場合、工作をするのはわりと簡単で、シャワーでお湯をざざっと浴室内に飛び散らせば最近誰かがお風呂に入ったっぽくなるだろう。
この逆は少々大変で、誰かがお風呂に入ったなんておかしいと思われるのが都合が悪い場合、びしょ濡れの浴室を短時間でカラッカラに乾かすことは難しい。乾燥機のついているバス・ルームも世にはあるだろうが、いかにもさっきまで乾燥機を動かしていました風に浴室がホカホカした乾き具合もまた不自然である。
「お風呂が濡れているとおかしい or 乾いているとおかしい」といったシチュエーションがどんなものか甚だ私の知ったところでないし、それに対してなんらかの工作を図ったところで、そのままにすると都合の悪い原因:根本の問題は解決されない。
事実を観察しようとする誰かの目をごまかすための工作を図るのはむなしいのである。とっさにそれをすることで、工作した人の意図する方向にものごとが運ぶのだろうか。短期的な工作が長期的にみても有利にはたらくことって一体どれだけあるのだろう。
そんな工作をせずにいられない、ついやってしまうのも人の心の真の姿かもしれない。また、導き出す結論や表面上の潮流にそのときの心情がついて行かないために、行動が気持ちと裏腹なものになってしまうこともあるだろう。そうした機微を描く傑作が、中島みゆき『悪女』だ。
中島みゆき『悪女』歌詞にみる主人公の心と態度の二面性
“マリコの部屋へ 電話をかけて
男と遊んでる芝居 続けてきたけれど
あのこもわりと 忙しいようで
そうそうつきあわせてもいられない”
“女のつけぬ コロンを買って
深夜のサ店の鏡で うなじにつけたなら
夜明けを待って 一番電車
凍えて帰れば わざと捨てゼリフ”
(『悪女』より、作詞・作曲:中島みゆき)
主人公のとる行動が、誰から誰に対するなんのモーション(ふり:工作)なのか、これだけだとやや分かりづらいかもしれない。男の気配を装う主人公のふるまいだろう。
“悪女になるなら 月夜はおよしよ
素直になりすぎる
隠しておいた言葉がほろり
こぼれてしまう 「行かないで」”
(『悪女』より、作詞・作曲:中島みゆき)
サビの部分で、「ふり(工作)VS 本心」のちぐはぐがスポットライトに照らされ露わになる。“行かないで”が実直に語る部分だろうか。主人公の心の内と思われるこのせりふの部分を別録りで演出しており意匠を感じる。録音・演奏上パートをはっきり区別し、歌唱上の表現も別人のように甘く嘆くような声で演じる。
「月夜なんかに悪女になろうとすると、こんな具合に甘ったれた本音が漏れかねないからくれぐれもやめておくんだよ」という表現であり、実際に主人公が未練の対象とする“あなた”に向かって本音(“隠しておいた言葉”)を漏らしてしまった事実は存在しない、と解釈するのも『悪女』の卓越した味わいのひとつである。実際の主人公は“あなた”に対してあくまで「演じ切っている」のかもしれないのだ。“行かないで”などという未練がましい言葉をこぼすことなく。
もちろんこの解釈の真逆かもしれなくて、主人公は「徹する(隠しきる)」という方針においては醜態というべき未練がましさをひとくさりすでに露呈してしまったからこそ、これをかみしめて自戒的に唱えるフレーズこそが『悪女』のサビ部分なのかもしれない。
この歌の主人公の実際はどちらといわけでもなく、心と態度のこうした二面性:振れ幅が重ね合わせになってドンとリスナーにまっすぐにぶつかってくるところが『悪女』の傑作たる所以である。
誇り高き葛藤
“涙も捨てて 情も捨てて
あなたが早く私に 愛想を尽かすまで
あなたの隠す あの娘のもとへ
あなたを早く 渡してしまうまで”
(『悪女』より、作詞・作曲:中島みゆき)
相手に自分以外の相手がいることは、自尊心を深く傷つける事実である。主人公に「ふりの工作」をさせる、関係のもつれをもたらす第三者(あの娘)の存在が2コーラス目の折り返しで明かされる。
もちろん第三者の介入を許すのは当事者(のいずれか)の裁量であって、介入を排除する高い理性や意志の存在も肯定しうる。どうしてこうなってしまうのか。介入する外力があまりに強いのか、介入を排除する意志があまりにも弱いのか。
恋愛は一対一のものという規範はひとつの例であり、絶対のものでない。それを望む人同士が結ばれれば穏やかであるが、片方のみが違っただけで心の均衡は乱れることになる。複数対複数の幸せもあるだろうし、同一人物においてポリシーが移ろうこともあるだろう。そういう多様な愛情の志向を前提:背景にしたポップソングもこれからどんどん出てくるべきだとは思う。それはそれとして、『悪女』は一対一の恋愛が規範であることに媚びるでもなく、ときにやけっぱちに傾く主人公の心情は多くの人がもつ普遍的な人格の一つなのだろう。
