やめて! の粘度

「やめて」との歌唱のニュアンスの粘度と湿り気がすごい。ビチョビチョでデッチョデチョな濃ゆい衝撃の質感に心臓をダイナマイト爆破された気分。

「やめて、あいして ないなら」と、字脚のリズムに独特なパターンがあります。七五調でもないですし、3や4いずれかの字脚だけをそのまま反復するでもない……思い通りにならないが故に没頭・盲目的にさせる恋愛のどろどろずぶずぶ感を意匠して思えます。

ねっちりとした濃密な歌唱の質感とバランスをとるかのように、ピアノ、アコギ、マリンバ、ドラム、金管楽器の音色などアレンジ・演奏面でそれぞれサスティンや音のアクセントの強さ・重みが実にさらっとしています。原曲、ぜひ聴いてみてください。

この曲への気づき(認知)を私にくれたのはミュージック・マガジン2026年3月号でした。近田春夫さんの連載コーナー“帯に短し襷に長し”で言及されていたからです。1970年5月リリースの作品ですので、1970年以降かそれ以前かを区切る道標のような存在感を放つ向きが同時代をリアルで過ごした人にはあるのかもしれません。

GS(グループサウンズ)もひとくさり流行り終わり、職業作詞家・作曲家の仕事はそれとしてシンガーソングライターによる自作自演のヒットソングも顕著に目立ち始めるのが1970年以降……というざっくりとした時代の俯瞰が私にはあります。表現のアプローチが、その歌手自身が実演家になることにより特化する傾向を強め始める時代の幕開けと解釈するのも一興でしょう。

その流れと遊離してか、たとえば本曲『経験』のように歌謡曲然とした(ときに)マイナー調のしめりけ、臭みのつよさを特徴とする歌は依然として生産され続け、ときには「もっと古い時代の曲かと思い込んだけど意外とあとの時代の作品だった」といった思い違いをリスナーに与えうるのです。私に歌謡っぽいと思わせるくさみも、納豆が象徴する日常食としての普遍の一部になり地位を確立していると思わせます。

経験 辺見マリ 曲の名義、発表の概要

作詞:安井かずみ、作曲:村井邦彦。辺見マリのシングル(1970)、アルバム『マリとあなたの部屋』(1971)に収録。

辺見マリ 経験(ベストアルバム『mon cheri mari(モン・シェリ・マリ)』収録)を聴く

声帯の振動を終えて、発声してフレーズ尻に息だけが抜ける瞬間があるんです。これが辺見さんの本曲における衝撃的なネッチリ感の主たる要因かと私は思います。母音の響きをここまでで区切って、ここからは息だけを気管支や口腔に通り抜けさせる音だけを聴かせなさい……などはなかなか楽譜に書けませんよね(いえ、書けば良いのでしょうけれど)。また、リズムの強烈なひっぱり、もたつかせ、うしろにずらしてはめる(あるいは定規の目盛りを外れている⁈)歌唱の揺らぎのニュアンスが強いのも彼女の歌唱のインパクトの特徴でしょう。タテの線がどこに合ってるのか迷うくらいです。

ピアノとマリンバが左右に開いています。右にはペッケペケの薄く軽い音色のエレキ。ときにマリンバとフレーズの足並みが揃う、意図した奇遇。それぞれに恋愛の悲哀・憂いが漂うすきまが各パートのサウンドに感じられて、そこが快いと同時にさびしい。マリンバの音色がハーモニー的にもリズム的にも、質感のアクセントになっていると同時に主体にもなっています。こんこんと心の扉をいたずらにたたき、しかし短い余韻とともに何もなかったみたくなってしまう恋愛のあやうさ・はかなさを表現します。

ドラムの手捌きが軽いですがスパンとスネアのほこりを巻き上げるような乾いた余韻がヘッドフォンで聴くと堪能できます。タイトなトランペットのキレのよい動きも好感です。

辺見さんの歌唱の揺らぎ、音程やリズムの定規の目盛りや五線紙のステップを超越した質感を活かすボーカルトラックはハーモニーもダブリングもほどこさず単一の描線です。

サウンドのそこここに、「ちょっと待ってよ!」とこちらの求めに背き去ってしまう淡白さがあるのにこちらの想いはメラメラと燃えている、恋愛の需要と供給のミスマッチがもたらすブルース(悲哀)を感じます。「やめて!」と歌うのは、あなたに興味がないからただの迷惑だというニュアンスではもちろんなく、身を滅ぼす(依存してしまう)ほどにハマってしまって危険だからやめて! と拒むモーションの予防線を張っているのでしょう。やめてと言ったのにこちらへの接触を続けるのであれば、そこから先は責任とってくれるよね? という欄外の注釈こそが本曲の主題なのかもしれません。どうぞ任意で沼ってください。

青沼詩郎

参考Wikipedia>辺見マリ

参考歌詞サイト 歌ネット>経験

-辺見 マリ- 公式WEBサイト MARI HEMMIへのリンク

『経験』を収録した辺見マリのアルバム『マリとあなたの部屋』(1971)

『経験』を収録した辺見マリのベストアルバム『mon cheri mari(モン・シェリ・マリ)』(1999)