映像 MV
メンバーおふたりがならんで正面をみせています。このおふたりの位置に、出演の阿佐ヶ谷姉妹が入れ替わります。カットによって、瞬時に変化したように。片方が阿佐ヶ谷姉妹のどちらかと入れ替わったり、ご両人とも入れ替わったりします。
ふたりは手にしたカメラを向け合います。グラスに入った飲み物を自分の前に置いています。つめたいティーか何かでしょうか。
途中、阿佐ヶ谷姉妹のおひと方とメンバーの佐藤さんがスケッチブックを前に何かを書き込むシーン。何をしているのか注視してみる。マルバツゲームでしょうか。9マスをつかって、交互に自分の記号(マル・バツのいずれか決めてあるほう)をひとつずつ書き込み、先に自分の記号をタテ・ヨコ・ナナメいずれか1列完成させたほうが勝ちというゲームです。久しぶりに見ました。
ハンバート ハンバートのおふたりのものと思われる手を重ねた、上からのアングルのカット。
スタジオ撮影前後のオフショットのような雰囲気をもった、阿佐ヶ谷姉妹やハンバート ハンバートメンバーがうつった写真をそれぞれコンビごとに画面2分割で見せるシーン。
ラベンダーのような淡い色の壁や机で背景に余計なものが映り込みません。カメラアングルも統一を基本にしていますが、先に述べた写真のカットや、重なる二人の手のカットなど、やさしい穏やかな雰囲気を保ったまま、映像に変化を与えています。
阿佐ヶ谷姉妹が色紙をひろげて工作(折り紙?)している様子もあります。めがねみたいな形に折った輝く金色の紙を胸にあてがうシーンが茶目ています。ありふれた小物を前にした阿佐ヶ谷姉妹のお二人を観察しているだけでちょっと笑えます。
素の自分や身の周りにあるありふれたものを丁寧に扱う工夫次第で、すべてが滋味や旨味になりうることのお手本になりそうな映像作品ですね。
どこにいてもおなじさ 曲の名義、発表の概要
作詞・作曲:佐藤良成。ハンバート ハンバートのアルバム『FOLK 3』(2021)に収録。
ハンバート ハンバート『どこにいてもおなじさ』を聴く
アコースティック・ギターと女声ボーカル、男声ハモ。間奏と後奏にハーモニカ。編成はシンプルです。
コードはアコギのⅣ、Ⅴ、Ⅰ、Ⅵmの繰り返しが主。
ウォーキングベースと同時にアルペジオで和声とリズムを出したギタープレイ。サビでストロークになります。サビを過ぎるとスムーズに熱量を戻し、またポロポロとつま弾きます。サビのストロークは爪や指のアタック感。適度に乾いた質感と豊かな響きが同居します。
間奏後に大サビ(Cメロ)(“今日も一緒にいられてよかった”のところ)が入ります。出だしがⅶのバスの上にⅠ、あるいはⅢmを乗せたような、ちょっとくすんだ響き。
|Ⅰ(Ⅲm?)/ⅶ|Ⅵm|Ⅴ/ⅶ|Ⅵm|(“今日も一緒に”)
|Ⅳ|Ⅰ/ⅲ|Ⅱm|Ⅴ|(“いられてよかった”)
といった感じでしょうか。Aメロ・サビにないパターンで変化をつけます。
大サビ後、サビを繰り返す“時が過ぎて 歳をとって”のところでは3拍目頭にくるストロークを2拍目裏に移勢。
エンディングのハーモニカは間奏の倍の尺です。
歌メロディに着目。ミソ(ⅲ・ⅴ)、ミソ……とシンプルな音形を繰り返すのがメロの幹です。キーはCメージャー。
Ⅳ、Ⅴ、Ⅰ、Ⅵmのコード上でこのミソ、ミソ……の反復が、ちょっと濁ったりむなしく調和したりと彩を変えます。でも、どのコードのときでも致命的に濁りはしません。シンプルなモチーフの繰り返しなのでおぼえやすいのに、コードによって表情を変える……なんとも要領の良いメロディです。
サビではメロではつかわなかった低い音域から、いちばん高いところまで跳躍で渡る、動きの大きいメロディです。シンプルな繰り返しのコード進行のうえで、メロディの違いが引き立ちます。固定音名でいうと「ドシラー・ラドシー・レラソーーミ……」(歌詞:“どこにいてもおなじさ”……ほか)といった感じです。
歌詞
君と生きる意思
“どこに行ってもいいよ 君と生きてきたい どんな仕事もするさ 君さえいれば”(ハンバート ハンバート『どこにいてもおなじさ』より、作詞:佐藤良成)
自分の仕事に、あなたはどんなイメージを抱いていますか。仕事の本質は、他人がやりたくないことを、報酬と引き換えに担うことではないでしょうか。もちろん、これは極端で、もっと「仕事」の観念は立体だし多次元かもしれません。ただ……主人公にとっての君と過ごすため、君と生きるためならば、どんな仕事もするさと言っているのだとすれば……その仕事は、やはり、つらいこともあったり、やりたくないこともあったり、時間も気力も体力も全部ぜんぶ持っていきがちだったり、体や心に不意にストレスをもたらす原因だったりする……そういう「仕事」のことを言っているのではないかと思うのです。いえ、それは言い過ぎだとしても、きっと主人公のいう「仕事」には、そうした側面が含まれていることは間違いない気がするのです。
この歌の主人公は、あんまり強い人間ではなさそうです。社会と折り合って生きていくことをつらいと思っているのではないでしょうか。「なんにも見たくない」とか「どこにも行きたくない」といった表現がサビにあります。ただ、君といたいんだと。君と住んだり生きたり、同じ墓に入ったりしたいだけみたいです。
本当は、君といることだけをしたい。大変なことはしたくないし、ヘンなものが見たいわけでもない。そういう、なまけもので、めんどくさがりで、精神力も体力もそう強いわけでもない……そういう面って、実は多くの人が持ち合わせている人格なのでは?
