春らんまん はっぴいえんど 曲の名義、発表の概要

作詞:松本隆、作曲:大瀧詠一。はっぴいえんどのアルバム『風街ろまん』(1971)に収録。

はっぴいえんど 春らんまんを聴く

“暖房装置の冬が往くと 冷房装置の夏が来た ほんに春は来やしなゐ おや、まあ また待ちぼうけかゐ”(『春らんまん』より、作詞:松本隆)

このブログサイトの記事で何度も書いていることではありますが、春は望ましいものの象徴として歌詞でしばしば扱われる観念です。春が来る、というのは、望ましい状態に自分(あるいはあなた、対象とする誰か)がなるとか、対象が望ましい環境や条件にめでたく置かれるとか、あるいは複数の対象どうしの関係が望ましく良好なものになるといった複雑かつシンプルな観念を「春」のひとことで言い表すことができると思うのです。

地球環境が変わっていっているのか、暑い夏と寒い冬……すなわち厳しい季節ばかりの顔面がどんどん広くなって、春や秋といった、気持ちがよくて過ごしやすい季節がどんどん萎縮してしまっていやしないか?

それはまぁ主に、私が済む日本の東京あたりの気候に寄せる主観的な感覚の話だとして……

望ましい状態・環境・関係性のなかに身をおくこと、自分自身そのものが理想と限りなく重なることは、なかなかやって来てはくれないのです。自分が一歩踏み出せば一緒になって自分の影も動く。自分が一歩踏み出せば、踏み出した距離のぶんだけ、やはり新しい景色が見えてきてしまうのです。新しく見えてしまったぶんだけ、その人の春は、古い春の一部分を捨て去り、春の観念の一部を刷新しているのです。

先の段に掲げ引用した『春らんまん』の終尾付近の歌詞は私にそんなことを思わせます。

またこの部分で、曲の構造はそれまでとちょっと変わったかたちをとります。それまでのヴァースとは違う、ブリッジというのかミドルエイトというのかそんなような部品が曲の終わり付近になってやっと現れる部分なのです。それなのに、そこの部分の歌詞で春はまだおあずけであるかのように語られる。“ほんに春は来やしなゐ”……なのです。ここに来て現れた新しい形式は幻だったのですね。

その“ほんに春は来やしなゐ”のフレーズのところで、それまでのバンドのサウンドにクロスして、新しい音像があらわれます。バンジョーやらアコースティックのギター複数のアンサンブルと、少し遠ざかってしまったみたいな音質の単一のリードボーカルが残ります。来てくれやしない春を象徴するような、幻くさい音景に接続して、フェイド・アウトして立ち消えてしまう。何度も嘆きましょう、“ほんに春は来やしなゐ”……。

右側に分厚いボーカルハーモニーが位置します。どの線がリードボーカルなのか。その区別なんてそもそも意味のないことだよと笑うかのような、パワーバランスがうまいこと分散した、均一なバランス感のボーカルハーモニー。多くの大衆音楽が真ん中にリードボーカルを配置するところですが、ビートルズのいくつかの曲にはリードボーカルが片方に寄っている音源も多いです。そんな極端な音の配置を思わせます。はっきりしています。当時はこれが極端だという感覚もなかったかもしれません。

左にはドラムがはっきり寄っています。ボツっと音のサスティンを絞り、衝突音と最低限の余韻がビートの点を決めていきます。ハイハットのバランス感が抑制が効いていて気持ち良い。

ベースの音がボミボミと質量豊か。まんなかにこの音があるので、左右にボーカルとドラムが開いても天秤が暴れることがありません。アコギ、エレキ、ハーモニカも概ね真ん中付近です。

エレキギターのサウンドははっぴいえんど印、鈴木茂さんのストラトキャスターでしょう。鋭く、かつ湧き上がるようになめらかに立ち上がり、歌のあいだに猛烈な光をさします。

枯れた軽やかな音色が哀愁をかきたてるハーモニカ演奏はシバさん。ソロのアルバム『青い空の日』などもっと聴いてみたいと思います。エレキギターとともに、歌詞のあいまを彩るモノトーンが渋い。

青沼詩郎

『春らんまん』を収録したはっぴいえんどのアルバム『風街ろまん』(1971)

ご寛容ください 拙演(YouTubeへのリンクShiro Aonuma @bandshijin『春らんまん(はっぴいえんどの曲)ギター弾き語りとハーモニカ』)