人生は2522880000秒か
80数年間くらいが日本人の平均寿命かなと記憶しています。1年は365日で、1日は24時間。1時間は60分で、1分は60秒。60秒×60分×24時間×365日×80年で、人生の秒数がざっくり算出できるわけです。2522880000秒となります。こういう大きい数字になってしまうと途端に現実感を失ってしまうのが、私の俯瞰能力のなさでしょうか。1分が60秒だから1時間は3600秒で……なんてやっているうちは人生は短いなと思っているのですが、かけ算を重ねていって何十億なんて規模の数字になるとポカンとしてしまうのです。
ばかでかい規模になってしまって具体的に考えづらくなってしまうものは、区切るのに限ります。3600秒×24時間で、1日は86400秒しかない。これも、じっと机にはりついて1秒ずつ86400になるまで数えるのは退屈なものです。その意味もない。ふと童話の『モモ』を思い出します。
1秒ずつ数えてその価値をなめまわすなんてことを忘れて、はじめてその1日が輝くのです。
86400秒(という単位)を忘れて過ごせば、案外進むものもあるでしょう。実際は眠ったり食事したりと休養しますから、能動的な活動のためにそんなに使っていません。それでもできること、なせることがあるのです。
私は37歳ですが、倍すると74歳であり、その頃にはだいぶ人生の終盤の局面?です。人生の半分を過ごした、というにはまだ若干「若い」かもしれませんが、そういうことを考え出す(想像しだす、くらいの意味です)タイミングとしては自然なお年頃でしょう。
人生で一体何ができるのかと。自分の思う通りになること、自分の願望の本質やその詳細が自分で見えていないが故に思う通りにならなかったと悔やむこと。
「そんなものさ」と諦めること。たかをくくること。夢を現実たらしめること。このくらいの強度でがんばりつづければ、あの辺りくらいまでなら行けるかもなと希望を抱くこと。夢と希望は似ていますがちょっと違います。
泉谷しげるさんの歌を聴いたり、その歌の言葉を眺めていると、ときに「諦観」や「悟り」のようなものを感じることがあります。彼の公式サイトなどみるに、今もエネルギッシュで「ライブに生き」ている様子がうかがえます。
泉谷しげるさんと、私にできることやこれからまだまだもっとやれることについて比べてしまっては、当然それぞれ、まったく異なるでしょう。
それは泉谷さんと私でなくとも、私とあなたでも、あなたとあなたが敬愛する誰かであってもそれぞれに全く違うことです。
そのことにがっかりして人生を投げてしまうのは愚かです。そのありのままの違いをうかがい知り、認め悟ったり諦観を持ったりすることは、あなたが希望を燃やして生きることに力を貸してくれるはずです。それこそが、厳しさのようであり、やさしさであるような気もするのです。
86400だとか2522880000なんて数字や単位それ自体にとらわれることはなく、しかしその「ものさし」はいつでもつかえるように、必要なときにとりだして自分の人生にあてがえるようにしておくのが、賢い生き方なのかもしれません。
二度とない人生だから 曲についての概要など
作詞:泉谷しげる、作曲:早川隆。西岡たかしと泉谷しげるのアルバム『ともだち始め』(1973)、ピピ&コットのアルバム『4人はハーモニー』(1972)に収録。
泉谷しげる 二度とない人生だからを聴く
エンディングの消え入りそうな儚い歌唱がほろっとさせます。泉谷しげるさんを、「テレビタレント」みたいなものとしてしか認知していなかった昔の私が最も知らなかった表現者としての泉谷しげるさんの表現の幅です。怖いものなしに、おかしいと思うことには全力で噛み付く泉谷さんの「怒りおやじ」的イメージからするとふんだんに対比と振れ幅の出る、繊細な歌唱です。バー(小節線)から自由になって、崩壊ギリギリのところでエレクトリック・ピアノについてこさせ、儚く終わってしまいます。
左側に振られたエレクトリックギターの伴奏とリードがまた上手い。ボトルネックを特定の指に装備しつつプレイしているのでしょうか。ポルタメントするトーンで甘美な表現。音色自体は歪んだ鋭さもあります。トレモロをかけて音を揺らしたような甘味もあります。
右に振ったエレクトリックピアノと左に振ったエレキギター、ふたつのパートの漂うような伴奏にはさまれ、中央付近ではドライでミュートの効いたタイトなドラムスがアクセント。タムのフィルインでちょっと定位感の広がりが出ています。
