bandshijin アルバム『赤魔道士の憂鬱』発表の概要
2024年7月17日、CDリリース。同7月31日、配信リリース。11曲。
1. 君の傘を持つよ 2. 舶来のルール 3. 真夏の瞳 4. 青ざめた生活 5. 夜の水族館 6. 赤魔道士の憂鬱 7. 着信・小川さん 8. C 9. 麺の川 10. 君の歌 11. 青ざめた生活 (Reprise)
全作詞・作曲・編曲:青沼詩郎。
M1 君の傘を持つよ ロネッツ『Be My Baby』への憧憬
ド、ドド、タン! ロネッツの『Be My Baby』のドラムパターンオマージュをやりたかったようです。カランとカスタネットが鳴り、チャリチャリとタンバリンやトライアングルがにぎやかします。シンセサイザーがポルタメントして、青沼詩郎が育った90年代のポップミュージックを思い出させるのはCHARAさんや小林武史さんらYEN TOWN BANDによる『Swallowtail Butterfly 〜あいのうた〜』の存在の大きさ故でしょうか。
大滝詠一さん提供、吉田美奈子さんによる『夢で逢えたら』のドリーミーな生演奏のサウンド、儚げで哀愁豊かな歌唱への憧れも大きいようです。
布団の中で悶えた夜が 傘を閉じたら迎えに行くよ
『君の傘を持つよ』より、作詞:青沼詩郎
夜は不遇の季節の象徴でしょうか。豊かな収穫期を迎えるための準備期間、養生する、生育する、醸成するプロセスが「夜」であるとも思えます。
傘は身を護る道具でもあります。それがもう必要ない好機が来て、その瞬間を「君」と共に行きたい希望の想いを映します。
先人の偉業、エンターテイメント音楽の文脈をなぞったり踏襲したりするのは恥である、くらいにずっと昔の若かりし頃の青い青沼詩郎は思っていたかもしれません。歳をとって、先人の偉業を面白がれるし、素直に受け入れ、敬意を持ち、表せるようになったのです。成長とするか劣化とするかは些事でしょう。変化しているのが確かな事実です。時間とともに人はあゆみます。傘をとじたり開いたり、夜を迎えたり朝を迎えたり。繰り返しと輪廻を音楽で超越したいのです。
M2 舶来のルール 南蛮のブレインストーミング
シンセがピチピチとわさつき近未来的で人工的です。ですが今さらシンセをフィーチャーしたところで何が新しいのでしょうか。
舶来の品物にございます お殿様 香しく麗しく キスさせてくれる ルール
『舶来のルール』より、作詞:青沼詩郎
お殿様などと時代錯誤な語彙を唐突に噴出させるあたり、近未来どころか思い切り過去を見ています。“貢がせてくれる”とか、“キスさせてくれる”とか、お水の花道に溺れて骨を埋める刹那い言葉遊びに耽り切っている。音楽も演奏もすべてこのリリックの戯れのお飾り、演出に尽きるのではないかとさえ思います。ドラムがバカバカと轟き、荒っぽく骨張ったサウンドは青沼詩郎の趣味です。
シンセサイザー:Reface CSと双璧で活躍するのはエキゾティックのワウペダルです。飛び道具的なサウンドで舶来の品物の語彙を盛り上げます。
売れるフレーズ フルネーム シューゲイズ
『舶来のルール』より、作詞:青沼詩郎
舶来っぽい語彙にスケベ心を丸出し、さして深い造詣の持ち合わせもないシューゲイズなどいう単語まで持ち出します。あわよくば売れたいのか。スケベ心の荒海に孤独な多重録音愛好のソングライターが浮かべる生船が嵐に打たれてうわ言を陳述する珍奇で野蛮で南蛮な3拍子ロックです。
M3 真夏の瞳 成長の喜びと一抹の寂寥
エンターテイメント音楽の文脈への敬愛とパーソナルな思慕を掛け合わせたM1、スケベな言葉遊びと楽器演奏のヤンチャに耽るM2にフォローを入れるつもりなのか、他人様の唇に宿っても不躾に汚さずに済みそうな「普通な歌」っぽい素直なメロディとコード、アコースティックな楽器の響きはひとえに青沼詩郎が子息への想いを率直に描いたから獲得した愛想でしょうか。
いつまでもそばにいてほしいけれど どこまでも遠く続く空に手を振るよ
