まえがき 笑みのピリオド
愛想笑いはときに残酷なものである。それですべてを済まそうとする意図が含まれている場合があるからだ。もちろん、そこまで見通したうえで必ずしも愛想笑いがおこなわれるとは限らない。反射的な笑みがほとんどだとも思う。
笑みにもいろいろある。愛想笑いは笑みのなかのひとつである。微笑ひとつとっても、「うなずき」「見守り」「認め(認知)」……
……その笑みの機微によっては、笑みをかけられた人の様子なり行動なりを認知して、そのうえであなたを肯定しますとか、あるいは是とも否ともいいがたいです・お答えしかねますといった含みの多い態度すら示すことができる。とにかく、「笑み」ないし「微笑み」のようなものは含みや幅を帯びている。やっかいな代物でもあるし、高等なスキルなのだ。
人気を誇ったグループがその活動の最終期に放った「微笑」は、微(かす)かな笑みにして最大の笑みだったかもしれない。
キャンディーズ『微笑がえし』発表の概要、作詞者、作曲者などについて
作詞:阿木燿子、作曲:穂口雄右。キャンディーズのシングル曲(1978)。
アルバム『CANDIES FINAL CARNIVAL Plus One』(1978)にライブテイクを収録している。
キャンディーズ『微笑がえし』を聴く
伸びやかなエレクトリックギターのリードトーンにシンセサイザーのミョンミョンとユニークな音、ここぞのポイントで電子ドラムの音がポンと合いの手をうつ。ストリングスが風を巻き上げるように爽やか。
そう、キャンディーズのあゆみをこれでもかと詰め込んだ内容の楽曲だ。浅いファンの私ではあるがサウンド的にも「これぞキャンディーズ」と思わせる。このグループのサウンドの振れ幅を網羅して面でドーンと押さえ、その真ん中に重心をかけたサウンドに仕上がっている。編曲者は作曲者を兼ねる穂口雄右。
ハリを出す部分や柔和・滑らかさを思わせる高域など多彩で豊かな声色の歌唱。息遣いにコントロールの機微がある。“はう”と合いの手するバックグラウンド・ボーカルはほかのキャンディーズ曲で聴き覚えがある。
キャンディーズ『微笑がえし』が振り返るもの
「引っ越し」を歌の設定に敷いている。家のなかの物体の動きとともに、ホコリも舞う。モノや家財は詰められ・包まれどこかへ運ばれる。ヒト(主人公ら)もどこかへと散って行く。
地域によるだろうが、“春一番”は2~3月頃にみられる気象現象(参考:Wikipedia)。3月頃は世間の区切り(4月……学業や会計年度のはじまり)に向かって人がいそいそと動く。引っ越しシーズンだ。主人公らの境遇と、世の中の普遍が重なる。
『微笑がえし』歌詞にはキャンディーズの持ち歌の数多の影が映り込む。
春一番
グループの最大のヒットソングか。軽快な曲調、颯爽としたテンポが印象的。スピード、勢いを感じる。ユニークな音色のシンセサイザーがジュンジュンとなり、ベロベロブイブイとベースが疾走する。春を象徴する野や山の風景をモチーフに、それらをヒトに見たてたふうの詞。いきいきと言葉が躍動する。輪廻する恋を呼び掛ける曲想は軽いタッチかつ風情があり、暗に骨太なソウルが奥に宿ってみえる……のはこうして振り返りの視点で観るからなのか、私の偏見なのか。1976年のシングル曲、作詞も作曲も穂口雄右による。穂口氏はグループーサウンズ・バンド“アウト・キャスト”の元メンバー。GSブームに姿を現した人物が、その後の音楽業界で手腕を振るう事例を思う。
わな
冒頭はフラッパーカスタネットだろうか、パッショナブル。勝手ながら、露出度の高いドレスを着たダンサーを想像させるサウンド。サンバというのかなんというのか、16ビート単位でウラの刻みが光るビート、煽情的なエレキギターがスパイシーに薫る。ピアノやブラスがタイトに、ときに絢爛にフィルインをキメる。キャンディーズお得意?のちょっとクセのあるシンセトーンは影が薄いが、“ア・アーン”といったボーカルフェイクの色付けはいかにもなキャンディーズ。歌詞の“あいつはしくじった”がなんなのか想像させる、影のさす艶やかな質感の曲想である。軽く淡い「恋」よりも「情」「愛」が強く匂う。作詞は島武実、作曲は穂口雄右、1977年のシングル曲。
