作詞・作曲:竹内まりや。竹内まりやのアルバム『VARIETY』、シングル『マージービートで唄わせて』(1984)に収録。

壮麗なサウンドです。いつの季節の唄なのでしょうね。しゃんしゃんとなるスレイベルはまるでクリスマスソング。シャッフルビートの3連音符のニュアンスはまるで大滝詠一さんの傑作『君は天然色』です。ビブラスラップが「カーッ!」と鳴るところも大滝さんの『君は天然色』を思い出す私の個人的なツボです。

イントロの、これが山下達郎さんでなくて他の誰だというんだ!然としたコーラスのあと、唄に入るときのキック4つ打ち。これぞまさに主題、歌のタイトルたる「ステディ」を表現しています。ごつ、ごつ、ごつ、ごつ……

タムをつかったドラムのベーシックパターン。1拍目と3拍目を強調したベースライン。恒常でステディなニュアンスです。

途中で古楽器、チェンバロが存在感を示すフィルイン。音場の奥のほうを、ずっとシンセのような壁系のサンドがしゅわーっと空間を埋めています。多幸感のある厚みを確保していて、なんだか詳しくはわからないけどひたすらに満たされる感じ。でもちょっと1分35秒あたりの翳ったディミニッシュコードの苦い感じが良い塩梅の音楽的対比になっていて気持ち良い。“ふたりは 背の高さもさかさまで”と、不安材料めいたことを提示するラインでもあるので音楽の意匠と歌詞の表現が一致している、統率がとれています。サウンドの質感もまさにですが、歌詞やメロディ、それらの総合としてのできのよさ、ウェル・メイド感の一因でしょう。

歌詞

“今年の夏からもう浜辺でも

人目を引くような水着 着ないことにしたのは

誰かが私を見つめただけで

ごきげんななめの 彼を想う気持ちからなの”

(竹内まりや『ふたりはステディ』より、作詞:竹内まりや)

派手だったり露出が多かったりする水着を着ている、それも公衆の面前で……というか、そういうレジャー・娯楽の場所で。それが自らのパートナーだと、気が気じゃなくなくなってしまう彼。そんな彼への配慮から、そういう水着の選択を避けようとする主人公の意思。

「人目をひく水着を着るかどうかの選択」も、その人の人格の一部分なわけです。その選択自体がその人そのものなのでは決してありませんが、その選択が、その人がどんな人であり他者からどんな評価を受けるかを左右する一因になりうることは確かでしょう。人前で視線を誘う格好を平気でできちゃう人は、自分はパートナーには選ばない……そう考える人がいてもおかしくないですし、誰がなんといおうと、どんな印象を受けようと、色情の目線を寄せようと、反対にまゆを歪めて目線を逸らそうと、自分の着たいと思った服を着る、自分が最高だと思う格好やふるまいができるあなたが好きだ!と思う人がいてもおかしくないわけです。繰り返します、「どんな格好をするか」は、その人のすべてではないが、他者(あるいは自身が)その人を評価したり判断したりするための材料になりうるわけです、くれぐれも。

格好、見た目、着るものに限ったことではありません。あらゆる所作。小さな選択。場面ごとの小さな反射や反応の積み重ね。すべてが、その人を物語る小さな材料の集合で、その集合こそが「その人」の魂の造形、表面の質感なわけです。

それは、ある程度自分の意思でコントロールすることもできる。自分の身なり格好が気分を害しうる相手を尊重して、自分の方針を少し改める様子を主人公は見せている。好いカップルじゃないですか。

お互いを認めあって、尊重しあって、可能な範囲で、自分のほうが変化をこころみる関係。それができる人どうしには、パートナーとしての相性が認めうると私は思います。

相手のために何かする、というと自己犠牲的な印象を受けるかもしれませんが、相手のために何かすること自体が、自分のためになる行いに含まれれば、それは決して献身などではなく、積極的な自己実現の一部になるわけです。