『真夏の瞳』より、作詞:青沼詩郎
子供が育ち、巣立ち、大成することのよろこびと、遠く羽ばたくことへの一抹の寂しさの相反する想いの重ね合わせを歌ったものですが、実際の青沼詩郎の子息の実年齢はまだ未熟なもの(2024年時点)ですし、同時に青沼詩郎自身も親として大変未熟ですから、子供が実際にもっと大きくなると、「巣立ってしまって寂しい」なんてことは実際にはなくもっと達観した価値観を獲得するのかもしれないし、あるいは思っていた以上に幼稚なままの親でい続け、マジで寂しい海に浸されるものなのかも分かりません。
ピヨーンと伸びるオルガンっぽいのに何かちょっと違う音色はReface CSで作った音です。アルバム『赤魔道士の憂鬱』収録曲において重要な魔道具のひとつに位置づけられます。
M4 青ざめた生活 新潟旅行とGibson J-45
2022年にYouTubeやサブスク配信でリリース済みのシングル。哀愁、悲哀。その象徴の「青」は青沼詩郎の創作テーマとして重要な柱のひとつです。
この曲の作曲の直前、長年bandshijinのサポートベースを務めてくれたメンバーが故郷の新潟で挙式をし、私はそれに出席しました。1分35秒付近から、「コリッ、カリッ」……というノイズがするのは、滞在先の旅館のゲタを履いて宿の近くの駐車場を歩く私の足音をiPhoneで収録したものです。新潟に生息する蛙だか虫だかの盛大な鳴き声に胸がときめいてボイスメモを動かしたのですが、音楽にコラージュするとかろうじて私の足音がわかるくらいで蛙の声はほとんどわからなくなってしまいました。
1分30秒頃から唐突に半音上に転調し、AでもBでもないCメロのような展開を迎えます。コンパクトな曲のサイズに起伏を与えたい青沼詩郎なりの音楽的な工夫を込めています。また、自分のホームタウンから新潟へトリップした新鮮な気持ちが音楽に憑依したのかもしれません。
この新潟旅行の前月に入手したばかりだったアコースティックギター、gibson J-45も楽曲の誕生に大きく寄与しています。ワークホースの異名:通り名を持つJ-45はガシガシと粗暴にストロークして現場で使い倒すのにうってつけの名品ですが、フィンガーピッキングでバラードに用いても可憐で体温や感情の機微を映した表現の器になってくれるポテンシャルを証明しています。
M5 夜の水族館 標題なき純然たるインスト
何も考えずにギターをぽろぽろと弾き始め、インストを作るのが好きです。印象的なシンセサイザーの音色を決めるよりも先に、リズムとハーモニーのギターの下敷きをしてからこのシンセの特徴的な音色が導かれたと記憶しています。パソコンのDAWで演奏を収録していると音数(トラックやパートの数)を増長させてしまいがちな悪癖のある青沼詩郎としてはミニマムな編成を保持して制作できた好例です。何も考えず・決めずに作ったのでタイトルを後から考える羽目になりましたが、青沼詩郎のパートナーでフルーティストの青沼愛がこの音源を聴いて「水族館」みたいなことを言ったのでそのままタイトルに頂戴しました。「夜の」も彼女が言ったんだったかな、記憶があいまいです。
インストは歌詞による意味づけがないぶん、受け手から曲の印象を引き出される部分が大きいのが制作者として反響が痛快な部分です。あとづけのモチーフが主題になってしまうなんて作曲者の立場がないようにも思いますが、思えばクラシックの大曲・名曲の多くも「Op(オーパス)〇〇」とか「交響曲第○番」とかナンバリングがなされているだけです。音楽の形のあるようなないような不思議さ、ふわっとしたフィールを音楽で捉えた純然たるインスト曲だと思います。
M6 赤魔道士の憂鬱 器用貧乏へのアンチテーゼ
君はなんでもできるけど 君はなんでもできるだけ 君を選べばうまくいく 旅の初めはうまくいく やがて辺りは血に染まり 君の身体は埋もれてく 耳を塞いで聴く声は “誰が涙を拭きますか?”
