君とぶりかえす毎夏
絢爛な音楽のガワをまとい、憂いと哀愁にみちた歌声で美メロが私に流れ込んできます。
お、この質感良いな……と素直に思うのですが……主題が水虫。水虫にまつわる悲哀を歌っているのです。水虫にならなくて済むのならそれがいいはず……とも思うのですが、この歌はなにをそんなに、水虫との闘病の記憶をものほしそうに、甘美な恋愛の記憶を愛でるみたいなまなざしで生温かくみているのでしょうか……という私の心のツッコミを誘うのです。
ザ・フォーク・クルセダーズの音楽にときに私が感じるのは、ふざけきることで、トンチを効かせることにまっしぐらになることで、徹底して冗談をこくことで、大喜利で座布団を心から狙いに行くことで、まじめくさって保守的でどんづまってマイナーチェンジの再生産に陥っている悪しき習わしに正面から立ち向かう態度です。ようは、しゃれっけがあって、楽しくて、ウィットに富んでいるということなのですが……
この楽曲はいかにもフォークルのオリジナルナンバーのような質感を獲得していますが、作詞作曲は山田進一さんによるもので、オリジナルはその山田さんがメンバーのバンド、The Spirits Of Fallsがパフォーマンスしていたものである、とのことです。
いくつかのクラシックから引用をしているアレンジ(メンデルスゾーンの「春の歌」やベードーヴェンの「田園」からの引用があるそう)が絢爛な印象をなしている要因で、原曲に対する補作詞・補作曲として“足柄金太” “河田藤作” の変名のクレジットが加えられているようなのですが(それぞれ北山修さんと加藤和彦さんです)、「足柄」は水虫の唄なので「足」に由来しているのかな、というのと、「河田藤作(かわたとうさく?でしょうか)」は「変わった盗作」から来ているのかな……と思うと、よくもまぁ楽しくふざけてくれたものだなと感心するばかりです。
水虫を経験することも、しないで済んだのならそれがもちろん苦しみがなくてよかったのかもしれませんが、水虫を経験した人生というのはそれ自体はやはり財産であり、水虫を経験したことでその人のその後の人生が形成される、一本道の改変不可能なストーリーの一部になるわけです。
水虫の唄 ザ・フォーク・クルセダーズ 曲の名義、発表の概要
作詞・作曲:山田進一。ザ・フォーク・クルセダーズのアルバム『紀元貮阡年』(1968)に収録。ザ・ズートルビーの変名でパフォーマンスされる(同1968年、ザ・ズートルビー名義のシングルになっている)。ライブのみなのかレコードがあるのか未確認ですが、オリジナルは山田進一さんがメンバーのバンド、The Spirits Of Fallsによるものとのこと。
ザ・フォーク・クルセダーズ 水虫の唄(アルバム『紀元貮阡年』収録)を聴く
雪がすっかりなくなり芝生が照り返す太陽光がまぶしい夏のゲレンデのスピーカーからとどろく寂しい歌声……みたいな音質に感じます。
オケの音色は明瞭です。デデン!とテインパニーが轟ます。儚げなニュアンスを加えるのはハープシコード。バロックポップな語彙。乙女チックな可憐さが出ます。
ベースとドラムの低域はかなり出ていて、迫力に富みます。配信で聴いているのですが、後年のリマスターか何かなのでしょうか。特に表記がありません。レコードで発表されていたものが現代において配信で聴けるというのにあたって、マスタリングがまったく同一のままというのは基本的にありえないと思うので、最終的な仕上がりに対して現代の音響媒体にふさわしいマスタリングがなされてはいるとは思うのですが……。
弦楽器の音色と迫力のティンパニ、チラチラとグロッケンのようなパートも漂います。
うるわしい解像度にめぐまれたオケに対して、冒頭にも述べたボーカルの質感が、なんだかスピーカーを通して残響が野外にほうりなげられたまんま、みたいなロングタイム感があるのです。そこが、遠い記憶を反芻しているようなニュアンスのサウンドとして機能しており、水虫との甘く密接な日々?!を思わせます。
なんだかちょっとフケツ?(がたたって感染に至るような)な感じもする主題ですが、それとおハイソな社交場に似つかわしいような質感の気品あるサウンドとのミスマッチ感が本楽曲の魅力です。それをまじめに、遠い目をしてさもあなたが恋しいみたいな儚いニュアンスでやりきっているところがえもいわれる魅力になっています。
青沼詩郎(ちなみに私は水虫になった経験がありません)
参考Wikipedia>水虫の唄、ザ・フォーク・クルセダーズ
『水虫の唄』を収録したザ・フォーク・クルセダーズのアルバム『紀元貮阡年』(1968)
ご寛容ください 拙演(YouTubeへのリンクShiro Aonuma @bandshijin『水虫の唄(ザ・フォーク・クルセダーズの曲)君とぶりかえす毎夏【ピアノ弾き語り・寸評つき】』)