傘がない 井上陽水 曲の名義、発表の概要
作詞・作曲:井上陽水。井上陽水のシングル、アルバム『断絶』(1972)に収録。
井上陽水 傘がないを聴く
歴史的名作だと言われてもうなずきます。圧倒的です。すごい。「共感」などとは別次元で、息が浅くなり、胸が苦しくなり、涙が込み上げてきます。
最近『天安門、恋人たち』(ロウ・イエ監督、2006年)という映画を観たのですが、それは心地よさや娯楽とはまったく次元を異にする、苦悶を伴う私にとって壮絶な鑑賞体験でした。
この井上陽水『傘がない』の鑑賞体験も、どこかそれに通ずる生理体験です。苦しい。なんなんだこれは、という前代未聞のショックです。こんなものを私はほかに知らない、今までに見たことがない・聴いたことがない・味わったことがない、という衝撃です。
キック・ドラムに、効果的な残響がかかります。かと思えば、必要のないところではデッド(ドライ、残響抑え目)に変わる。ベーシックリズムの一部になる局面と、戦車が大砲をぶっぱなしたみたいな効果音としての役割を演じる局面を行ったり来たりするのです。こんなキックの扱い方ははじめてみました。さらには、サイドに開いた定位のアディショナル・ドラムも入っています。楽曲を劇的に演出します。
音数を減らすところではぐっと減らす。ストラミングのアコギは右サイドに開いています。気分でストロークをやめてしまうみたいに、リズムを抜いたり、ダイナミクスをしゅんとさせるかと思えば、エンディングでは16分割のオルタネイトで八つ裂き、いえ、「一六つ裂き」にします。私の心もズタズタです。ドラムスのハイハットも呼応します。どちらが仕掛けたのか、ハイハットとアコースティックギターがザクザクと心を削ります。
ピアノがピシャンと私のほおをはたきます。エンディングではもはやプログレッシブロックのようなオルガン。途中にフルートの音色が出てくるのは、オルガンにソックリな音を出せるのか、あるいはメロトロンとかなのか? 生のフルート奏者がいるようなクレジットは少なくともWikipedia上には見つからないのですがどうでしょう。このどこか器械的でもあるぽつねんとしたフルートが珍妙です。
世間の動きと、個人の動きは、一体で接合しています。ですが、「論じ方」で、いくらでも八つ裂き、十六つ裂きにでも分解してしまえます。すなわち、世間ではいろいろな深刻な問題が起こっているにもかかわらず、個人においてはそれぞれが自分の都合で、もっと言いすぎてみれば自分勝手にわがままに動いて、生きているのです。
それは分解の仕方が横暴だから、ひとりひとりが横暴なようにも見えてしまうのです。
私が、欲している誰かに会いに行こうとするとき、それは個人の動きであって、個人の願望です。それも真実の一面でしょう。じゃあ、なんで私はその誰かに会いに行こうとなったのか? どこで出会ったのか? どこのようにして? その背景を語るとき、どこそこの学校に入学して、そこの部活やら委員会で出会って……とかいう話をはじめると、やはりそこには地域とか社会とか国とかの仕組みや動きそれそのものが深く関わっている……「それそのもの」の話になるのです。やっぱり、個人と集団は、不可分で、接合した存在なのですね。
青沼詩郎
『傘がない』を収録した井上陽水のアルバム『断絶』(1972)
ご寛容ください 拙演(YouTubeへのリンクShiro Aonuma @bandshijin『傘がない(井上陽水の曲)ギター弾き語りとハーモニカ』)