『赤魔道士の憂鬱』より、作詞:青沼詩郎
ファイナルファンタジーという言わずもがな傑作ゲームシリーズ大家があります。回復に長けた白魔道士、攻撃に長けた黒魔道士、あるいはかれらがつかう「白魔法」「黒魔法」がシリーズに定番のように登場します。
赤魔道士は、白と黒の両方の使い手です。それ最強じゃん?! そう、最強ですよ! な筈なのですが、ゲームの難易度が上がっていく中盤〜終盤頃の強敵との戦闘において主力となるような白魔法や黒魔法の最上位クラスの魔法が使えないのです。それって器用貧乏ってやつじゃないの?
広く浅くいろんなことができるけれど、ひとつの道で大成しない人。赤魔道士はまさにそれなんじゃないかと思わせます。
青沼詩郎はアルバム『赤魔道士の憂鬱』すべての収録曲のすべての楽器を一人で演奏しています。赤魔導士は、自分に重なる存在に思えてなりません。
広く深く、すべての道で大成したらどうなんだ。器用富豪だぞ! そういう気持ちですべてをやっています。無茶でしょうか。笑うがいいさ。
ある物事に研究熱心になると、その道で得た知識経験や技術、体力や筋力の多くは、ほかの物事、分野、ジャンルの道の追求にも応用が効きます。赤魔道士は、白魔道士であり黒魔道士であり赤魔道士である以前に、「魔導士」なのです。
「憂鬱」とは、その境地に至るまでの周囲との摩擦の苦痛なのかもしれません。
ミャーンと漂う音色はやはりシンセサイザーのReface CS。エレキギターはFender STRATOCASTERです。楽器の機構特有のアーミングも活かしました。この楽器は発明品で、楽曲『赤魔道士の憂鬱』に必須のサウンドでした。この楽器と出会ったことで『赤魔道士の憂鬱』が完成したのです。
“Parsley, sage, rosemary and thyme”はサイモンとガーファンクルが有名にした『スカボロー・フェア』の有名な一節の引用です。まがまがしく不浄な存在としての妖精を退けるための退魔のまじない、「くわばら、くわばら……」にあたる西洋バージョン、というような解釈もしうると聞きます。万能(ジェネラル)に人生をサバイブする赤魔道士特有の悩みなど露のように払ってしまえ! という想いで引用したのかもしれません。
M7 着信・小川さん 大バッハ先生宅の保留音の「もしも」
前曲『赤魔道士の憂鬱』を切り取る唐突な着信。電話のプルプル音の再現はやはり青沼詩郎の愛機Reface CSで作った音色です。LINE通話などを中心に使っていると2024年のご時世ではなかなか聴くことのないコール音かもしれませんが、とはいえ電話のコール音は現代でもちゃんと存在するので青沼詩郎的に後世に伝え残したい音なのかもしれません。
複数のエレキギターが役割をわけます。短二度でずりあげるようなリフでベース音を担うエレキギターと、2音を波状に繰り返す単調なアルペジオ風ギターが電話の着信音と相まって単調・機械的な雰囲気です。あとはポコポコとはじける、破裂するような特徴的な音を添えるのはブリッジミュート奏法のギターです。短く音を切って生演奏のニュアンスを出しています。
これにミューンとかわいい音色のシンセサイザーが伸びやかに電話線を引っ張ります。
Bメロでは生声が登場して「トゥルットゥットゥッ……」。つくづく電話っぽさを強調してくる愛嬌があります。犬かよ。
Bメロがあけると青沼詩郎の悪ふざけが始まります。この曲の冒頭の音を何も決めずに鳴らし始めた瞬間はまだそんなつもりがなかったのですが、大バッハ先生の『主よ、人の望みの喜びよ』のメロディの引用がおもむろに始まってしまいました。
GOING STEADYの傑作『銀河鉄道の夜』も同曲の引用をおこなっています。青沼詩郎が高校生の頃、ゴイステをカッコよくカバーする同級生がいました。『主よ、人の望みの喜びよ』の引用もまた、青沼詩郎にとっての平成っぽさ、青春の憧憬を表現する具体的なアプローチのひとつなのかもしれません。
あくまで8分割の4拍子のうえで2拍3連で強引に引用してしまい、ちぐはぐに別々のカットが並行して流れている「画面分割」のような趣を音楽で挑戦しているのが青沼詩郎なりの工夫だとは本人の弁。大バッハ先生がこの曲を聴いたら怒るかな。一緒にコーヒーでもシバきながら一笑に付してくれたら嬉しいのですが。
