定位を聴くよろこび
ステレオの音楽データは、右のチャンネルと左のチャンネルのセットでできています。
例えば右のチャンネルにだけドラムスが入っていて、左のチャンネルにだけベースが入っている、というような音源をヘッドフォンやイヤフォンで聴けば当然ドラムスは右からだけ、ベースは左からだけ聴こえてきます。
この左右のチャンネルそれぞれに、ボーカルトラックが同じくらいの音量で入っていれば、そのボーカルは真ん中、あるいは正面あたりから聴こえるように感じられるはずです。
特定のパート(楽器や歌など)が左右や真ん中、あるいは前後どのあたりから聴こえるか、というようなことをさして「定位(ていい)」と私は呼びます。いろんな音楽を聴いていると、楽曲の数だけ様々な定位に出会えるので楽しいです。
右か左か真ん中か、ならまだ話は分かりやすいのですが、前や後ろの位置関係や上下すら感じることがあるので不思議です。ヘッドフォンで聴いていると、真ん中というよりは頭のうしろのほうから聴こえる気がしたり、頭をすっぽり覆って宇宙全体が鳴っているみたいに感じることすらありますから、音楽鑑賞は病みつきです(単に私のヘッドフォンの装着のしかたの微妙なズレに起因する感覚かもしれませんが……)。
音に前後の位置関係を感じる要因はいろいろあるようです。方向としては真ん中(正面)に感じても、音量が大きい方が手前(鑑賞者の近く)に感じやすいでしょう。
また、音が鳴るタイミングが早い(速い)ほうが、手前に感じやすいはずです。ユニゾンやシンガロング(みんなで同じメロディを一斉に歌う)していれば発音のタイミングのズレやバラつきにフォーカスしやすいかもしれませんが、ばらばらのフレーズを演奏していてもテンポや拍の感じ方が奏者によって違うことにより、早く(速く)て手前に感じるパートやそうでないものがあると感じる場合もありそうです。
低い周波数を含まず、高い周波数中心で成立している音色は、上のほうから降ってくるように感じたり、吊り下がっているように感じられがちなのではないでしょうか。たとえば木管楽器のピッコロは、空を舞うように、風に乗って流れてくるように感じる……反対に低い周波数をふんだんに含むコントラバスは、地を這うように感じる、といったように。「高い音・低い音」と表現する観念に引っ張られた思い込みのせいでそう感じるのかもしれませんが……。
定位がわかる環境
ところで、生活していると、定位がはっきりわかるかたちで音楽に触れられる機会って、結構限られるのに気づきます。移動中にイヤフォンで音楽を聴くとき、両耳をすっかりふさいでしまうと危ないので、片耳だけで聴くなど私はしばしばします。スマホのスピーカーから聴いたんじゃ、音の左右はわかりませんし、テレビ本体にもともとついているスピーカーなんかも、よっぽど大きくて上等なものでない限りは音の立体感はあまりわからないでしょう。
音楽を(つくる行為を)やる人は、ニアフィールドモニターという、近距離で聴くことを想定した左右一対のスピーカーのしつらえを持っている人も多いと思いますが、それでも、近距離想定のスピーカーよりは、ヘッドフォンやイヤフォンを両耳に装着してしまったほうがよっぽど音の定位や立体感はハッキリとわかります。
つまり、定位感の鑑賞については、ヘッドフォンやイヤフォンが一般的なしつらえのみを持つ人にとっては最強のデバイスなのです。で、それをするには、音楽を聴くための時間と環境を確保する必要があるのです。
楽曲の存在、あるいは曲の構成や進行をかなり知っているつもりであっても、どの楽器が左右のどのへんに位置しているか(どんな定位か)、といったことまで鑑賞して記憶にとどめていることって、音楽マニアならまだしも、一般の人においてはかなり希少なのではないかと思います。
でも、私はそこを味わうと、ようやくその楽曲の本懐に触れた気がするのです。
もちろん、ステレオの音楽データ(記録物)よりももっと強烈な体験を生じやすいのは、目の前でそれぞれの演奏者の位置から鑑賞者の体に直接(あるいは間接音を含めて)その場で届く、生演奏だとも思います。
音楽の記録物をつくる人は、その瞬間にその場で鳴る音の命をとらえて、時空を超えた人に届けるべく、ステレオというフォーマットと日夜格闘しているのです。両耳で全集中して音楽鑑賞するのは、そういう人の仕事の軌跡と、音が放つ瞬間的な命のきらめきを味わう行為であって、私にとって人生の源そのものなのです。
サブスクで聴く大滝さん関連作
大滝詠一さん関連の作品は、数年前はこんなにサブスクの音楽アプリで聴けなかったと思います。近年、たまに「あ、これも聴ける」と気付くことも多いです。
『NIAGARA TRIANGLE Vol.1』のCDを私が買い求めたのは数年前で、伊藤銀次さんの『幸せにさよなら』とか山下達郎さんの『パレード』が聴けるというのも特に大きな購買動機のひとつでした。
これに布谷文夫さんが歌った『ナイアガラ音頭』も収録されています。これも気になって、買う動機になっていたようないなかったような……とにかくタイトル(曲名)だけ見ても気になりますよね。
曲についての概要など
作詞・作曲:大瀧詠一。布谷文夫 with ナイアガラ社中のシングル、NIAGARA TRIANGLE(大滝詠一、山下達郎、伊藤銀次)のアルバム『NIAGARA TRIANGLE Vol.1』(1976)に収録。
ナイアガラ音頭(『NIAGARA FALL STARS』収録、1981年)を聴く
なんじゃこりゃ?! 笑わせる(楽しませる)音響的なしかけがすごいです。