ハートのエースが出てこない
“ハートのエース”はずばり、恋占いをする主人公を描く印象的なモチーフである。「ハートのエース出た!ラッキー!私、イケる!」ではない。出なくて、やきもきするのだ。(望むような)答えがかんたんには出ない、宙ぶらりんな主人公の心情を中庸~やや軽めのテンポ感の曲調が象徴する。エレキギターのリードトーン、ブラスやストリングスなどの合いの手、サウンド面でのキャンディーズっぽいハンコが随所に感じられる。穂口氏のイメージが強いキャンディーズだがこちらは森田公一氏の作曲。作詞:竜真知子。1975年のシングル曲。
年下の男の子
これ、久しぶりに聴くと“年下の男の子”像のおかしみを改めて感じる。この曲の内容が友人から聞かされる恋愛相手にまつわるのろけ話だったとしたら、シニカルに言ってやりたくなる感じだ。“年下”どころかコレ、幼児じゃありません? 母から子にやる目線の歌としてとらえるのも妙味かもしれない。
だらしがないところ、隙だらけのところ、種々の心の未熟さ……ただ付き合っているうちはいいかもしれない。一緒に暮らすとか結婚するとか子を持つとかしてもっと距離の近いパートナーになったとたん、可愛くて仕方なかった『年下の男の子』像がイラついて許せなくてしょーがない……という具合に反転してしまう未来を想像する私は余計なお世話だろうか。
……と、音楽のつくりを飛び越えたところを語りたくなるのは主題の設定、モチーフの扱いや描写がとにかく素晴らしく、それを実直に伝える音楽の意匠も完璧なまでに機能している所以だろう。娯楽の的をズバリ射抜く不世出の秀作と讃えたい。にわかファンの私なりにキャンディーズの代表曲として位置付けておく。ちなみに『微笑がえし』のバックグラウンド・ボーカルの“はう”はこの曲で聴いたのが私の記憶にあったようだ。作詞:千家和也、作曲:穂口雄右。1975年のシングル曲。
やさしい悪魔
ここまでに紹介した曲とは異彩であるが、キャンディーズ3人の歌で彼女たちの色になってしまう。もちろん、あらゆる面で様々な関係者が考えを注ぎ力添えしたからこそキャンディーズの歌になったのだろう。キャンディーズはメンバー3人以上を含めたチームであるのを思わせる。編曲は馬飼野康二。
オープニングの乾いた靴音のような演出がなんなのか想像させる。悪魔が歩み寄る音? ボーカルメロディが次のモチーフに渡るサイズの半端な感じが斬新でスリルある。作詞:喜多條忠、作曲:吉田拓郎。ツインのリードギターが鮮やかな輪郭を引き、シャカシャカとアコースティック・ギターが恒常なリズムを叩く。おぞましく、穏やかに威圧する主題の“悪魔”から滲み出る影のある曲想が独創的。だけど、“やさしい悪魔”なのだ。主人公を魅了し、誘惑する。際立つ異色な存在感を放つつ、キャンディーズのレパートリーに確かな幅をもたらす。1977年のシングル曲。
アン・ドゥ・トロワ
さまざま楽器が入れ替わり立ち代わり現れる非常にマテリアル豊かなアレンジメント。哀愁と爽やかさが薫る。作曲は吉田拓郎、編曲者は馬飼野康二。万華鏡のように光を乱反射する絢爛さ、ほろりとした情感と儚さただよう曲想。ポロロンとこだまするシンセ、アコーディオンなのか蛇腹系楽器、エレクトリック・ギター、マンドリンのような複弦、フルートなどがベーシックリズムの上で踊る。エレクトリック・ギターのハンマリング・プリング奏法とディレイが効果的。