ステディとは、着実で、恒常的にそういう関係が続く匂いを示しているわけです。燃え上がるような恋もよいでしょうが、燃え尽きて灰になってしまったらそれっきり。関係は戻りません。

“さんざん遊んだ果てに 見つけた人は

ふたつも年下だけど 気にしてないの

ステディになったら 覚悟決めよう

たとえ声かけられても 浮気心はタブー”

(竹内まりや『ふたりはステディ』より、作詞:竹内まりや)

二歳差というのが「ふたつ」との評価に値するかは人それぞれでしょう。男性が2歳上か、女性が2歳上かで違った評価を与える人もいるかもしれません。同性カップルの可能性を否定するものでもありません。年齢はディティールのひとつでしかなく、些事といえば些事です。「ふたつ」といった直後に“気にしてないの”ともいっています。まったく気にしてないのなら自覚したり、それを口外したりすることすらないはず、とも考えられます。主人公は、自分が2歳上であることに、何かしらの偏見を寄せる人が存在しうることを客観しているのが窺えます。人からの目線や評価への察しが鋭い主人公であらば、「分かってはいる(自覚してはいる)が、実際それほど気にしていない」ということも成立しうるでしょう。

そんな人であれば、さんざん遊んだ時期を経て、特定の人とステディな関係を保つ人生を、能動的にデザインできるのかもしれません。

あるいは、遊び癖は一生モノであり、そんな二人に冷視を寄せる人がいてもおかしくないでしょう。「遊び癖がある」とまでいうのは、主人公に対してねじ曲がった評価かもしれません。

“煙草もワインもまるで苦手な彼が

今夜も待ってる たぶんドーナツショップで

私を選んだあなたが好きよ

ホロスコープの予言も そのうちはずれるでしょう”

(竹内まりや『ふたりはステディ』より、作詞:竹内まりや)

名詞、小物づかいを含ませた歌詞で彼、あるいは彼と主人公の間の情景、様子のディティールをいくぶん具体的に描いています。こんなところもリスナーに優しく、音楽や娯楽作品の作り手としての愛に満ちており、ウェルメイドを感じさせるところです。ドーナツ屋さんが喜びそうな歌ですね。

「私を選んだあなたが好き」は気になるところです。

ふたつ年上であることをひどく負い目に感じている人だったら、「こんな私でもいいって言ってくれるあなたは、貴重でかけがえのない存在」と考えるのも理解しやすいでしょう。やっぱり主人公は、口では「(自分が年上であることを)気にしていない」といいつつも、自分でも気づいていないところで、実はかなり「気にしている」のかもしれません。そんなことを本人に私が言ったら、否定するでしょうけれど。

自尊心が高く、自律のある人ほど、「自分を認めてくれる人」自体を高く評価することができる、とも思います。自分が、もっとも好いと思っている己のふるまい。自分がこの世に対してあらわにしているすべて、表現しているすべてを受け入れたうえで、それを好きといってくれている人。そんな人が目の前にいるのなら、それを最善を尽くして尊重し、「ステディ」を抱きしめるべきだと思えます。

隙があるかもしれないし、決して完璧ではなさそうに見えるが、人が自分に寄せる目線や評価に対しての感性があり、自尊心もそれなりに高そうに見える主人公の造形。リアルで、本当にいそうな人にみえるのです。歌詞がみせる人物の造形、ウェルメイドな演奏、音楽とあいまって、極上の3分半をくれる好きな楽曲です。

青沼詩郎

参考Wikipedia>マージービートで唄わせて

参考Wikipedia>VARIETY

参考歌詞サイト 歌ネット>ふたりはステディ

竹内まりや Official Web Site

『ふたりはステディ』を収録した竹内まりやのアルバム『VARIETY』(1984)

ご笑覧ください 拙演(YouTubeへのリンクShiro Aonuma @bandshijin『ふたりはステディ(竹内まりやの曲)ピアノ弾き語り』)