この世のどこか:極東へ、“帰ろうかな”

この曲を収録した『極東サンバ』。アルバムのタイトルにしびれます。これしかないネーミングです。『風になりたい』も収録しているアルバムで、『帰ろうかな』は5曲目。アルバムの中間地点付近のハイライトといえそうです。

抒情的なボーカル、歌詞の世界をイントロからメランコリックなピアノリフレインの音色が彩ります。中間部にはラップのようなDJ CATAPILA氏によるパートが楽曲の雑食性ある個性を強めます。

裏拍を感じる16分割のベーシックなリズムは、アルバムタイトルにもあるサンバなのかあるいはレゲエなのか、あるいはそのいずれでもない、自分たちの足元だけの独自のサンバであるのを思わせます。

世界中に心を旅させてお土産話や思い出や刺激・体験を収集しても、自分たちの立ち位置はここなんだとしたためるその態度が「極東サンバ」なのか。自分たちが誰かにとっての極東であり、自分たちにとってほかの誰かが極東にいる、極東のあなたの存在を思わせもします。そんな、この世のどこか:極東へと「帰ろうかな」と歌うものと解釈すればなおさら、『帰ろうかな』はこのアルバムのハイライトトラックのひとつとみなすのにふさわしいでしょう。

帰ろうかな THE BOOM 曲の名義、発表の概要

作詞・作曲:宮沢和史。THE BOOMのシングル、アルバム『極東サンバ』(1994)に収録。

THE BOOM 帰ろうかな(アルバム『極東サンバ』収録)を聴く

抒情的な歌のパターンはメロ、サビ、そしてメロにちょっと雰囲気や音形が似ている大サビ(“宵待ち草が咲く頃にゃ”……の部分)です。そしてそれを囲う打楽器群。ピアノのリフ。妖しく艶めき、残響をまとうエレキギターのスライド・ポルタメント。これらウワモノのリフレインの組み合わせによる様相の変化が大河物語のようなのです。ミニマル・ミュージック的でもあるしダンス・ミュージック的でもあります。

対してドラムトラックは揺らぎの少ない、カシっと・ドッカリとした安定感のサウンド。生録りなのかプログラミングなのか、非常に明瞭で質量の高いサウンドです。

そのドラムトラックとともに地盤を築くベースの何が印象的かといえば、頭半拍遅らせて本来のコードのルートに到達する独特のフレージングです。また、16分割のグルーヴで細かく歌い、節をつけるようなフレージングにも強い独自性を感じます。この楽曲のグルーヴィな印象はこのベースプレイなしではありえないでしょう。

パカパカと乾いた短い響きと余韻が独特の軽い歯触りのパーカッションはタブラなどインド系のものなのでしょうか。コンガやボンゴもいるのかどうなのか。皮ものを手や指で直接触って鳴らす系の楽器だと思います。DJ CATAPILA氏による中間部のところなど特にパーカッショントラックが厚く重なっているように察します。心のなかのざわめきを演出するみたいです。

”宵待ち草が”……のブリッジの部分は、歌の入りなどはメロに似ているのですがコードのパターン、メロディも変わってきます。ビートもおおらかになり弛緩。心もろとも転移した気分になります。

サビに帰り、長めのエンディングで種々のウワモノが重なり大団円、イントロを印象付けたメランコリックな音域の高いピアノのリフレインも私の耳の意識に浮かび上がります。アコギのカッティングもグルーヴィさの肝でしょう。サビのリードボーカルにつくハーモニーパートが感情を昂らせます。DJ CATAPILA氏のラップパートに対しても字ハモのトラックがいるように感じます。オクターバーやピッチシフターなどの類で生じさせているのか、DJ CATAPILA氏が複数回声をダブったのかどうか知りませんが、独特のラップパートのサウンドひとつとっても残響づけなども含めサウンドメイクに余念がありません。エレキギターのスライドやピアノのリフレイン。サビのリードボーカルなどは潤い豊かな印象ですが、アコギやパーカッションなどは非常にドライで近い、明瞭な音像です。前後、高低、奥行きといった空間が各トラックの配置・処理でなされています。10年経っても30年経っても、50年経っても聴き返せる成果です。

信念と心の揺らぎを映す歌詞

”雪帽子の猫柳 寝ぼけまなこのウグイ 春はまだかと待ちぼうけ 遥か遠いふるさと 忘れちまった童唄 名も無き子守唄 ないものねだりで逃げ出した 遥か遠いふるさと 帰ろうかな やめようかな 朝一番の汽車に乗って 帰ろうかな やめようかな 長いトンネルぬけて”(『帰ろうかな』より、作詞:宮沢和史)

季節や登場人物(登場植物、登場魚類……)、名詞がそれぞれ何かの暗示、メタファーのようにも思えます。それでいて文学くさくならず、あくまで民謡のように私の心に近い感じがする作詞が普遍的で優しい。

春はやはり、季節・時候としての春もそうですが、己のイマジネーションによる理想の状態の比喩に思えます。恋の成就なのか? 就職が決まるとか望みの進学先に受かるとか、そういった環境や肩書き、有利な:望ましいインフラへのリーチの象徴なのか。春もいろいろでしょう。

トンネルのなかを行く間はひたすら闇です。いまどのあたりなのかもほとんどわかりません。不安が押し寄せます。自分はこのままでいいのか? 疑念と戦いながら、体力を燃やして足を動かす状況は辛いものです。そうした人生のなかで誰もが経験し、経由せざるをえない状況の比喩が「トンネル」の名詞に込められて思えます。

故郷にないものを数えはじめれば、折る指がいくつあっても足りません。兄弟家族じいちゃんばあちゃんの指も借りてあれもない、これもない。じゃあそれがある場所へおいらの身を置こうと飛び出してみれば、それはそれで、あってほしくないものが折る指がいくつあっても足りないくらいに押し寄せ、出くわしもします。「ないものねだり」は滑稽なことよ。故郷を飛び出せば「ある」と思ったはずも、いざ出てみるとやっぱりそこにもないと悟ることもあるでしょう。

はじめからそこに用意されているものに受動的にあやかる幸福は脆弱です。そこにないようにみえても、本当はあると信じて、続けることです。あるいは、そこにそれをもたらすのが自分だと使命を感じてやるのみ。自分が生み出すからこそ、そこにそれがある(めばえる)のです。そこにそれがないのを場所のせいにする以外に、試せることは自分次第でいくらでもあります。もちろん、場所のせいにしない信条だからこそ、何かをするのが「どこ」であるかは些事であり、ふるさとを飛び出すのも、ふるさとに根を張るのもどっちでもいいとも言えます。

”帰ろうかな やめようかな あの娘が働く町へ”(『帰ろうかな』より、作詞:宮沢和史)

どこで何をするかの因果は個人のみのものならず、人の数に乗じて無限に膨らみ、複雑な様相を呈します。己の選択とあの娘の選択が交わるかどうかは、本人たちの意思次第というのもありますし、猫柳が雪帽子をかむるみたいな自然の摂理や資源の巨大な輪廻によっても左右されるでしょう。そして心は揺らぐのです、帰ろうかな、やめようかな……。

青沼詩郎

参考Wikipedia>帰ろうかな極東サンバTHE BOOM

参考歌詞サイト 歌ネット>帰ろうかな

THE BOOM 公式サイトへのリンク

宮沢和史 オフィシャルウェブへのリンク

『帰ろうかな』を収録したTHE BOOMのアルバム『極東サンバ』(1994)