私の音源再生環境の問題のせいなのかもしれませんが、歯擦音がきつく潰れて感じます。すばらしい楽曲と演奏だけに、ちょっと勿体ないかなと思うところです。
ピピ&コット 二度とない人生だからを聴く
作曲の提供者の早川隆さんをメンバーに含む、ピピ&コットのセルフカバーといっていいのか?泉谷しげるさんへの提供曲だそうですが、泉谷さんが西岡たかしさんとのアルバム『ともだち始め』に収録して発表するよりも早い時期にピピ&コットがこちらのアルバムに収録して発表してしまっています。どちらがオリジナル・アーティスト?というのは愚問でしょうか。
モッタリとした、1拍を3分割するトリプレットのバラード。楽曲の「人生」という重厚なテーマを表現するには、案外このアレンジも正解かもしれません。エンディングに向かっていくにつれ、全員で厚く歌ってはいますがピピ&コットのハーモニーを存分に活かす楽曲とはちょっと違うような気もします。泉谷さんのようにギターの弾き語りのスタイルでコンパクトに身軽に伝えるほうが楽曲の潔い諦観が実直に伝わる気もします。右と左に役割を分けたアコギがいて、さらに中央付近に12弦のギターもあらわれます。ベースが入ってきますが、編成はドラムレスのフォークユニットの様相です。ピピ&コットのフォークなのかコーラスグループなのかわからないポジショニングの不定さもうかがえてちょっとおかしみも勝手に感じてしまいます。
覚えたさよなら
“親もあれば家もある 女もいれば仕事もある 足りないものは無いんだが それを壊しちゃよろこんでる”
(『二度とない人生だから』より、作詞:泉谷しげる)
ほんとうに壊したくて壊しているのではない。本心とはちょっと違う気がするのだけど、不器用で下手くそで馬鹿だから、一時的な感情のわがままなのかしりませんが、不本意に、満たされているはずの関係や境遇・環境を無碍にしてしまうおのれの愚かさを歌っているのでしょうか。
“二度とない人生だからと言って みんなうまくは生きられない 寄り道だってしたくなるさ それが無駄だとわかっていても”
(『二度とない人生だから』より、作詞:泉谷しげる)
無駄だというのはリップサービスで、ほんとうは人生に寄り道なんかない。それが必要だから、私はそれをする。それをすることでのみ、次に行けるのです。その不器用さをときに呪いたくなる。自分の愚鈍さがいやになる。非効率で、どんどん世渡り上手な人に追い抜かされていく。それでも、この道草の薬効が、いまこの瞬間の私に必要なのです。そんな主人公の不器用な姿が、私に重なって仕方ない。泉谷さんのソングライティングが私に刺さるゆえんです。
“二度とない人生だからと言って 途中で生きるのを諦めて 次の人生に夢を託す さよならを覚えておこう”
(『二度とない人生だから』より、作詞:泉谷しげる)
一見、意味のわからない歌詞でもあります。二度とないのに、諦めてしまうのか? 二度とないとわかっているのに、次の人生に託すって、一体何を? 夢を? どうやって? もう二度とない人生なのに、託すもくそもないのでは?
この人生にできることを推しはかり、悟り、諦めを知ることが、”さよならを覚えておこう”の意味であるようにも思えます。
人と関わることで、その人の人生が他人に映る(感染る、移る)ことがあります。たとえば、年下の人の教育に携わることで、上の世代の人は、下の世代の人に、おのれの人生の一部を託すことができます。そういうことをいっているのが“さよならを覚える”ことだったり、諦めや悟りであるような気もします。
もちろん年下でなくてもよい。年長者であっても、その年長者が別の誰か若年層と直接・間接に関わって、私との関わりによる影響のはしっこでもみせてくれれば、間接的に、どんな人と関わることであっても、次の世代や未来になにかを移す・映す・感染すことにつながるでしょう。
直接甚大な影響を与えられたら、一番よかったの? 私にそのカリスマ性があればよかったの?
嘆いて身に付くものであれば嘆きましょう。そんな人生で、悟り、諦められるのか? いいや違う。自分がどんなに愚鈍で馬鹿で無能で許せなくても、全力で生きることでのみ、諦め、悟れるのです。おれにやれるのはこれだけだよ。せめて、それだけをしてやるさ、残りの人生のすべてをかけて。
それが、私なりに”さよならを覚える”ことかな、と勝手にこの美しい人生の歌から学んでおきます。
青沼詩郎
西岡たかしと泉谷しげるのアルバム『ともだち始め』(1973)
ピピ&コットのアルバム『4人はハーモニー』(1972)
ご寛容ください 拙演 二度とない人生だから(泉谷しげるの曲)ギター弾き語りとハーモニカ