日常がすべてだと思います。日常の延長でできないことは何もできない……これはちょっと言い過ぎでしょうか。
毎日のなかに、そのための時間をつくること。それを当たりまえにすることです。
たとえば、大きくて難関な資格の取得を目指すのであれば、しこたま勉強する日をどこかにスポットでつくるのでなく、毎日15分でも20分でもそのための時間をもうけるべきです。
1万個の石を積んだ巨大なピラミッド風の構築物を成したいのであれば、一日1個ずつ石を積むのです。1万日で達成できます。
夢まぼろしのような話。信じられない現実でも、それに至る1万個の手順に分解して、ひとつずつ手順を実行していけば、夢まぼろしのようにかつて思えた風景が実現するわけです。
1万個の手順なんてしっくりこなければ10個の子手順に分ければよい。子手順をさらに10個の孫手順に分ける。孫手順を10のひ孫手順に……。これが1万プロセスの内訳なわけです。
逆算の規模が過剰でイメージしきれないのであれば、それは目標なり理想なりが大きすぎるのかもしれません。
「いつものように」、日常に組み込まれた手数の蓄積が見せてくれる景色を私は楽しむのです。
いつものように BEGIN 曲の名義、発表の概要
作詞・作曲:BEGIN、編曲:白井良明。BEGINのアルバム『音楽旅団』(1990)に収録。
環境との接合
“好きなあの娘にも つらい思いさせたけど 今なら素直に話せる気がする この街の中で 青い夢は消えたけど 星の数ほどの自分にあえるさ”(『いつものように』より、作詞:BEGIN)
絶望はしていないのです。未来の自分の関心事は、そこらに口をひらいているのです。私が自分ごとを1ミリ大きくするごとに、また新しい自分を知ることになります。すべての他人は、すべて己の生き写しです。誰かのおこない、いずまい、生き様は、私の態度の比喩なのです。
おのれの理想と、願望や見栄を混同すると「青い夢」を見るでしょう。青い夢が透けて消えたところにあなたが立っていて、私の人生は刻一刻と新しくなります。
“笑えないジョークにも もうそろそろあきてきた 名前さえ わからない そんなつきあい ため息も嘘もみんな捨ててこの街を 笑って歩こうよ いつものように”
不条理を認知しているし、現状を理想だと思ってもいないでしょう。機能を集中させて、個の人生を機械の歯車のように回す都会の無情さを嘆いている気もします。でも、くさらずに、この環境と折り合っていく意思を感じます。
BEGIN いつものように リスニングメモ
カズーの存在感が破壊的です。全部印象をかっさらっていきます。それくらい強い。『いつものように』以外の曲でたとえば間奏など、リードボーカルがいなくなるところでカズーを用いるとアクセントになるのはわかります。『いつものように』では、サビでクリシェし和声を移ろわせる役割をカズーに担わせています。カズーの待遇としては特別で、あまり他でお目にかかったことがありません。
カズーはブワブワと騒がしく目立つ音色をしているので、リード、すなわち鑑賞者の視線をもっぱら独占する役割に適しているのでしょう。
カズーは手のひらに収まる先のすぼまった形の筒の一部に、共鳴するフィルムを張るためのデッパリを設けた物体で、それを口にくわえて声をだして「歌う」ことでカズーの音色が得られます。この説明でわかるでしょうか。
アコギが要所でリードします。バンジョーもベーシックリズムのサウンドの一部にコミットします。たとえばエレキギターのようなぎすぎすしたトーンがいない、アコースティックな響きとそのグルーヴを尊重したバンドの編成です。なるほど、この耳に「ぎすぎす」した感じの音域を冒すほかの楽器がないぶん、カズーのブワブワした音色がはまるのですね。
「調和」という観念とはほど遠そうな音色のカズーですが、チャカチャカした「和」「サークル」の一員として個性がぶつかり合わない距離感が絶妙なのでしょう。こういうサークルに私も顔を出したい、と思わせるパワーバランスのアコースティックバンドサウンド。編曲が白井良明さん、ムーンライダースのメンバーですね。私のなかでばらばらに点在していた音の好みがつながりました。
ブワブワいうカズーも、結局その正体は声です。こんなにも飛び道具な感じがするサウンドですが、いちばん自分の肉体そのものに由来するものであり、それがサウンドの中心(最も表層)にあるわけです。私がこの楽曲『いつものように』を本能的に好きだと直感する根本の理由でしょう。
青沼詩郎
『いつものように』を収録したBEGINのアルバム『音楽旅団』(1990)
ご寛容ください 拙演(YouTubeへのリンクShiro Aonuma @bandshijin『いつものように(BEGINの曲)ギター弾き語りとハーモニカ』)