夏が来た! キャンディーズ 曲の名義、発表の概要
作詞・作曲・編曲:穂口雄右。キャンディーズのシングル、同名のアルバム(1976)に収録。
キャンディーズ 夏が来た!を聴く
なかなかメロディがコムズカシイ曲でもあります。こんな曲がキャンディーズのレパートリーにあったのかと最近知りました。
コムズカイシイとはディスっているみたいですが違います。高等といいますか、テクニカルといいますか、フック・ヒネリが効いているといいますか……ちょっと字余りみたいに、小節(バー)の采配を従える、字余りを音楽にフィットさせる自由さがあります。譜割がこまかい。メロディのあがりさがりがトリッキーなのです。
緑が空の青さに輝いて 部屋のカーテンと同じ色になっても 少しどこかちがうのは きっと生きてるからだろう なんて考えて なぜか君にあいたい
『夏が来た!』より、作詞:穂口雄右
歌詞もまた個人の日記と詩のあいだをとったような独特のバランス感があります。3人グループが声をあわせて歌うレパートリーというよりは、個人の夏の感慨と空想を私に印象づける……私的な歌です。キャンディーズうんぬん以前の、ソングライターとしての穂口雄右さんの頭のなかを少しだけ覗いた気がするのです。
あいまいもことしているといいますか、結論だけがはっきりしています。遠い目の主観的なフレーミングの末に「君にあいたい」。部屋のカーテンが空の青さに輝く緑の色と同じなっても少し違うのは、緑が「生きている」ものであり、カーテンはただの「モノ」であるということなのでしょうか。ちょっとわざと言葉たらずにして余韻をもたらした言葉遣いが独特なのです。結尾は「君にあいたい」。それも、「なぜか」です。どうしてそういう因果になるのか主人公もよく自覚していない。鑑賞者を放り投げます。私はかえってそれが気持ちいい。鑑賞者へのサービスを移した良作も世の娯楽音楽には数多ありますが、この『夏が来た!』に関しては、自由でとりとめがないが束縛・しがらみもないところがリアルで奔放で自律的な味わいです。
砂の上に髪をひろげて ねころんで夢を見て こんな不思議な出来事が あっていいものかと思うくらい 幸せな雲が風におどるよ
『夏が来た!』より、作詞:穂口雄右
感覚的です。自分の目に映るもの、知覚するもの、身体感覚。それと並行する幸福・充足感。環境の美しさのせいないのか、君との関係が主人公を幸せたらしめているのか。それらがチャンポンになってトロトロと煮えくりかえり、渾然一体になったダシのうまみみたいな充足・幸福。瞬間的で動的なものというよりは、流動的で時間的な幅のあるジワる実感を映します。
この字余りで自由な感じ、ひょっとして詞先で作曲されたのでしょうか。言葉の石を置いたあとに、その思うままの自由さに音楽が瞬発力と筋力と培った制動で伴走しきっている感じです。
右にエレキギターがオブリガードをいれます。左には対になるオルガンがピコピコと。エレキギターは舌がよく回る司会者のように闊達なのですが、出るだけ出たらちょっと静かしにしてみてボーカルやオルガンが描きこむ余白を奪うまではしません。
ベースの強拍の一瞬の抜き方がうまいです。エレキギターやキャンディーズの歌唱がピンピンと高い周波数がよく出ているのに対してドラムは音が深くあたたかい響きです。高い音域の楽器や歌と、ベース・ドラムの低いポジションのサウンドがうまく補完しあい機能しあっています。
演奏やソングライティングのレベルの手先が、単純に器用すぎる。アイドルグループによる、夏をリードするエンターテイメントソングとしてはもう少し、良い意味で「阿呆」で「馬鹿」くらいの、不器用だけど愛嬌重視! くらいの曲のほうが可愛げがあるかもしれません。『夏が来た!』は、曲として、音楽としての自律力がちと高すぎる。そこが私の尊敬のまなざしの的でもありますし、こうして1976年の曲を2024年(この記事の執筆時)に聴いて気づきや発見があるゆえんでもあります。もちろん、馬鹿や阿呆(言葉が悪い……)に振り切った愛嬌一級のエンターテイメントソングだって、何十年もして聴いても学べることはたくさんあるんですけどね。
音楽はその時代その瞬間を記録するのです。記録を「読んで」、何を見出すか、発見するか、学ぶかは、その「記録を読む人」:鑑賞者次第というわけです。いまさら改めていうことでもない、当然のことでしょう。
夏の空ばかりは、時代が飛んでも繋がっている気がするから不思議です。
青沼詩郎
ソニーミュージックサイト キャンディーズ・フォーエバーへのリンク
『夏が来た!』を収録したキャンディーズのアルバム『夏が来た!』(1976)