電話中に保留にされると、待っている間にクラシックを単調なメロディで表現した低いビットなフィールの音楽に出会うことがあります。バッハ先生が現代に生きていたら、バッハ先生のお宅の固定電話の保留音はこの音楽なのです……という青沼詩郎の妄想を表現したのが本曲になります。
電話のコール音と単音のメロディがさみしくエンデイングに残され、遂に受話器が持ち上げられたかのようにすかさず次曲へとつがる演出です。
M8 C 欠けた月の形
前曲のエンディングの電話のコール音に誰かがついに受話したのかのような演出。イントロもなく唐突にメロが始まります。このようなイントロを省略した気の短い構成を青沼詩郎はしばしば好んで採用するのは既発表作の『魔鴨通り』にも通底する唐突なオープニングです。
楽曲『C』を構成するトラックは比較的シンプルで、ドラムとベース、アコースティックギターに金属的な響きを有したアルペジオギター。これはコーラスのようですが先に述べたワウペダルで貧乏ゆすりするように音を揺らしたコヨコヨとしたギターサウンドです。サイドに対になっているのがボトルネック奏法でポルタメントする音色のエレキギター。ハーモニックな2声部を近い定位に重ねています。斉藤和義さんの楽曲にもこうしたハーモニックなボトルネック奏法と思われるギタートラックを見出すことがしばしばあり、青沼詩郎を構成するお気に入りのサウンドでシンプルに構築したかったであろう意図をうかがえます。
曲のキーもタイトルの通りCメージャーキーとなっていますが、『C』という楽曲名の決定打になっているのは三日月の形ですね。
俺は未だ子供だから 月は欠けた形のまま
『C』より、作詞:青沼詩郎
アルファベット文字の「C」を三日月の形に見立て、自己の未熟さを象徴するモチーフとして用いています。
あまり理詰めで考えてつくるタイプの楽曲ではなく、エモーションにまかせて走り抜けるように作詞と作曲を反射神経で同時進行して作ったタイプの曲だと思います。作り終えたあとで、アルファベット文字を歌詞に登場する「月は欠けた形のまま」の象徴としてタイトルに掲げたんだった気がしますが正直本人も記憶があいまいです。ひょっとして詞先だったかな。
ガーっとコードギターをストラミングして歌って、メインのコードストラミングよりちょっと高めの音域にエレキギターのアルペジオがいるというのはbandshijinのサウンドの典型のひとつです。
コードや調性感をひねりたがるクセがあるので、正直なCメージャーキーを前面に感じられる曲がふと生まれると自分にも素直なところがあったんだなと謎に嬉しくなります。
M9 麺の川 平成の万札=諭吉ノスタルジー
ハーモニカを用いた弾き語りを極めたいと青沼詩郎は思っており、すべてのレパートリーがハーモニカ+ギターのコード奏法でも良しとしよう、その代わりこのスタイルで右に出るもののいない世界一を目指してやろう、と思うくらいにこのスタイルと自身の親和性を感じているのですがアルバム『赤魔道士の憂鬱』収録曲においては唯一のハーモニカ+ギターの弾き語りを基調にしたスタイルの楽曲となりました。それもアコギがコードのピックストラミングではなく、稚拙なスリーフィンガーでのアルペジオをしながらハーモニカを吹きながら弾き語るという小賢しいスタイルになっていて、アコギは埋没した奥まった響きの隠し味程度の情報量になっています。
独特の「トスッ」という中低域の出たスネアのサウンドはロッド(竹ひごを束ねたような材質のスティック)でスピード感のあるリズムを心掛けました。ベースも音の切り方に気を配った4つ打ちのパターンを演奏しています。
ミャウミャウした音色のエレキギターは大活躍のワウペダルで、後半はペダルの貧乏ゆすり奏法でコヨコヨさせています。昔の歌謡曲やフォークのような短調の湿っぽいフィールを、フゥーという可憐な(?)バックグラウンドボーカルの彩りで中和します。前曲『C』のCメージャーキーを意識し平行調のAmを基調にしたこの『麺の川』を並べて曲順にしています。1970年代前後くらいの、短調のフォークや歌謡曲やGSが青沼詩郎は大好きで、歌詞も例えばGARO『学生街の喫茶店』のような独特の短調のシケり具合を意識しておりbandshijinの既発表曲『祝日リマインド』との通底を感じます。気に入ったスタイルは頻用してどんどん高めていきたいのが青沼詩郎です。