新しく育む規範が尊重されるべきものであるのと同様に、既存の規範も尊重されて然るべきものである。もちろん、個人の尊重するポリシーは常にその妥当性を検討し修正を反映しながら積極的意志によって選択されるべきもので、その結果が既存の規範と重なるとか既存の規範を逸脱するとかいう実情を尊重すべきなのだ。現状に甘んじることによる害悪は常に警戒しなければならない。既存の規範はときに「巨大な思い込み」に成長する。
『悪女』の“あなたの隠す あの娘のもとへ あなたを早く 渡してしまうまで”(作詞:中島みゆき)は、あくまで主人公が主体となった表現であるところが貴い。本来、その人の処遇を決めるのはその人自身であり、ここに登場する“あなた”の行方を決めるのは“あなた”自身である。“あなた”は、自分の意志で選ぶ好きな人と一緒にいようとする主体であるはずだ。そんな“あなた”を、主人公が“あなたの隠す あの娘のもとへ あなたを早く 渡してしまうまで”と、まるで自分のもののように扱う。
主人公の有する、「愛情の対象とした“あなた”」という観念そのものを“あの娘”に渡してしまうまでは気丈でいようとする意志と、その実現に係る精神的負担の重みを想像させ、グッとくるところである。
一見「三つ巴」とでも表すべき関係ともいえるかもしれないが、あくまで主人公の心をドンと中心に据えており、未練がましさの裏面に凛々しさが立つ。“私vs私”の葛藤の構図を思う。
中島みゆき『悪女』を聴く
ストーリーを紡ぎ、語り聴かせる歌唱力は稀有である。主観的な目線の移ろい、場面転換はスムーズに交い、助言を語る調子でその奥にある主人公の心労、感情の徒労がいかに重く大きいものかを聴き手に想像させる。私も自分を慕って話を聞いてくれる後輩のひとりでもいればサシ飲みで「~なら、~はおよしよ……」の文構を真似てみたい。
ピアノのサウンドが出どころを押さえていて雄弁、主人公の背景をネオンでオシャンに輝かせる都市の趣である。編曲は船山基紀で私の好みで挙げるに沢田研二『勝手にしやがれ』『コバルトの季節の中で』、中島みゆき作品でいえば『時代』などが同氏による編曲。色・柄・形・大きさ……歌手や作品の魅力を映えさせる最適な器選びを思わせる。編曲は容れ物であると同時に肉体である。
カバーを聴く
畑中葉子
原曲の高めのA♭調(?)に対してB♭調でパフォーマンス。原曲の質感、アレンジを丁寧に尊重する姿勢を感じる。“行かないで”の甘い声までよく写し取りつつ、ちょっと気だるげなニュアンス漂う歌唱。編曲は西崎進。
フェイ・ウォン
広東語の韻が小刻みに寄せる波のようなリズム。サビは日本語の発声でいうとろこ「ン」で詰まったような印象の発音をリズミカルに連ねるところ、音楽のジャンルが変わったような印象を受ける。
シンセ・ベースとドラムパートの16ビートに、原曲の『悪女』の8ビートの颯爽としたボーカルメロディが重なると独特のねっとり感を帯びる。広東語独特の、語末に向かって「閉じる」印象の発声の響きと相まって怨念を強める。
主人公の心の機微に根差す挙動、そのディティールを描いた原曲のリアル味に対してシンセ・ベースのサウンドは魔性・フィクション感、ちょっとダークでファンタジーなテイスト(演出された虚構の趣)を呈しており私としては「『ファイナルファンタジーⅧ』(主題歌:アイズ・オン・ミー)のフェイ・ウォンだ!」とはしゃぎたくなる、アーティストの気風を感じるところかもしれない。
クレモンティーヌ
明るく柔らかいタッチのギター、アコースティックな響きは極上の品あるカジュアル味。ささやくような歌唱は息、音量が安定して精神衛生に良いこと極まる。息を多めに捨て、浅く楽器に相槌させたようなかすれたフルートがおしゃれな味わい。
言外の複雑なディティールや夜をまとってどろつく心身のどっしりとした疲れさえ想像させる原曲に対して、クレモンティーヌのパフォーマンスは日曜のお昼のティータイムに友人と囲んだテーブルでふるまった手作りの焼き菓子がいかに簡単なレシピでサクっとできたものかをさらっと話す鼻息で吹き飛ぶ粉糖のような軽やかな趣である。エンディングのボーカルフェイクの部分などは別の曲に生まれ変わったような転生感がある。
