春になったら シモンズ 曲の名義、発表の概要
作詞:田中由美子、作曲:玉井妙子。シモンズのアルバム『若草のころ』(1972)に収録。
シモンズ 春になったらを聴く
非常にかる〜く歌い出します。春の儚さを想起させます。ようやく暖かくなってきたかなと思うのと同時に私は花粉のジャブを浴びて、ストレートを命からがらブロックする体制をとったかと思えばフックになぎ倒される……かと思えばもういつのまにか初夏だ、季節と季節の間に着たくて用意していた羽織りものの出番も虚しく年中半袖でいる季節に気がつけばとっぷり浸かっている。
そんな春のせつなさを思い起こさせるメロの歌唱なのです(どんな)。
かと思えばサビはレーザービームのような直線的なするどさ、質量と輝きをもって二人の歌声が注ぎます。これではまるで真夏の太陽だ。ぎらぎらとさし、あたりかまわず地平を灼くような強い歌声です。つまるところメリハリのすごい歌唱。
ふたりの歌声に、右側でアコースティックギターがひんぱんにオブリガードします。すべてにツッコミ逃さない芸人の相方のよう。
ストリングス、ホーン、フルートなど聴こえてきます。春の情景描写全部入り。見るべきところに目をこらせば情報量に満ちています。
耳を引くベースの質量。ヘッドフォンをかむせた耳を覆いつくすほどに豊かです。
ドラムスがパカスカとかろやか。シックスティーンのファンキーでグルーヴィなパターンをみせたかとおもえば次の瞬間には平熱になってスネアをカツっとリムショットしている。揺さぶってくれる。まるで、あたたかくなったと胸をときめかせたかと思えばお前はいつまで冬を引きずるんだというくらいに乱高下する春の気温です。
季節を歌った70’sくらいのフォークソングみたいなものはずっと心の歌集にしまっておきたいと思う音楽のスタイル、様式、私の思う一種の理想の一帯ですし、まだもっとほかにないかと新しいページを加えたいと思って探すのに現代のサブスク配信は便利極まりなく、そうしたものをつねづね求めてうろつくのですがシモンズはおあつらえ向きなカタログです。
あらためてシモンズのWikipdiaページなどみるとシモンズのキャリア、リリース歴において楽曲提供陣には豪華な名前が多いです。私の嗜好アンテナにふれる作家が多い。その名前だけで一聴してみようという気を起こさせます。
提供陣のハナを思わせる曲も目立つシモンズですが、『春になったら』は自分たちの作詞作曲。シングルAB面でもなくアルバム曲で、道端に目をやるとぽっくり咲いている背の低いたんぽぽみたいな魅力があります。
“春になったら 朝霧のたにまを 恋人とはだしで かけっこしたいの”(『春になったら』より、作詞:田中由美子)
なぜ裸足になるか。痛くないのでしょうか。浜辺、あるいはクローバーや芝の生えた野原なんかだったら裸足でも気持ちいいかもしれません。谷間(たにま)と聞くと、どんな地面なのでしょう、ちょっと「谷」からはごつごつしたけわしい質感やジャリ、砂礫の質感を思い出して勝手に心配になってしまいます。恋人とのかけっこはそれはさも楽しいでしょうか。やったことがないのでわかりません。
“春になったら 道ゆく人もふえ 教会の前では しあわせだきしめる”(『春になったら』より、作詞:田中由美子)
年度がかわった途端、あるいはその前後。いそいそと道ゆく人の顔ぶれに出入りがあるのが、同じ道を行き続ける人の観察に引っかかる普遍です。そう、顔ぶれが変わったことがわかるのは、その定点の観察を続けている人だから。
教会が出てきますね。ジューン・ブライドにはまだ早い。教会が日常の風景にある主人公のまなざしなのでしょうか。私自身は教会に通うなどする習慣や宗教の方針を持たないので、教会と聞くとろくに開いたことのない聖書に物語がいっぱい書かれているのを想像します。つまり私の想像や体験の及ばない未開拓ですね。
“花もひらく 木の芽もきそいあう どちらが早く 春をみつけるかしら”(『春になったら』より、作詞:田中由美子)
主人公と、この歌を伝える対象の誰かのあいだでの春みつけ競争なのか、あるいは花と木の芽の競争なのか。
この歌には私とかあなたとかいった類の人称名詞がでてきません。こざっぱりとした気味のよさが漂う一因かもしれません。感情や主観から距離をとった観察者めいた視線の歌なのです。
青沼詩郎
『春になったら』を収録したシモンズのアルバム『若草のころ』(1972)
『春になったら』を収録した『GOLDEN☆BEST シモンズ オールソングス・コレクション』(2013)
ご寛容ください 拙演(YouTubeへのリンクShiro Aonuma @bandshijin『春になったら(シモンズの曲)ギター弾き語りとハーモニカ』)