私は、弱くてものぐさな自分を己の中に感じます。けれどこの歌の主人公は、君と生きていくためなら、社会と折り合って、やりたくなくてもからだを起こして仕事をして生きていくよという姿勢を見せているようです。この歌の主人公は、態度に多面性があります。弱いし、このまま君といたい。けど、そのために仕方ないなら、仕事だってしてやるぜ、と。
仕事なんかしてあたりまえで、責任を果たしたり社会に貢献したり、誰かの役に立ったうえではじめて自分の好きなことをやれたり、自分の好きな人といられたりする……そんなの当たり前だろーがー!! ……という強いメンタルやフィジカルの持ち主からしたら、結構ダメなヤツがこの歌の主人公かもしれません。
確かに、そういう、タフな人もいくらか世の中には存在しているかもしれません。でも、多くの人は、タフのほうにも、誰かに強く依存しなければ生きていくことさえままならないほどに弱々のほうにも振り切らない程度の、中くらいのところをふよふよしているのではないでしょうか……(私自身がきっとそうであるように)。その中で、最も弱々寄りに位置している自分が、この歌にすごく反応して、私は共感するのです。
生活とロマン
“時が過ぎて歳をとって よぼよぼになって どちらが先でもいいさ また一緒になろう”(ハンバート ハンバート『どこにいてもおなじさ』より、作詞:佐藤良成)
結びに、爽やかなのにほろ苦く、甘酸っぱく気の利いたライン。来世を意識した愛情表現でしょうか。コンパクトで、生活を匂わせる、身の丈ひとつぶんのつぶやきみたいなものが歌の本体ですが、この最後のラインによって、歌に時間を飛び越せさせ、幅を与えています。よわよわな自分がやる気をみせたりダメだったりしつつも、君と墓まで連れ添い、そのあともまた来世で一緒になろうよという……等身大の主人公が未来を遠くまで望んだ、ロマンあるラブソングに思えます。
後記
『どこにいてもおなじさ』の主人公にかんがみ、ちょっと思い出したのは、洋楽ロック曲にときおり登場するような、ちょっと退廃したような自堕落な感じの主人公です。たとえば、久保憲司さんが紹介したヴェルヴット・アンダーグラウンドの『サンデー・モーニング』の世界。厳密にはぜんぜんちがうかもしれませんか……なんといいますか、無力感にさいなまれ、ずっとこのまま……みたいな、未来も希望もないけど刹那のキモチよさ、陽光のとろけるような一瞬の幸せのなかに永く横たわっていたい……みたいな観念を、『どこにいてもおなじさ』の主人公に私は感じるのです。
20周年をむかえるハンバート ハンバートのキャリアを思うと当然かもしれませんが、たくさんの音楽のエッセンスを彼らが日々の作詞・作曲に取り込んでいるのだと想像します。いろんな時代のいろんな曲の主人公たちのなかに、私が勝手に、その人格に共通点を見出しているだけなのですけれどね。異なる曲どうしの主人公たちの姿が偶然にも重なる部分を見出すのも、音楽を聴く楽しみの一つです。
青沼詩郎
『どこにいてもおなじさ』を収録したハンバート ハンバートのアルバム『FOLK3』(2021)。デビュー20周年記念盤。
ご笑覧ください 拙演