何を、誰として歌うか

七尾旅人の『圏内の歌』。アルバム『リトルメロディ』(2012)の2曲目に収録されている。

災害をテーマ…というかモチーフ、きっかけにした曲は多い。自然災害もそうだし、反戦歌などもある(一緒にするのは乱暴かもしれない)。

最近私は『満月の夕』を味わった(12)。ソウル・フラワー・ユニオンの中川敬とHEATWAVEの山口洋がつくったこちらは、1995年1月17日の早朝に起きた阪神・淡路大震災、この災害がこの楽曲を現在の形に顕現するきっかけになっている。

一方、七尾旅人圏内の歌』は2011年3月11日に起きた、東日本大震災が生みのきっかけになっている。

タイトルに含まれているそのとおりの言葉、「圏内」。ある特定の条件にあてはまる範囲のこと。ここでは福島第一原子力発電所の事故で避難を余儀なくされた地域……か。(参考:ふくしま復興ステーション

七尾旅人は震災直後から被災地へ通ったという。人々から直接話を聞き、曲をつくる試みをしたという。それがかたちになったものがこの『圏内の歌』だろう。(CINRA.NET同左

歌うとき、何者として歌うのか。

“子供たちだけでもどこか遠くへ逃がしたい”(『圏内の歌』より、作詞・作曲:七尾旅人)

これは、圏内で生活する、子供をもつ大人のことばに思える。自分が直接養育していなくても、その地域にいる子供を指していう人格も想像できる。

七尾旅人はもともと、ここでいう「圏内」の生活者ではないはずだ。

だから、「子供たちだけでも逃したい」のは現実の七尾旅人のことばではなさそうだ。もちろん彼の中に、仮想上のその人格がある可能性は否定しない。「圏外」に生活圏を持つ者であっても「圏内」の子供を思ってそういう望みを抱く場合もあるだろうから、そこは言い切らない。

つまり、被災地へ通って七尾旅人が実際に見聞きした、現地の人々の生の声がこの曲にそのまま(七尾旅人をとおして)あらわれている。

先程の提示に戻る。歌い手は、誰として歌うか。

そこには、歌い手本人が背負うものもあらわれるだろうし、つくり話を語る歌ならばその架空の登場キャラクターもあらわれる。

現実にいる、歌い手自身以外の存在が憑依することがある。まるで「いたこ」みたいに? 七尾旅人が媒体となって、「圏内」のある人格の声がこの曲にはあらわれていると思う。ほんとうに現地で生活してきた人格が発したであろう言葉。

“何年も何年も おばあちゃんに聞かされた寝物語 ここらへんの子供たちはみんな知ってる 優しいお話”(『圏内の歌』より、作詞・作曲:七尾旅人)

どんな話なんだろうか。口承の文化が生きているのか。

離れられない小さな町(『圏内の歌』より、作詞・作曲:七尾旅人)と繰り返し唱え、遠ざかるように曲は収束していく。

コロナ禍もそうかもしれない。社会に大きな影響を与える出来事はときに曲づくりのモチーフになる(音楽史をみても社会史をみてもそのことは明らかだろう)。複雑な気持ちになる当事者もいるかもしれないことを思うと、それを動機に創作をすることをためらう道理も立つかもしれない。それでも、それをしたことで生まれた曲がいくつもあるし、そうした作品の影響が社会に反映されることもある。音楽の灯は、どんな非常事態の元でもあらゆる厳しい情勢下においても点り続けるのを想う。

私がそうした、創作のモチーフにされた災害や出来事の当事者だったらどんな気持ちになるのだろう。もちろん、誰もが当事者であって無関係なはずはないのだけれど、幸いにも私は何かの人為・自然による災いによって近親者や友人や自分の命を失うとか、著しく住居や財産を失うとかいったことを未だ経験していない。いや、それを「幸い」というのも慮りに欠けるかもしれない。幸せの享受は、運のみによって左右されるものではないはずなのに。

『圏内の歌』で七尾旅人は、ナイロン弦のギターでぽろりと、言葉もぽろりとこぼすように歌う。シンプルでコンパクトなサウンドで、各地にギター一本を持って回るのにも扱いやすいだろう。それでいて、決して扱いやすいとはいえないセンシティヴな主題を持っている。そのことに私は影響を受けている。

青沼詩郎

リンク集

2011年から9回開催した『ぼくらの文楽』(山形県)。初年度の映像。(2020年度は中止)

ぼくらの文楽 公式tumblr 

山形県公式観光サイトが紹介する「ぼくらの文楽」

音楽ナタリーが紹介した2011年の「ぼくらの文楽」

七尾旅人 公式サイトへのリンク

『圏内の歌』を収録した七尾旅人のアルバム『リトルメロディ』(2012)

ご笑覧ください 拙演