観念的な表現が歌詞の大部分を占め、つかみどころの難しい曲でもある。“アン・ドゥ・トロワ”が呪文やおまじないのようにミステリアスに響く。観念的と述べたが、焦点がぼけているのとも違い、“人は誰でも一度だけ すべてを燃やす夜がくる アン・ドゥ・トロワ 今がその時ためらわないで”(キャンディーズ『アン・ドゥ・トロワ』より引用、作詞:喜多條忠)と、観念的ではあるが、きっぱりとした態度や意思、確かなメッセージのような趣、真理をつく鋭さを伴う。
歌詞“ためらわないで”の部分は次のコーラスでは“もう戻れない”に変わる。望ましいものも心外なものも、過ち(起きた事実)はすべて受け入れざるを得ない、人生の非情さを思わせる。いち「アイドルソング」「歌謡」といった形容では不足する、普遍かつ哲学的なメッセージを宿した1977年のシングル曲。
歌詞とともにみる『微笑がえし』
マスキングの下の若さ
“春一番が 掃除したてのサッシの窓に
ほこりの渦を踊らせてます
机本箱 運び出された荷物のあとは
畳の色がそこだけ若いわ”
(キャンディーズ『微笑がえし』より引用、作詞:阿木燿子)
家の様相は、暮らしぶりを映す。ずっと置きっぱなしになっていた家具をどかしてみると、そこにずっとその家具があったのを示すあとが残る。ずっと守られていた部分は若く、保護外の部分は経年変化する。「守られていた」とすると聞こえはいいが、ふたをされて放置された・忘れたともいえる。マスキング、覆ってしまう観念を思う。
「若い」は良い意味に使われもするが、未熟であること、学びや知見・技術の不足を指摘する意味でつかわれることもある。経年変化を良いものととらえる場合、若い部分は経年変化の獲得機会を逃していたことになる。
よく使う部分は磨かれる。でも消耗したら修繕をしないと、経年変化はただの「劣化」かもしれない。モノもヒトも限りある寿命をまっとうする中のどこかで、高いパフォーマンスを発揮する。そのバイオリズムに、私はときに感動を覚える。
人の営みは輪廻する。『春一番』が描いたような、かろやかな恋愛の営みも、ヒトを変え場所を変え、繰り返されるだろう。『微笑がえし』の冒頭の部分に、颯爽とした文明の奥行きを読む。
強情っぱりのレッテル
“お引っ越しのお祝い返しも
済まないうちに またですね
罠にかかった うさぎみたい
イヤだわあなた すすだらけ
おかしくって 涙が出そう
1(ワン) 2(ツー) 3(スリー) あの三叉路で
1(ワン) 2(ツー) 3(スリー) 軽く手を振り
私たち お別れなんですよ”
(キャンディーズ『微笑がえし』より引用、作詞:阿木燿子)
「微笑(ほほえみ)」には幅があり、涙にも幅がある。滑稽で笑えるシチュエーションと、名残惜しく寂しいシチュエーションが重ね合わせになって、主人公は涙が出そうになっているようにうかがえる。
でも、本当は主人公はみじんも悲しくないのかもしれない。本当に、ただ喜劇を笑う気持ちでいるのに、「本当は悲しいし未練があるから涙が出そうなんでしょ?」とヒトに指摘されることもありそうだ。それを否定するほどに嘘くさく見えてしまう。もうめんどくさいから「そうだ」と言ってしまいたくなる状況。それで、客観的には本当に「おかしいって言っておきながら、本当は寂しくて涙した人」というのが主人公の客観的事実(?)みたくなってしまう。そういう、心の内側にとどまる事実を私はいくつ過ぎて来たのだろう。想像がふくらむ歌詞である。
離れてみる山の青さ
“タンスの陰で心細げに 迷い子になった
ハートのエースが出てきましたよ
おかしなものね 忘れた頃に見つかるなんて
まるで青春の想い出そのもの”
(キャンディーズ『微笑がえし』より引用、作詞:阿木燿子)
トランプの中には4種のマークの1から13(それにジョーカーふたつ)がどれも備わっている。自分のとったカードが何にせよ、すべてはそこにある。引いた一枚と自分が対峙するというだけで、幸運も何もかもは元々デッキに含まれている。手元になければ、どこかをめぐっているだけだ。何が幸運なのかも、場合によって変わるだろう。
