僕は一寸 細野晴臣 曲の名義、発表の概要
作詞・作曲・編曲:細野晴臣。細野晴臣のアルバム『HOSONO HOUSE』(1973)に収録。
細野晴臣 僕は一寸を聴く
細野さんの歌声はどうしてこうも気持ちのよいものか。それにしても細野さんなりに若かりし頃の青々とはつらつとした声色をしてもいます。声は年齢とともに変化していくものです(たまに小田和正さんや山下達郎さんみたく「いつまでその声のままなの…?」と素朴な疑問が湧いてしょうがない人もいますが……例外的なケースでしょう)。
気持ちいいのは歌、含め種々の演奏、各パート。ポルタメントするトーンのギターはペダルスティールでしょうか。お昼寝を誘う心地よさです。
ちんわりと愛嬌をもって滲むようにひろがっていくじんじんとしたエレクトリックピアノの温度感。モチーフが天にのぼっていってそのまま雲のふとんを切り取り私にかぶせてしまいます。
曲の展開が変わっても音楽センテンスがⅠの和音から始まるのも『僕は一寸』ののほほんとした異様なまでの安寧の陽だまり感の秘密かもしれません。Ⅰではじまり、Ⅰで終止する。全終止の同士の組み合わせを多用することでこの安心感が生じているのでしょう。しいて言えば和声の動きが一番急流になっているのは“日の出ずる国の明日の事でも”の部分で1拍単位で和声が動いていきます。
“ここら辺りに住みつきませんか あそこを ひきはらって 生で聞けるからカントリーミュージック 白い家でも見つけましょうか 日の出ずる丘に彼女と2人で 外の日溜り 枯木に埋まり だまりこくる 家の中の午後 僕は一寸 だまるつもりです”(『僕は一寸』より、作詞:細野晴臣)
細野さんが米軍ハウスに住んだ時期に制作したアルバムが『僕は一寸』を含んだ『HOSONO HOUSE』だというのは有名な話でしょう。
細野さんはどちらかといえば作詞より作曲のイメージが強いです。でもこの私小説のような詩情は見事ですね。『東京ラッシュ』のような言葉あそびの性格が強く出たソングライティングも確かにある細野作品ですが、この「日溜り」を永遠に真空パックしたみたいな音楽と言葉のかけあわせと時間のつかい方、悠然としたテンポ感……種々の要素が総合的にかけあわさって対立する「永遠」と「瞬間」が同時に成立する矛盾、『HOSONO HOUSE』ならびにその収録曲が長く評価されつづけているのに深くうなずけます。
“ひなたぼっこでも していきませんか そこにまあ すわって お茶でも飲んで お話を どんな話をしゃべりましょうか 日の出ずる国の明日の事でも”(『僕は一寸』より、作詞:細野晴臣)
音楽仲間やら録音仲間やらが集って、実際にお茶を囲んでいた……それに近いような記述を細野晴臣さん関連の書籍で読んだことがあった気がします。当時の米軍ハウス一帯にはなんだか現代の私の身の周りとは違う時間が流れていたのではないかと思わせます。軒と軒のあいだにつながりがあるようにも思えますし、それぞれが独立して「軒」が境界をなしているような気もします。それぞれの家に、あるいは「アメリカ村」一帯に、絶対的な独立した時間が流れているのです。もちろん、私がそんな気がするというだけなのですけれど。
日本は太平洋に面していて、日がのぼるのが地球上でも早い国のひとつでしょう。日付変更線がおおむね太平洋上にあるからです。日付変更線というのも、日付を世界で共有するための基準である、というだけの話でしょう。ほんとは、日がのぼるのに早いも遅いもないのかもしれません。
「日の出ずる」…というのは、明るい未来の到来の象徴にも思えます。「凪ぎタイム」、平穏な時間の訪れです。
人生でそういう時間をどれくらい経験できるのでしょう。ずっと常夏の島(みたいなところ)で暮らせたら私の骨はお日さまの元(もと)にうずめられるのでしょうか。それは危うい幻想でもある。働いて、動いて、社会と折り合っていかなければいけないのです。やっぱり日が出ずるからには日は沈みもするのです。
出てくるのも出ていくのも「出」で表現可能でしょう。なんだか深い気もするし、あきれるほどにシンプルな話でもあります。
青沼詩郎
「僕は一寸』を収録した細野晴臣のアルバム『HOSONO HOUSE』(1973)
ご寛容ください 拙演(YouTubeへのリンクShiro Aonuma @bandshijin『僕は一寸(細野晴臣の曲)ギター弾き語りとハーモニカ』)