悲しい気持で 加川良 曲の名義、発表の概要

作詞・作曲:シバ。加川良のアルバム『教訓』(1971)に収録。

加川良 悲しい気持で(アルバム『教訓』収録)を聴く

ああ、まっぴらさ……の結びの輪廻が諦観に満ちています。

メインのアコギで根音と第五音を繰り返しベースをとります。ハンマリングでちょっと味付けあり。ウラ拍で高音弦をストラミングする伴奏パターンです。途中から2・4拍目を強調するアコギが右側に別で入ってきます。タンバリンはチキ、と2拍目のみを彩る。この頻度が絶妙です。

キックがひたすら一小節4拍を強調。あれ?これいつから入ってるかなと聴き返す。どあたまからずっといるんですね。キックとアコギと歌で成立しそうですし、その印象が私のこの曲への記憶やイメージを支配するのですが、まじまじと聴くと案外ベースもストリングスもいて豊かな編成だと思い直します。

ベースが途中から、根音と第五音を強調をします。メインのアコギがとっていた動きをそのまま低域に広げる感じです。この実直な音作りの方向が、私の記憶をさも「ほとんど弾き語り」みたいに勘違いさせるのでしょうか。

ヴァイオリンの弓使いのふるえ、音程の微細なフラット感などがカジュアルに響きます。アイリッシュフィドルのような踊るような感じでもないし、JPOPの作られた感動みたいなこれみよがしな感じでもない……このアプローチはまるでブルース・ハープのよう。のそーっと、四畳半の嘆きに静かにあいづちをうちながら一緒にコップ酒でもあおっているみたいな生活感。

“パンとラーメンで パンとラーメンで 毎日 パンとラーメンじゃ ああ まっぴらさ”(『悲しい気持で』より、作詞:シバ)

無性にインスタントラーメンなど食べたくなることもあるのですが、毎日毎食は勘弁です。たまにだからいいんですね。仕方なくてパンだかラーメンを食べている。でも、それってかならずしも経済的なんだろうか? お米をまとまった量で購入して毎日炊いて食べるのと、パンだかインスタント袋麺を都度都度買うのも、それほどお値段に差があるとも思えません。自炊が極端に苦手な生活力のない主人公なのでしょうか。

“おいらの持ってる金じゃ おいらのもってる金じゃ 電車賃 高くて出られない ああ まっぴらさ”(『悲しい気持で』より、作詞:シバ)

出発地の改札を入り、行き先の改札を出ることに運賃がかかるのではなく、乗車と移動そのものに運賃が必要なのです。ほんとうは、移動先の駅まで列車に乗って行ってしまったら運賃を嫌でも払わなきゃならない。その運賃を持っていなかったら……ツケでしょう、早急に用意して持ってきてねとなるはずです。ここで主人公は、じゅうぶんなお金を持っていないのに行き先の駅まで乗って行ってしまったがお金が足りなくて改札を出られない……というシュチュエーションを必ずしも語っているわけではありません。どうせ出られないのでそもそも列車なんか乗って遠くへなんか行かれないよ、という哀愁を語っているだけかもしれません。自分の持ち合わせに対して、現実的でないインフラがあるのです。たとえ持ち合わせが豊かな人にとっては当たり前のインフラであろうとも、それさえハードルが高いと感じる人もいる。タクシーへの乗車、などもそんなあるあるが似合いそうな移動手段に思えます。

“だけど おいらにゃ足がある おいらにゃ足がある どこでもいかれる 足がある ああ まっぴらさ”(『悲しい気持で』より、作詞:シバ)

どこでも行かれる足があること自体は誇りであり、「まっぴら」ではないはずです。この足でどこでも行けるんだから、身の丈や持ち合わせに見合わないノウハウはお呼びでない(まっぴらだ)ぜ!と云っているのかもしれません。

“いくら歩いても いくら歩いても 悲しい気持ちは かわらない ああ まっぴらさ”(『悲しい気持で』より、作詞:シバ)

どこへでも行ける足を誇るかと思えば、それでも心から代謝して出ていかないものもあるのです。とはいえ、それも永遠ではないでしょう。悲しい気持ちは歩いている間にいつかは癒えるはず。

あるいは、悲しい気持ちも出入りして、代謝して、常にありつづけるわけです。ひとつ悲しいことに終止符がつけば、また新しい悲しい気持ちの小節線がはじまってしまう。

おいらたちの足の軌跡はブルーズなんだよ。どこまでもね。

青沼詩郎

参考Wikipedia>加川良

参考歌詞サイト 歌ネット>悲しい気持で

加川良 ソニーミュージックサイトへのリンク

『悲しい気持で』を収録した加川良のアルバム『教訓』(1971)

ご寛容ください 拙演(YouTubeへのリンクShiro Aonuma @bandshijin『悲しい気持で(加川良の曲)ギター弾き語りとハーモニカ』)