まえがき

KINTAという見慣れない作詞者名義を見かけた私。放送、構成、ノンフィクション、小説、作詞などの作家として活躍された上田賢一さんの名義のようです。

風の吹く朝 中川イサト 曲の名義、発表の概要

作詞:KINTA、作曲:中川イサト。中川イサトのアルバム『黄昏気分』(1975)に収録。

中川イサト 風の吹く朝を聴く

低く落ち着いた声。落ち着いた心からのみやってくる声。ギターの演奏とひとつになった弾き語り。これだよ、私はこれになりたい。

Aキーのブルース形式。AとF♯のあいだの跳躍を繰り返すベースプレイを礎に、酸っぱく苦い響きを上声が描きこみます。ハンマリングで上行音形の装飾を細かく加え、ブルーノートで光量のメリハリをつけていきます。指が弦を圧迫する音程のゆらぎ……これみよがしなチョーキングというにはあまりにさりげなさすぎるチョーキングに私の心もたじろぐ。感激のたじろぎです。うわぁ、これは極楽だよ。

“汽車が着いたら よう見に来ておくれ 初めての旅だよ”(『風の吹く朝』より聴き取り、作詞:KINTA)

よう見に来ておくれ……関西由来のことばづかい・イントネーションでしょうか。汽車は未来に向かう道程の象徴。

新しいことをはじめる制約はありません。いつ何を始めてもいいのです。そのとき、初々しい気持ちで足元を動かすのです。見送ってくれよ、俺はどうなっちゃうかわかんないんだ。どこへ行くかも正直わからない、この汽車の行き先が決まっていたって未来がほんとうにそこへ行くかなんて行ってみないとわからないし、見たことのない朝に出会っちゃうかもしれないんだぜ。

もちろん、人生で何か大きなものごとをおっぱじめるチャンスはそう多くはないかもしれません。人には自由があるといっても、現実の問題として、その人の手の及ぶ範囲は環境や条件によって限度があるでしょう。それでも、その足元を動かす努力を続ける限りは、かつて手の届かなかった範囲にタッチすることができます。それをその人が望んで、行動するかぎり。

弾き語りの朴訥としたたたずまいは、手の届く範囲を私に強く印象付けるとともに、その自由さを思わせます。手の届く範囲にある資源だけを用いたってこれだけのことができるし、これ以上の自由がいくらでも広がっているのです。その足元をさらに少しで動かそうとする努力をしようものなら、可能性はもはや無限大。おまけに世の中には、ヒトの手の届く範囲を何億倍にしても飽き足らない技術革新が満ちています。その象徴が汽車です。

足がすくむくらいに果てしないね。やってやろうじゃないか。

青沼詩郎

中川イサト Website フッターに“By Isato & Tomoko & Kota NAKAGAWA”とあります。旅立たれた彼の軌跡をイサトさんのご遺族がこうして残し、更新してくださっているようです。

参考Wikipedia>中川イサト

『風の吹く朝』を収録した中川イサトのアルバム『黄昏気分』(1975)

ご寛容ください 拙演(YouTubeへのリンクShiro Aonuma @bandshijin『風の吹く朝(中川イサトの曲)ギター弾き語りとハーモニカ』)