右側に、三味線のたぐい、笛、太鼓。左側にクラビネット、ベース、ドラムスで、真ん中に布谷さんの歌唱と女声のはやしたてる声。
右に邦楽器、左に洋楽器の布陣でキレイです。分離が、左、右、真ん中でとれていてすごくキレイ。邦楽と洋楽が右と左にわかれて対面してバトっているみたいです。調和しているのか決別しているのかわからないですが、まったくそれぞれのアイディンティティを揺るがすことなく、崇高な自尊心を保ったまま、同じ空間を棲み分けて同居しているみたいです。この様相とサウンドが見事というほかありません。
事件は楽曲を聴き進めていくと起こります。チョイチョイチョイチョイ……!!!定位が動いていきます。クラビネットとか、ドラムスなど、フツウ演奏しながら行進ができないような楽器の定位が反転してしまうのです。邦楽器のいくつかだったら、持ちながら歩けるものもありそうに思うので定位を動かすのも現実のステージング的にあり得そうな気もするのですが。
完全に左の洋楽器と右の邦楽器が入れ替わるかといえばそうでもないみたいです。残るものなどもいて、右と左それぞれで洋楽器と邦楽器がランデブー。飲み会でもはじめましょうか。
で、また元のポジションに戻って、はやしたてる女声がいうとおり“おしまい”へ。なんだこれは。革命的です。
ナイアガラ音頭(『NIAGARA TRIANGLE Vol.1』収録)を聴く
空間に和を感じます。お祭りの場ができていますね。布谷さんのボーカルを中心に据えた大勢楽団員・お囃子メンバーの総和です。
右から左から、ギチギチとギロの音、しゃくしゃくとシェーカー(マラカス?)の音、コンガのポクポクと暖かな音。ドラムスの6分割系の派手なフィルインの果てに鳴るビブラスラップが傑作です。
笛の音像が遠いのがまた良い。合奏団の奥行きが出ています。近い音と遠い音のメリハリが良いです。出自のさまざまな多様な楽器がチャンポンして、シナジーしている。寄せ鍋音楽です。お見事。
ナイアガラ音頭(シングル・バージョン)(『NIAGARA TRIANGLE Vol.1 30th Anniversary Edition』収録のボーナストラック)を聴く
モノラル音源です。ヘッドフォンで聴きました。左右の広がりのあるステレオ音源のほうが脳に通電する感覚があるのかと思えば意外とそうではなく、モノラルだからこそ、聴いている私の脳みそと一体になって音楽が直接脳内に流し込まれているような感覚がします。興味深い。
ベースの地面にはりつくような存在感がすごいです。クラビネットの音がクレイジーでファンキー。ベランベランと開放的に響く三味線楽器の音とクラビの音が合体して、斬新なジャンルレスのファンクネスが爆発しています。100年後に聴いても、永遠に昔から鳴っていたのじゃないか? という気にさせる……そんな気がします。シングル・ヴァージョンで、フェイド・インではなくきっぱりと音が立ち上がって始まるオープニングです。
ナイアガラ音頭(『NIAGARA FALL STARS』収録、1981年)をもう一回聴く
モノラル音源を聴いたあとにステレオ音源だと、右耳、左耳、私、といった関係が自覚できて不思議です。
上記の項目に述べましたが、1回目に聴いた時は右と左の定位が入れ替わるときに残る楽器がいたように感じたのですが勘違いでした。改めて聴くと、左右はキレイにきっちり入れ替わっていますね。なんでそう思ったんだろう……三味線楽器のべらんべらんいう嬉々とした狂乱の響きと、クラビネットのクレイジーなファンクネス咲く音色がどこか似て思えて、そう錯覚したのかもしれません。
楽曲の中間部、
“ダンス・トゥ・ザ・ナイアガラ ミュージック ダンス・トゥ・ザ・ミュージック ナイアガラ”
(『ナイアガラ音頭』より、作詞:大瀧詠一)
のところで左右に分かれていたり入れ替わったりしていた定位が一気に中心で核融合を起こします。ボーカルはフワッフワに残響にまみれ、私はドラッグでもやったのかと錯覚するサイケ模様。渾然一体になります。
この中間部が明けると、きっぱり分かれていた定位にまた戻って、おまけに入れ替わっていた左右の定位も、また改めてじわじわと無段階的に歩いて行進し、移動していくように元の定位に戻っていきます。
そして最終部できっぱり分かれた定位がまんなかでひとつに調和するように移動し、合流して終わっていきます。多様性の肯定とその共存、インクルーシブの理想をほのめかすメッセージを勝手に感じます。非常に痛快で挑戦的なミックスだと改めて思いますし、いち娯楽音楽作品以上の意義を持ちうる傑作だと思います。
ギロやビブラスラップのような、ぎちぎちと目立つパーカッションはこのミックスでは除外されているかもしれません。左右に定位がきっぱり分かれている部分では、ボーカルの壮麗な残響感が、「右、真ん中、左」のあいだの「ナナメ前」くらいの空間に響き渡るのが感じられます。いずれにしても、極端な定位で遊び倒した印象です。ラジカル。心揺さぶられます。
青沼詩郎
参考Wikipedia>NIAGARA TRIANGLE Vol.1
参考Wikipedia>NIAGARA FALL STARS
NIAGARA TRIANGLE(大滝詠一、山下達郎、伊藤銀次)のアルバム『NIAGARA TRIANGLE Vol.1』(オリジナル発売年:1976)
コンピ『NIAGARA FALL STARS』(オリジナル発売年:1981)
ご寛容ください 拙演(YouTubeへのリンクShiro Aonuma @bandshijin『ナイアガラ音頭(布谷文夫 with ナイアガラ社中の曲)ギター弾き語りとハーモニカ』)