ちんちんとは
熱くなっているヤカンをちんちんだ、と形容する言葉があると思うのです。
冷たいものに対してチンチン、というのはひとひねり効いている気がするのですがどうでしょう。
キンキン、ならわかります。キンキンに冷えたビールと言いますね。「キンッキン(筋っ筋)に冷やしていきます」っというせりふがチャーミングな料理家の「だれウマ」さんも思い出します(ご存じない方は検索してみて)。
ちんちん、の形容には「ちんちくりん」も思い出します。ちっちゃいこと。あるいは成長してしまって、ズボンの丈が合っていない様子をちんちくりんなんていいます。
そんなことから、「ちんちん」といった語感にはなんとなく未発達だとか、成長過程だとかその途上にある様子を思いもします。
そんな青い記憶。あるいは青い記憶を思い起こさせる情感。そうした胸がきゅんとなるフィーリング・エモーションを夏という季節感と、夏にシャンとする背筋を通してくれるいきいきとしたモチーフ・コーラ(コカコーラ)とともに描いた好作が吉田拓郎さんの『いつもチンチンに冷えたコーラがそこにあった』。
いつもチンチンに冷えたコーラがそこにあった 吉田拓郎 曲の名義、発表の概要
作詞・作曲:吉田拓郎。吉田拓郎のアルバム『吉田町の唄』(1992)に収録。
吉田拓郎 いつもチンチンに冷えたコーラがそこにあった(アルバム『吉田町の唄』収録)を聴く
シンプルなモチーフのオルガントーンに、長い長いトニックの主音の響きのエンディング。青春の記憶が永続するみたいです。
コンパクトなんです、編成にしても、楽曲やサウンド、メロディにしても、歌詞にしても。
ちりんちりん鳴る風鈴のぶらさがった商店の軒先のベンチにかけて、栓を抜いたばっかりのビンのコーラを傾けながらバスが途切れ途切れ行き交うのをぼんやりと眺めているみたいな。半径5メートルとまではいわないけれど、ここからみえる30メートルくらいの時間の流れをみながら、自分のなかを通り抜けてきたたくさんの光景を回想しているような気分になるのです。
ドラムスのシンプルなパターンに、人の手の動きを思うのです。人の手でやれることを機械まかせにしたら、私の思う素晴らしき世界は終わってしまう。
右のほうにアコースティックのギター、左のほうにエレキギター。鋭いトーンがコーラの清涼感の権化のよう。
ナイロンギターの音色も漂い、ミヤビなフィールを連れてきます。
シンセのトーンが生演奏の音とうまくとけあいます。トランペットのような音色なんかもシンセでしょうか。
1970年代に吉田拓郎さんがフォークの隆盛を象徴したと私は思うのですが、1980年代になって、音楽メディアがCDになって、吉田拓郎さんのレパートリーにおいても1曲のサイズが5分台とか長いものが増えた印象があるのですが、この『いつもチンチンに冷えたコーラがそこにあった』をはじめ『吉田町の唄』収録曲のいくつかは、デジタルに傾いた時代はさておき、ちょっと人間ひとりひとりのサイズ感に揺り戻した感じがするのが私が特に好感を寄せるところです。
すごく親身だから、自己投影しやすい。音楽は憧れを鼓舞するエンターテイメントであり、リスナーから遠い夢を描くのもその仕事の一面だとも思うのですが、私は手探りで、自分の短い腕をふりまわしたときにまず触れる距離にあるものを取っ掛かりに夢を肥やしていきたいと思っています。
『いつもチンチンに冷えたコーラがそこにあった』はそんな、私(いちリスナー)との距離において、ふと横をチラ見したらあったみたいな、半径30メートルくらいのなかにある感じが好きなんです。
青沼詩郎
参考歌詞サイト 楽器.me>いつもチンチンに冷えたコーラがそこにあった
『いつもチンチンに冷えたコーラがそこにあった』を収録した吉田拓郎のアルバム『吉田町の唄』(1992)