あるとき主人公にとっての「ハートのエース」に相当した固有物も、時と状況が変わるのにつれて「ハートのエース」でなくなってしまうかもしれない。
あるいは、かつては違ったが現在の主人公にとっては「ハートのエース」に相当する固有物は、ずっと前からそばにあったのかもしれない。
求める条件に合致するまでカードを引き続けるしんどさも、ただ一枚引いたカードと対峙し続けるしんどさもあるだろう。
カードのほうも絶対的な存在だと誰がいえるだろう。自分は「ハートのエース」だと思っても、ほかのヒトから見たら違うかもしれない……なんだかヘンな話になってしまったか。
青春……というか若さのありがたみは、距離が生じると観測しやすくなる。遠くから眺めると壮麗で美しい富士山も、山肌に立つと、平坦で殺風景な石つぶての一面かもしれない。
見ているディティールが違うのだ。若さなんてしんどいだけだ、と思う若い人もいるかもしれない。歳をとっている人が自由でかっこよく見えた時期があなたにはないだろうか。
山肌の険しいディティールを観察できるのはその時だけだ。遠く離れてから振り返って見る全体の美しさは、そのとき山肌に立つ人にはどうでも良いことなのだ。両親の存在なども似たところがあるかもしれない。なんだかじじくさい話になってしまったか。
年下の人との決別
“何年たっても 年下の人
イヤだわ シャツで顔拭いて
おかしくって 涙が出そう
1(イチ) 2(ニ) 3(サン) 3ッ数えて
1(イチ) 2(ニ) 3(サン) 見つめ合ったら
私たち お別れなんですね”
(キャンディーズ『微笑がえし』より引用、作詞:阿木燿子)
かつて可愛くみえたパートナーの至らなさ、しぐさや振る舞いが、状況の変化とともに憎らしく思えてしまう未来を想像すると先に述べた。『年下の男の子』には相手を可愛く思う主人公の「のろけ」を感じた。『微笑がえし』では、“年下の人”と主人公は別れてしまうようである。“イヤだわ”といっているので、ホントにイヤになってしまったのかもしれない。余計なお世話だろうか……。
ヒトは見たいように見たいものを見る。目と目があう一瞬は貴重なのである。「3秒」でも長いほうかもしれない。自由に動く個々の視線が、ぶつかっては外れる。一瞬の視線のセッションにいちいち“お別れ”を付すのもおおげさな気もする。『微笑がえし』は人生の岐路であり集大成を感じさせるのに、至極さらっとした魅力がある。
微笑のおかえし
“お引っ越しのお祝い返しは
微笑にして届けます
やさしい悪魔と 住みなれた部屋
それでは 鍵がサカサマよ
おかしくって 涙が出そう
1(アン) 2(ドゥ) 3(トロワ) 三歩目からは
1(アン) 2(ドゥ) 3(トロワ) それぞれの道
私たち 歩いて行くんですね”
(キャンディーズ『微笑がえし』より引用、作詞:阿木燿子)
最初にこの部分を聴いたとき、お祝い返しを微笑みで済ます高飛車な態度、上からやる視線を想像した。「お祝い返しだなんて、サービス過剰。アンタにはアタシの微笑で十分でしょ」…大げさに書き起こすとこんな態度である。
しかし速度を落として多方面から『微笑がえし』を考察してみると、もっと観念・全体的な表現に思えてくる。
先に述べたように、「微笑(ほほえみ)」はとても意味が広く含みの大きなものなのだ。ありがたくいただくお祝いへのお返しとしての「微笑」は、全身全霊の恩と感謝に相当するものの象徴なのではないか。それが具体的になんなのかは特定しかねるが、お祝いをくださった大切なあなた(……暗に、ファン・リスナー)への返礼として、慎み深く、気が利いていて、最上に粋な何かを返そうとする希望の意志を想像する。
それから、考えうるこまごまとした読解の筋を二点、蛇足しておく。
