FUN 井上陽水 曲の名義、発表の概要
作詞・作曲:井上陽水。編曲:星勝、ニック・ハリスン。井上陽水のアルバム『氷の世界』(1973)に収録。
井上陽水 FUNを聴く
FUN。楽しいという主題。あるいは、私はあなたのファンです、という文脈でも使われる、たった3文字の英単語を主題にして余白を表現します。
うーん、全然楽しそうじゃないのです。いえ、音楽はすごく楽しそうだ。
ランディ・ニューマンの『君はともだち』みたいです。カウンターで入ってくる木管楽器のせいでしょう。ピアノも転げ回るようにぶつかった音程や経過的な音形で魅せる。楽しそう。なのに楽しそうじゃない。井上陽水さんの歌唱のマジックです。いえ、歌唱だけじゃない、編曲が有機的に機能してのマジックよ。
ストリングスが劇的で麗しい。添え物の領分なんか超越・優越。独創性がお高い。このストリングスパートだけにも千金の価値があります。それぞれの声部が独立した動きをしますし、お互いにかぶさりあうことがない。空間を棲み分けて、そっちがこうくるならこっちはこうだ、とストリングスのパート間でMCバトルしているみたい。なのに平熱感もあるのは井上さんの歌唱の印象に私がひっぱられているせいなのか。
ぼぼんと平熱にベースが石を置いたかと思えばぎゅぎゅっとタイトにリズムを詰め込んでくる。高中正義さんの参加とくればギターかと思えば彼がこの曲で担当しているのはベースとあります(うおぅ、こんなベースを弾くのか)。緩急があって的確でありながら表現豊かです。
そんなベースのうしろにいつのまにかドラムも背中を厚くしています。
ギターのチャキっとした輝き。五度音(ⅴ)から半音ずつずり下がってくる印象的なモチーフをイントロに据え、そのままアコースティックギター中心のミニマルな編成で終始してもよさそうな楽曲をこれほど豊かな編成でひとつの鍋に共存させてしまうおそろしさ。私的な日記帳のなかにはメルヘンがありました。
ハミングして終止の和音、どんな終わり方だよ。機能和声的には全然終止しません。書きかけの日記帳。ほったらかされた日記帳。机の上に放り出されて、主人がどこかへ行ってしまった日記帳よ。
幅のある時候
“日記に書いてる事は やっぱり悲しい事かな? それとも今日から日記を やめると書いているのかな?”(『FUN』より、作詞:井上陽水)
この何か重大なことを言っているようで何についても言及していないような、指のまたをするりと抜けるような水のようなソングライティングに目を見張っても張り付くカンバスがない。せめてどこかに目をつけさせてくれよ。
日記をやめると日記に書くだと。作詞作曲をやめると楽曲に書いてしまえ。マニフェストをやめるとマニフェストに謳ってしまえ。映画はやめだと映画の主人公に云わせてみよう。なんだこの茶番は!と茶番の中で叫んでみよう。もうなんでもありだ。君は許される。
“五月雨 夕立 時雨 みんなぬらしてゆくけれど いつかそれも乾くのを 君はまだ知らないのかな?”(『FUN』より、作詞:井上陽水)
五月の時候を歌っているのかとだまされる私は学が足らないようで、旧暦五月に由来するのが五月雨という単語の出自のようでしてつまり梅雨の頃合いの長い雨のことを五月雨というようです。さらにいえば時雨(しぐれ)は晩秋〜初冬の頃合いの、ぱらっと来て止む短い雨をいうんだとか。もうこの表現の連なりでは季節を特定しえない。いえ、幅のある季節をいっているのであって、特定の時候だけを描いているのではない、ということでしょう。(厚く耐用のあるものであれば)一冊の日記帳は何ヶ月もつかうのであって、初夏から冬まで一冊の日記帳のなかに綴じ込めてあっても自然なことです。
「夕立(ゆうだち)」とある。夕方頃に雨がふるということは、特定の季節だけに起こることではないとは思いますが、夏っぽい単語だなと個人的には思います。検索してみるに季語としての夕立は夏でよろしいとのこと。私の感覚とズレはなかったようです。
つまり“五月雨 夕立 時雨”とたてつづけに歌うと、それは6月から12月くらいまで半年くらいの幅のある時候を一瞬でのばして(ー昨日の味噌汁をだし汁でのばしてー)今日の食卓に転生さすみたいなニュアンスを私は感じるわけです。
そんなくどくど言葉の細かい意味を味わおうとする粘着性をあざわらう、ひやっこさが井上陽水さんの歌声の魅了ですが彼の歌声に私は淡白さと同じくらい粘着質を感じもします。さらっと聴いてもいいし、ネチネチと聴いてもいいのです。好きにしたらいいじゃん。それだけだよ。それがFUNってことだね。
青沼詩郎(無事主題に帰れました)
『FUN』を収録した井上陽水のアルバム『氷の世界』(1973)
ご寛容ください 拙演(YouTubeへのリンクShiro Aonuma @bandshijin『FUN(井上陽水の曲)ギター弾き語りとハーモニカ』)