恋と命

恋をすると尽くしてあげたくなるものです。身を捧げたくなるのが恋の特徴でしょうか。自己犠牲によって、相手の逆境をサポートしてあげたい想い。それも恋の一面かもしれません。

もっとそよ風な恋、水面が凪いでいるような心穏やかな恋もあるでしょうか。

相手のためなら火の中水の中……なんておおげさで煮えたぎる熱情でなく、平和な暮らしだけどあなたがいればもっと私はほっこり幸せ!という老夫婦の境地のような(?)恋もなかにはあるかもしれません。

長く続く関係は与え合うものでしょう。どちらかが与えるばかりでは、片方の資源が尽きてしまいます。それこそ身を滅ぼすのです。尽くさせて、命を吸い取り切って、果てたらまた別の甘い蜜を求めて移動していく……そういう生き方もあるかもしれません。

ヒトの赤ちゃん(子)は未熟な状態で生まれてくるので、子育てしなければ種が繁栄できません。長く与え合う関係が望める相手を求めるのも人類の性(さが)でしょう。話が飛躍しました。

だれしも、この恋が短命であるのを望むわけはないのです。もちろん、性欲を発散するためのワンナイトとかは知ったこっちゃありません。それは恋未満でしょう。欲望は恋や愛と関係はあるけれど、やっぱりそのものではありえないのです。

オックス 僕をあげます 曲の名義、発表の概要

作詞:阿久悠、作曲:佐々木勉。オックスのシングル(1970)。

オックス 僕をあげますを聴く

以前、ロネッツの『Be My Baby』を想起させる曲としてGSバンド・オックスの『僕をあげます』をプレイリストに入れて取り上げたことがありました。

あらためて聴きますと、ロネッツの『Be My Baby』を想起させるのはイントロのドラムスだけ、という感じがします。

響きのある、ムード歌謡。そう、ドラムスに響きがある!というのはロネッツの『Be My Baby』の特徴のひとつとして大きいのでそれだけでも十分だとは思うのですが……『僕をあげます』のボディはもうありすぎな「ムード」でビチョビチョになるくらいのムード(ムードって何回言うか)。

オックスは観客を失神させる、なんならそもそも自分たちがステージ上で失神(したかのようなパフォーマンス)するというバンドだと思うのですが…『僕をあげます』は衝動的で熱情的なアプローチとはだいぶちがう、さびれ・すたれを感じさせるどことなく虚ろな風合いに惹かれる楽曲です。

GSとひとくくりに認知している粗雑な私ですが、『僕をあげます』がリリースされた1970年はGSの猛烈な流行が過ぎ去ったあと……とまでいえるかわかりませんが衰退期かもしれません。ネットでざっくり知っただけの知識ですが、GSの流行期(のピーク?)は1967~1969年だとも聞きます。とすると、1970年5月にシングルリリースの『僕をあげます』は、その猛烈な流行の冷めかかったところでどう出るかを問われる中での一投だったのかもしれないと想像します。

そこでこのムード歌謡(そもそも「ムード歌謡」の定義も私は曖昧ですが)みたいなビチョビチョな情感を携えた楽曲を投じたのが失神バンドとして名をはせたオックスのアンサー(?)だったわけですね。

オックスを想起させる映画『GSワンダーランド』

GSバンドは、かなりレコード会社側の意向によってアーティストとしての挙動をつくられていたコンテンツなのでしょうか。アーティストが、自己表現を貫くフォーマットではない……は言い過ぎかもですが……映画『GSワンダーランド』(2008)を観ると、演歌を発表するレコード会社だかレーベルだかが、流行に乗じてGSバンドの売り出しに乗り出す描写がうかがえます。 レコード会社(生産側)に主導があるコンテンツがGSだった……というのも、GSの認知として一理あるのかもしれません。暴言かもしれないですが、レコード会社の「お人形さん」のよう。ヘンな衣装を着せられてステージに出たりジャケ写になったりする『GSワンダーランド』の登場人物の様子に思います。もちろん『GSワンダーランド』は物語でありエンターテイメント映画ですから、実際や事実を正しく伝える根拠にはなりえないのは承知ですが……少なくとも「おもしろおかしく伝える資料の一端」にはなるでしょう。

話を曲に戻して『僕をあげます』のフルートの響き、甘美で落ち着きのある(ロックバンドとしては落ち着きすぎている?)コーラス(ボーカルハーモニー)の様相なんか、なんだか聴いてて涙が出てきそうなくらいに、GSの衰退を私に思わせます。私の勘違いかしら。

『Be My Baby』に似たドラムスのイントロは、「レコード会社のお人形(baby)になりなさい」の暗号だったりして。『「お人形の僕」をあげます』と曲名を解釈したら妄想が皮肉すぎ?

僕をあげます 歌詞の味わい 己を幸せにするために

“あの人を どうぞ苦しめないで そのかわり 僕をあげます いのちでも 愛の魂さえも おしまずに 捧げましょう お願い 僕にのこされた すべてを 捨てさせておくれ あなたの しあわせのために いつでも この僕あげます あげます”(オックス『僕をあげます』より、作詞:阿久悠)

「あなた」に対して直接その身の献身を提案しているというよりは、神様とか天上の存在に懺悔しているような趣を感じます。作詞は阿久悠さんなのですね。GSバンドへの提供者としてのイメージがなかったので意外です。このあたりも、楽曲『僕をあげます』がすでにGSブームとしてくくれる時期から外れかかった存在だという解釈にうなずきを添える…と思うのは盲目でしょうか。

自分の生きた証、すなわち経験とか思い出とか、培った技量といったものは財産です。若い人にはそれがない、あるいは少ない。だから、恋にすべてを捧げることをなんとも思わない傾向が年長者より強いかもしれません。

あるいは、そうした財産をもつ年長者が、財産だと思っていたものが、実はなんの価値もない芥だとふと気づいてしまったとき、こんなものは捨て去ってしまっても痛くもかゆくもない、あるいは積極的に荷をおろしたいと思うかもしれません。

しかし、あなたのしあわせという尊大な価値あるものの代償として捧げるのですから、粗末なものではつり合いません。

人ひとりの命は尊く大きいものです。自分を幸せにする責任は、基本的にはその人自身にあります。

あなたは、あなたを幸せにするべきなのです。そのために努めるべきなのです。

誰かに幸せにしてもらうために生きているでしょうか。誰かに身をささげるとか、ささげてもらうといったことは、どこかねじ曲がっています。

恋愛ってちょっとねじまがって、こじれている。それが素の状態だとも思います。そのこじれやねじれをいくぶん直すか、あるいは保ったままでも代謝していけたり長続きさせられたりする環境や条件的な要因が揃ってこそ、長く恒常的な愛が育まれるものと思います。

青沼詩郎

参考Wikipedia>オックス

『僕をあげます』を収録した『オックス・コンプリート・コレクション』(2002)

ご寛容ください 拙演(YouTubeへのリンクShiro Aonuma @bandshijin『僕をあげます(オックスの曲)ギター弾き語りとハーモニカ』)