あの娘ぼくがロングシュート決めたらどんな顔するだろう 岡村靖幸 曲の名義、発表の概要
作詞・作曲:岡村靖幸。岡村靖幸のシングル、アルバム『家庭教師』(1990)。
岡村靖幸 あの娘ぼくがロングシュート決めたらどんな顔するだろうを聴く
どぉなっちゃってんだよと彼の代表曲のひとつのタイトルを借りて評したくなる異端天才ぶり。脳髄に劇薬を直接流し込むような刺激ととろける甘み、炭酸が発泡するようなさわやかさ。ふくれあがる夢、愛、勇気、幻想。はじける体力。気概。虚勢と不満を突き破るプライドと挑戦心。異様に長い名前のタイトルはどぉにか短くならなかったものかとの疑いを瞬時にイレイスしてしまいます。この曲名に無駄などどこにもない。すべてが脇役ですべてが主役の青春の真理です。
左右から私の耳を貫くアコースティックギターのストラミング。こんなに鋭いアコギのユニークなサウンドはそうそう出会えるものではありません。ライン録りの音を中心に採用しているのでしょうか。
ハンドクラップの音がまたひときわ鋭い。ゲートがかかっているのか、お尻の余韻がばっさり切れていて、楽曲のせっかくの鋭いサウンドに雑味や輪郭のブレを与えないように音が作ってあるのを感じます。
シンセベースというのか、キックドラムの音が合わさっているのか、ヴァースで猛烈に直線的に繰り返されるエイトビートの鋭さ強さと来たらどぉなっちゃってんだよ。ルートを強調し印象づけます。速筋をつかって全力ダッシュするはじける青少年の体のつよさ、あざやかさを想起させます(あなたは大人になってからダッシュしたことありますか?)。
イェイだかヘイだか、子供みたいな声が合いの手で込められているのです。こういうあどけない・幼い声を出すのが得意な女性も世の中にはいるでしょうから、女性なのか子供なのか子供かつ女性なのかわかりませんが、とにかく岡村さんとはペルソナの異なる声が込められているのもこの楽曲の特異な個性のひとつです。
エンデイングなど、岡村さんのフェイク・スキャット、子供(?)のあどけない声、ホーン、ストリングスが入れ替わり立ち替わりローリングアタック。青春の永続を讃えてフェイドアウト。パーフェクトです。こんなの世の中にない。天才です。
歌詞の本文を歌い終わってから「ブラスバンド!」の圧巻の展開があるのもまた特異な点です。コンピューターの中に直接音を流し込むみたいなソリッドでエッジーな音で岡村さんらしさ、彼のサウンドのアイデンティティを提示したかと思えば、私自身が高校時代を過ごした時間・場所……高校の校舎の吹奏楽部の音漏れが混信するような空間演出。雑食すぎるのにみんなが青春の永続みたいな真のテーマにむかって一直線に短距離走を演じるみたいな統一感があります。私の心臓もバクバクだ。
“ぼくの胸のドラムがヘビメタを熱演している”
“汗で滑るバッシュー まるで謡うイルカみたいだ”(作詞:岡村靖幸)
心臓の早まる・強まる鼓動をヘビメタのドラムスに喩える語彙能力。特異というよりは最高精度のわかりみ。よくぞ言ってくれた、そうだよこれはヘビメタなんだ! と私の興奮もろとも言い得てくれる詩性。
シューズが体育館の床をこすり、重みのある人間の骨格を筋肉を制動する様子、その際のキュッキュとなる音をイルカの鳴き声に喩えるとは言われてみればもうその喩え以上のものは存在しない!と言い切れるのですが自分で思いつけるかといわれれば果たして分からないこの詩性。
刺激的なサウンド、演奏、音景の卓越した(逸脱した)構成能力と、こうした言葉の素直さ、普遍性、どこかいなたくもあるクセ……サウンドも言葉も統率する岡村さんの特異なボーカリゼーション。どこをとってもどこにもいない。私が彼を天才と嘆き讃える所以です。
この脅威の青春譚ですら、岡村さんのシゴトの一縷でしかないのですから。バッシュの底が宇宙に届きそうだぜ!
末端の鑑賞者の私ですら勇ましい気持ちにさせてくれる岡村靖幸さんの音楽の魅力(魔性)。
青沼詩郎
参考Wikipedia>あの娘ぼくがロングシュート決めたらどんな顔するだろう
参考歌詞サイト 歌ネット>あの娘ぼくがロングシュート決めたらどんな顔するだろう
『あの娘ぼくがロングシュート決めたらどんな顔するだろう』岡村靖幸のアルバム『家庭教師』(1990)
ご寛容ください 拙演(YouTubeへのリンクShiro Aonuma @bandshijin『あの娘ぼくがロングシュート決めたらどんな顔するだろう(岡村靖幸の曲)ギター弾き語りとハーモニカ』)