KYOTO SOUL感じる光と闇のアンセム
ギターのオープンな響きを活かした印象的なアルペジオフレーズ、橋の下の闇から光が溢れるような久富さんのリードボーカル。
光と闇が交互に押し寄せるみたいに色彩を変えるコード進行も絶妙です。サビの「なんにもないけど 橋の下」に入るところ、ⅤだったのをⅤmにかえてサビに突入し、すぐにまたⅤのメージャーに戻してそしてサスペンデッド・フォースに吊り上げて……とフラフラするコードが、あてもなく橋の下に行き着いて、橋の下を出たかとおもえばいつのまにかまた橋の下に戻って来てしまっている……みたいな草の根的な人生を思わせて絶妙です。
おまけにエンディングではⅤをひっぱりにひっぱったままリズム・ビートのキャラクターが変わり、橋の下の光も闇もすべて抱いて謳歌するパーティーがはじまるみたいに思え、Hey!と轟くガヤとともにバッタリと終止符を打ちます。橋の下だろうと上だろうと外だろうと、その人生自体には清濁も貧富もなく、ただそれをおのがものとして受け入れ、己の視野に光を投げるのみなのだという潔い姿勢を音楽の質感や構造にうかがいます。
「けしの花」のモチーフも、その意図や込めた思想についての説教は一切ありませんが、おのれをどこか別の場所にトリップさせてくれるトリガーなのかあるいはどこにも行けない己の場所自体を全く新しい境地に変えてしまう秘伝のトリガーかのように扱われているように感じるのです。
そしてすべてのコンテクストが橋の下という主題に集約され、だれしもの交雑が明文化さえも免れたままに赦されるのです。ローザ・ルクセンブルグを聴くことで、私の敬愛するバンド・くるりが社会に登場する背景のようなものがぼんやりと、しかし鮮やかに見えた気がします。ローザ・ルクセンブルグの『橋の下』はくるりが主宰するコンピレーション『みやこ音楽』(2006)にも収録されており、私はそれでこの傑作を初めて認知しました。
橋の下 ローザ・ルクセンブルグ 曲の名義、発表の概要
作詞:久富隆司、作曲:玉城宏志。ローザ・ルクセンブルグのアルバム『ROSA LUXEMBURG II』(1986)に収録。
ローザ・ルクセンブルグ 橋の下を聴く
Dキーなんですよね。E,D,Aあたりのキーはギターのレギュラーチューニングで開放弦の響きを主和音に活かしやすいキーなのですけど、なかでもとりわけDキーは、ベースギターのチューニングを全音下げにでもしない限りは、ポジションが高めになるんです。
で、この曲を聴くとドン、ド・ドン、タン!というドラムの音がサウンドが気持ちよく炸裂しています。で、ベースはというとなんだか高いところでヒョロヒョロと嘆くみたいに、小さい声で自作の短歌やなんかを囁いているみたいなプレイをしている。Dキーで低い音を出そうと姑息な工夫をするでもない。そのおかげか、相対的にドラムのアクセントと低域の存在感が際立ちます。
そして、主和音のDキーでちょっとヒョロっとした、浮遊感のある頼りない響きでいることは、コードがⅤにいったときに真価を発揮するんです。そう、むしろⅤの和音であるAにいったときに、バンドの音がず太くなるんです。楽曲のエンディングに向かう後半のあたりは、ルート音はもうほとんどずっとAです。主題の「橋の下」を、もはや何人のガヤがはいっているのかよくわからない混沌とした様相で繰り返し、トロンボーンやらトランペットやらの金管がブピュルルルと横切り、アコーディオンの良色もミャオーンとたわむれる猫の鼻息かという様相で寄り添い、「ジューリジュリジュリジュリ……」なんだかHey Judeのエンディングのオマージュかよというようなフェイクも横切り、挙句の果てにはビートのパターンが変わってhey!の掛け声のおまつりさわぎ。
調性音楽においてⅤの和音あるいはその低音位にいるとき、感覚は宙吊りになります。この解決の先送り感こそがブルースでありロックンロールであり、それらをローザ・ルクセンブルグの己に流れるすべての遺伝子を背負って固有名詞の発言として解釈し直した際のまじないの文句が“橋の下”なのです。
“お花が咲けば 元気になるね あしたもくるよ 橋の下”(ローザ・ルクセンブルグ『橋の下』より、作詞:久富隆司)
あんたはあんたの花を咲かせりゃいいんだよ。明日には枯れちまってもね。
青沼詩郎
『橋の下』を収録したローザ・ルクセンブルグのアルバム『ROSA LUXEMBURG II』(1986)