タイトル『麺の川』は、『天の川』の川がもし麺でできていたらという仮定でつけました。
この楽曲の誕生の経緯は、東京都八王子のライブハウスorバー・ダイニングのpapaBeatのお題作曲企画イベントにあります。「友達」「引っ越し」「カップラーメン」「秋」以上4つのキーワードをすべて歌詞に含めて作詞作曲してきたものを対バン(全員ソロ弾き語りのイベントでしたが)が披露しあうという攻めた企画に青沼詩郎が書いて持ってきたものです。
夜の細道蛾の集る 街灯背負い吸う煙草 大学出たら縁切れた あいつどうしたか奴が訊く
『麺の川』より、作詞:青沼詩郎
くされ縁の大学時代の同級生同士の、だらだらとした付き合いが切れるともなく続く漠然とした設定で4つのキーワードのフィッティングを目指してソングライティングしました。1970年代前後のフォークor歌謡のような趣味性を頼りにすればなんとなく書ける勝算を感じたのです。
バイトあがりに燻った 咥え煙草でカブふかし 一夜限りの肩書きで 泡よりも軽く溶ける諭吉 ほお袋に溜めたひまわりの種を 吐き出す女王にパパのベル 蕎麦屋だらけの街を出て 星はハイカラ雲間から カップラーメンの汁捨てて 月は蛮カラ天の川
『麺の川』より、作詞:青沼詩郎
八王子papaBeatの周辺はピンク街です。ソープランドもありますし、ライブイベントが終わって帰路に着こうと駅に向かうころにはガールズバーだかキャバクラだかの水商売の客引きのニーチャン・ネーチャンが通りにずらっと並んで立っています。これを作詞作曲する時期と近い頃に、『ゴールデンカムイ』(野田サトルさんの漫画とそれを原作にしたアニメ)で、売春宿が蕎麦屋の暖簾を出して表向きは飲食店の体裁をとるカムフラージュをして水商売をしていたという描写を目撃した影響で「蕎麦屋だらけの街を出て」というフレーズを書きました。万札で性的な満足を得る時間を買うという退廃的な描写はこちとら実体験の持ち合わせがないので解像度の低い想像によるフィクションです。
この歌を書いた時期は2022年10月頃で、一万円札の言い換えとして「(福沢)諭吉」が通じました。2024年7月(この記事の執筆時)には新札の流通がはじまり、一万円札は渋沢栄一になってしまいました。万札=福沢諭吉という感覚も、古きよき平成時代として伝え残したいディティールです。ところで諭吉の前の万札はもう聖徳太子なんですよね。時代の飛躍がすごいな(参考サイト>日本銀行>ホーム>銀行券/国庫・国債>銀行券・貨幣>日本のお金>その他有効な銀行券・貨幣>一万円券)。
M10 君の歌 未来のパートナーとBRシリーズの魔力
だから君と君を好きといつも思ってるよ ある日ピシリとおこられても君は大丈夫さ
『君の歌』より、作詞:青沼詩郎
二人いる息子に向けて書きました。一個一個の「君」が指す固有の対象がそれぞれに違うので『君の歌』という題になりました。
だからいつも君を好きと君と思ってるよ 歩きながら歌いながら覚えておくれ 君のことを好きな君と歩いておくれ
『君の歌』より、作詞:青沼詩郎
「君」も、いつか君のことを好きになってくれる、まだ出会ってもいない未来のパートナー=「君」と並んで行く日を歩むかもしれません。あるいは、「自分自身のことをちゃんと好きでいてやれる君」になってくれよという預言かもしれません。
近年のbandshijinの作品はLogicで収録しているものがほとんどですが、最初のピアノとボーカルの一発録音をマルチトラックレコーダー(いわゆるMTR)のBRシリーズの最上位機種だったBR1600で収録し、2トラックをLogicにインポートして続きの作業をしました。
リバースギターやドローンするバックグラウンドボーカル、リードボーカルのダブルを録り足しましたし、BR1600で録ったそもそもの2トラックにリバースをかけてオープニングとエンディングにコラージュしています。チリンチリンと風鈴のような隠し味を添えているのはIittalaのグラスを爪でノックした音です。
