いとこ婚は日本の法的にはできるらしい
いとこ婚は日本の法律的には可能だそうです(参考Wikipedia)。いとこ同士は、血のつながりがあるなかとしては遠いです。遠いとまでいえるかわかりませんが、日本で法的に結婚が認められる程度には距離があります。
自分との「親しさ」を感じるからその人に惹かれる、という側面もあるのでしょうか。自分と離れているからこそ惹かれるのが人間同士の補完だとも思いますが、あまりにも理解できない人にいきなり惹かれるのも非現実的な気がします。
あの人がなんでああいう行動や言動を起こすのかわからない。あの人には近寄りがたい。まったく理解できないから、親しみを持てないということがあるでしょう。その人の行動や言動の謎がある日ふと解けたとき、惹かれ始めることもあるのかもしれません。自分と違う人を、「わかる」ことができる瞬間は嬉しいものです。「違う」けれど、「同じ人間」なのだと。
手塚治虫さんの漫画『火の鳥』で、「望郷編」と呼ばれるひとくだりがあります。物語のなかで、登場人物が近親交配します。「いとこ」どころか、母と息子とかで交配します。惑星にただ母と子っきりが残されて、種がそこでながらえるためには近親交配しか手段がない、というのが企図した登場人物の理屈です。まだ未熟で、成人にはほど遠い幼児の息子と、母親。母親は物語のなかの技術で眠りに入ることで若さを保ち、息子の性成熟を待って眠りから覚めるなどします。壮絶で、発想力におそれいる物語です。
いとこ同士 ムーンライダーズ
作詞:鈴木博文、作曲:岡田徹。ムーンライダーズのアルバム『ヌーベル・バーグ(NOUVELLES VAGUES)』(1978)収録。
ムーンライダーズ いとこ同士を聴く
エンディングで“どこまでも いとこ同士”と聴き取れるあたりでフェードアウトが進んで……平行線のままのふたりを思わせる音楽の意匠にもどかしい想いが込み上げます。
なまめかしく、ドライな質感のサウンドが気味が悪いほどに独創的です。「ドライ」は残響がないという意味です。
スティールパンのトーンが印象的に用いられています。ほとんど楽曲の全編で、ボーカルメロディをガイドする役割。ずっといるのですが気になりません。ヒトの歌唱する声と、帯域や特徴がかぶらない、遠いのでしょう。主人公と「きみ」も、ボーカルとスティールパンくらい遠ければもっとどうにかなったのでしょうか。「もしも」を考えるのはやめましょう。ふたりはいとこ同士でしかないのです。
シンセサイザーの音がわずかにキレが長いのがこの楽曲が有するわずかな「響き」感でしょうか。それも人工的で、どこか薄気味悪くさえあります(ホメ言葉として)。
ベースもシンセでしょうか。ブイブイとヘンテコなトーンで、やたら分割が細かいです。ドラムスはスナッピーをおろした(オフにした)ような歯切れのない「トコッ」という布につつまれたようなトーン。キックの音も病的に分割が細かいです。この曲ではハイハットが排除されていますね。左のほうでこれまた分割を細かくするシンセが鳴ります。また、右と左に別れて、似たようなトーンでリズムのウラオモテを分けるようなシンセがはりっついてます。右脳と左脳が引き裂かれる思いです。いえ、あるいは、右脳と左脳の本来の距離を保ったまま、どこまでも交わらない平行線を思わせもします。
和声感もとにかくヘンテコで私は分裂してしまいそう。ベースの動きとボーカルの動きが空虚で、各楽器で和声感をしっかり出すことにあえて抗っているようにさえ思えます。調性もすぐはぐらかされてしまいます。コーラス(サビ)がちょっとスっと清涼感ある明るいフィールなのが唯一の救いでしょうか。でも一瞬の光明で、すぐにビターな展開に戻ってしまいます。
ため息しか出ません。美しい気もするのですが、独創性の中毒にあてられています。これから始まる一日が思いやられるような……独創性にやられてドーンと重くなる。いとこ同士かよ……はぁ。
青沼詩郎
『いとこ同士』を収録した『ヌーベル・バーグ(NOUVELLES VAGUES)』(オリジナル発売年:1978)
ご寛容ください 拙演(YouTubeへのリンクShiro Aonuma @bandshijin『いとこ同士(ムーンライダーズの曲)ギター弾き語り』)