ドゥムドゥムと響いたりカンカン鳴ったりするのはウドゥ(壺に穴が開いたような不思議な楽器)だろうか。鳥の声そっくりの笛のような音色、ほかリズム楽器の味付けが軽やかな曲想をさりげなく豊かにし、聴きどころである。
『悪女』楽曲のつくりを眺める
構成
前奏(半Aメロ)-A-A-B-間奏(Aメロ相似)-2A-2A-B-後奏(半Aメロ)
Aを繰り返してB(サビ)が来るパターンを2セット、非常にシンプル。Cメロなどほかのパーツがある構成だと、2セット目の時にAメロの反復を省くなどする楽曲も多い。
A(×2)-Bのシンプルな形を繰り返す『悪女』においては2コーラス目の折り返しのAで「主人公、“あなた”、“あの娘”」の関係が歌詞にはっきり見えてきて、サビのフレーズが与えるイマジネーションの解像度と深度を上げ、感情に大きく揺さぶりをかける。
コード進行
Aメロパターン
|Ⅰ|Ⅰ|Ⅵm|Ⅵm|Ⅳ|Ⅳ|Ⅴ|Ⅴ|
|Ⅰ|Ⅰ|Ⅵm|Ⅵm|Ⅳ|Ⅴ|Ⅰ|Ⅰ|
Bメロ(サビ)パターン
|Ⅰ|Ⅰ|Ⅲm|Ⅲm|Ⅳ|Ⅳ|Ⅴ|Ⅴ|
|Ⅰ|Ⅰ|Ⅲm|Ⅲm|Ⅳ|Ⅴ|Ⅰ|Ⅰ|
AメロパターンとBメロパターンがかなり似ている。主和音(Ⅰ)のあとの和音がⅥmかⅢmかくらいの違いであり、ここまでコード進行の骨格似ていてもAとBに対比やキャラクターの違いをきちんと与えることができる歌詞とメロディ、演奏やアレンジの力は偉大である。コード進行は歌詞のある大衆音楽においては比較的些細な要素だともいえそうだ。
ボーカルメロディのポジショニングとリズムの疎密
歌詞においてAメロパートは状況描写、Bメロパートは状況を踏まえた心の動きに焦点を当てており、リスナーの感性にグッと迫るものがある。メロディの音域の天井(一番高いところ)をAメロパートはE♭、BメロパートはA♭と4度ほど高くなっていることになる。音程の高さは、メロはそこそこにとどめてサビで高い音域を出す、という歌もの音楽の定石には正直な楽曲かもしれない。
ボーカルメロディのリズムの密度もはっきりとした対比があり、Aメロパートは休符が多い。休み休み、徐々に状況描写が進む。Bメロパートは同音連打が増え、休符が極端に少なくなる。ほとんどを8分音符のストロークで埋めたボーカルメロディになっている。サビとメロできっちり緩急が出る理由がよく分かる。
実感するアレンジの妙
提示のAメロパートではドラムはスネアを抜き、折り返しのAメロパートからスネアのバックビートを加える。Bメロパートで「Ah」系のバックグラウンド・ボーカルの壁が立ち上がり、メインボーカルのうしろの少し高いところのレンジを豊かにしリスナーのエモーションを高めている。
シンプルな構成に動きを与える間奏の転調
ごくシンプルな構成、コード進行のなか、間奏で転調する効果が大きい。A♭調のサビを終えて、間奏でE調になり地平を一新する。
ここのE調は、調合の煩雑さを無視すればF♭調ととらえて良いかもしれない。元調をC調ととらえればA♭調すなわちⅥ♭に転調した格好だ。ほぼAメロパートに準じたコード進行を有し、出口付近でメロディの短2度進行のなめらかさにかこつけて元調(A♭)のドミナント(E♭)に接続、アクロバティックかつナチュラルに元に戻してしまう。現実はどうあれ、心の旅路は風光明媚であるのを思う。
むすびに 悪女の顔の裏
すらすらと聴き手の心に流れ込む水のようなしたたかさ、偏在性。半ばやけになる心と後ろ髪を引く未練の間に中立し(たり中立しかねたりし)、毅然とふるまう自己の貴さを暗示する言葉、歌、演奏は曲名に冠する“悪”の字の裏返しである。
「素直じゃないね、私もあなたも……」そんな普遍の真理、行動と心情のちぐはぐな重ね合わせを描いた傑作。さまざまな面で味わってはいかがだろう。
青沼詩郎
中島みゆきのシングル『悪女』(1981)
異なるアレンジの『悪女』を収録した中島みゆきのアルバム『寒水魚』(1982)
『悪女』を収録した畑中葉子の『強行突破』(1982)
『悪女』を収録した畑中葉子の『後から前からBOX [ソロデビュー 35th Anniversary Special]』(2014)
『若你真愛我』(『悪女』のカバー)を収録したフェイ・ウォン(王菲)のアルバム『十萬個為什麼(十万回のなぜ)』(1993)
『悪女』を収録したクレモンティーヌのアルバム『CLE』(2003)
『悪女』を収録したクレモンティーヌの『カヴァメンティーヌ』(2011)
ここに紹介した以外のカバーも多い。
ご笑覧ください 拙演(YouTubeへのリンクShiro Aonuma @bandshijin『悪女(中島みゆきの曲)ピアノ弾き語り』)