近接効果の出たメイントラックの録れ音はマイキングのせいなのはもちろんですが、MTRのBRシリーズ特有の音のキャラクタもあると思います。この機材のサウンドを私は気に入っており、近年はパソコンでLogicでの収録をメインにしているとはいえ、私が19歳くらいの頃に出会ったBR900CDやその上位機「1600」を未だに部分的・あるいは全部の過程において重宝しています。このアルバム『赤魔道士の憂鬱』収録曲でいえば『青ざめた生活』が多重録音パート含めてほとんどの過程がBR900CDでの収録です。bandshijinの近作『ママチャリブギ』も全過程がBR900CD。これらの各音源を参照していただくだけでも、BRシリーズ特有のサウンドのキャラクターが知覚できるのではないでしょうか。あるいはもっとうまくやれるはず。
M11 青ざめた生活(Reprise) アンチ・アンチテーゼと再演の豊かさ
Fender STRATOCASTERの弾き語り一発録りです。この曲も確かBR900CDで収録。
アルバム『赤魔道士の憂鬱』は「器用貧乏」へのアンチテーゼで、貧乏とは失礼な!こちとら心はリッチ、器用富豪だぜ!というつもりで制作したのですがその「器用富豪」というコンセプトさえも真っ向から否定し、最小限、ミニマムに勝る豊かさがあるか? と自分自身に突きつけます。多重録音、マルチプレイヤーという属性さえも「必要」なんかじゃない、なくても「道はある」と示します。
M4に収録した『青ざめた生活』とは年単位の隔たりを経て収録したトラックがこちらのRepriseバージョンです。ワンコーラスの後やエンディングにつくギターフレーズがオープニングにもついています。ライブでもよくこちらのバージョンのイントロありの形で演奏しています。
歌唱も時間を経て変化していると思います。一つの解答:点を示すのみではなく、過程全体が幅のある解だと青沼詩郎は考えます。線であり面であり、絵(画)であり映像であり、肉体と時間の経過:魂なのです。スピっちゃいました。
ギター1本を残して全てを手放し、こざっぱりと弾き語り終えたところでM1『君の傘を持つよ』の多重録音マシマシサウンドにフィルムがつながります。
Repriseという観念は私は安藤裕子さんの『のうぜんかつら』で初めて知ったのですが、商業音楽の歴史的にみれば例えばThe Beatles『Sgt. Pepper’s Lonely Hearts Club Band』にも見られる定番のアルバムの演出法です。歌ありの同じ曲の別テイクや別アレンジで1アルバムの中で反復すればまさしく「リプライズ」だと思いますが、そうでなくても、たとえばアルバムの表題を象徴するリード曲の主旋律をインストで奏でるトラックをアルバムの冒頭や結尾、あるいは途中のどこかに配置する「リプライズ」の変化・展開形も含めれば、アルバムを演出する手法としては「リプライズ(反復)」はかなりポピュラーなものだといえるでしょう。作品に統一感が出るので積極的にやるべきです。
たとえばドラマや映画やアニメなどひとつの映像作品シリーズのために何十曲と仕上げることになる「劇判」など、共通のモチーフが異なる曲に頻繁に顔を出す手法が基本形だといっても過言ではないほど、ほとんどが「リプライズ」の観念で構成されているようなものです。「同じモチーフを別のところに登場させる」の拡大版が、同じ曲を繰り返して演奏する(反復する)いわゆる「リプライズ」の観念だと論じることができます。
一つの商業アルバムとしての豊かさを遺憾なく購買者に提供することに配慮するのであれば、リプライズとする際はせめてアレンジをガラっと変えた方が望ましいのかもしれませんが、プログラミング(打ち込み)のサウンドを基本的に用いない本作は、ほとんど同じアレンジに基づいていても生演奏を別の機会に反復(再演)した際に生じるふたつの地点の差異や変化がどれほど雄弁であるかを訴えるものです。それほど大袈裟なことでなく、単にアコギをエレキを持ち替えただけでも感覚が一変します。生演奏それ自体の豊かさとは果たして主観的なものに尽きるのか、あるいは客観性を勝ち得るものなのか聴いて批評してくれと問うて締めくくってみます。さぁ、一曲目からまた「リプライズ(反復)」をどうぞ。
青沼詩郎
bandshijinのアルバム『赤魔道士の憂鬱』(2024.7.17)