1.ギフトが省略されている
“微笑みにして(××を)届けます”といった具合に、届ける何かが省略されている。
2.主人公が笑顔になる未来を宣言している
これまでの境遇や立場・パートナーとの関係を区切り、岐路に立つ現状は、寂寥かおかしみか特定しかねる複雑な涙が出そうな状態かもしれないが、そのソワソワした感情を経て、主人公自身が笑える(微笑を携えている)日を迎えたうえで、あなたにお礼を届けます……という宣言。
1 2 3の読みが変わっていく
one two three
イチ、ニ、サン
un deux trois
1 2 3の数字、記号の意味は一緒であるが、読み方(言語)によって表面のディティール(ここでは発音、響き)が変わる。1 2 3はキャンディーズメンバーの三人の象徴でもある。3人のメンバーは、曲によって多彩で幅の広い表現でリスナーを魅了した。
1 2 3は曲(時と場合)によって、英語にも日本語にもフランス語にもなってみせる。変幻自在。だけど、本質や根底は通じていて、いつもあの3人だ……という表現に思える。また、「三者三様」という表現があるように、多様であることを最もコンパクトに象徴する数字が3でもある。
エンドロールを思わせる豊かな楽曲構成
1番の歌詞を例にする。
“春一番が”から“畳の色がそこだけ若いわ”に、リハーサルマーク「A」をふらせてもらおう。
“お引っ越しの”から“またですね”を「B」。
“罠にかかった”から“涙が出そう”を「C」。
“1(ワン) 2(ツー) 3(スリー)”から“お別れなんですよ”までを「D」とする。
このABCDの組み合わせを基本単位に繰り返すことで2番までを構成。3番は「A」が欠ける形で、2番が終わったらすぐ「B」に接続する。
「Aメロ・Bメロ・サビ(Cメロ)」の繰り返しに飽きるころに「Dメロ」が現れる、といったものでなく、基本単位がめまぐるしく豊かな様相。集大成、キャンディーズのエンドロールのような趣を私に感じさせる構成面での仕掛けかもしれない。おまけにイントロ、1~2番間、エンディングで入るエレキギターがリードする間奏は、歌メロの焼きまわしでなくそれはそれで独自のキャラクターを持っている。部品がABCDEくらいまであるようで、かつすべてがそこそこイーブンな比重で歯車が噛み合っているような印象を受ける。
後記 前後の見通しと年度の区切り
春は目の前の新しいスタートを私に見せる。スタートといってもただの区切りである。それから、一年間を振り返らせもする。目の前を見せるくせに、うしろまで見せてくる。前後を見通し、認めさせ、まっとうな課題を的確にコンスタントに提示してくる、ありがたくもこちらを忙しくさせる先生や師匠みたいな存在が「春」かもしれない。
「春」のモチーフを楽曲に直接用いているからだとは思うけれど、春にはキャンディーズがよく似合うし、キャンディーズには春がよく似合う。キャンディーズ作品を鑑賞することで得られるものも、また尊い師となると思う。春だね。
青沼詩郎
キャンディーズ 微笑がえし 歌詞 – 歌ネット (uta-net.com)
『微笑がえし』『春一番』『わな』『ハートのエースが出てこない』『年下の男の子』『やさしい悪魔』『アン・ドゥ・トロワ』『アン・ドゥ・トロワパートⅡ』ほかを収録した『CANDIES 1676 DAYS〜キャンディーズ1676日〜』(オリジナル発売年:1977年)
『春一番』『ハートのエースが出てこない』を収録したキャンディーズのアルバム『春一番』(1976)
『春一番』『年下の男の子』を収録したキャンディーズのアルバム『年下の男の子』(1975)
吉田拓郎の『やさしい悪魔』を収録したアルバム『ぷらいべえと』(1977)
『アン・ドゥ・トロワ(ばいばいキャンディーズ)』を収録した吉田拓郎のアルバム『大いなる人』(1977)