贈り物 吉田拓郎 曲の名義、発表の概要
作詞・作曲:吉田拓郎。よしだたくろうのアルバム『今はまだ人生を語らず』(1974)に収録。
吉田拓郎 贈り物を聴く
ザンザンと降り注ぎ画用紙を破き捨てるようなエレキギターが左にはりつきます。レスポールタイプのような太くコシと粘りのあるサウンドです。
右にはペカペカとツヤとかろみのある音色のエレキギター。オブリガードします。ちゅるちゅるとのどごしの良い、それでいてエッジのあるサウンドはストラトキャスター系のサウンドでしょうか。
ピアノがどこからともなく、いえ右寄りの定位だとは思うのですが広がりのあるブライトなサウンドでリズムとコードの響きを後押しします。
ヒエヒエと蛇口から水が溢れ出、ほとばしるような粒と波のあるサウンドでオルガンが飛び交います。はっぴいえんどなど思い出すサウンドです。
手数の多く、しかしそれでいてフックと歌心に満ちたドラムス。これ、村上秀一さんがクレジットされているようです。ポンタさんですね。(まじか、このアルバムスゴイな。)よく動くドラムのしたに分厚いカーペットをしくようなベースのサウンドもまたバンドの中でバランスのとれた打点の密度感の名調整役といった感じです。
ハーモニカは吉田拓郎さん自身による演奏でしょうか。Aキーの曲に対してDのテンホールズで吹いているのでしょう、ソ(G)の音がナチュラルGなのでAのメージャースケールにたいしてセブンスのスパイシーな雰囲気をコラージュします。
エンディング付近のハーモニカとバンドの掛け合いが圧巻です。右のギターが特にハーモニカの独特のスケール感に呼応するみたいに気の利いたプレイがみられる気がします。
それから君の好きだった“雪”は
誰かに唄ってもらえばいいさ
今はわかり合おうよって時じゃないんだ
これで少しは気が楽になるだろうネ
笑ってたんだよ 心の中で
僕にはそれがきこえてくるんだ
捨てちまうよ 君のくれたものなんて
『贈り物』より、作詞:吉田拓郎
タイトルを『贈り物』としておきながら、“捨てちまうよ 君のくれたものなんて”と書く。皮肉でしょうか。
主題としたものをありがたく思い、丁重に扱うことを強いられる法などありません。吐き捨てて然るべき事物を主題とすればそれだけ反骨の精神が薫るでしょう。
どうせ僕のことを心の中で笑ってたんだろ? というニュアンスなのか? あるいは自分は苦しいですという態度をとっているように思えて、心の中ではスっとしたりホっとしたりしていたんだろ? という見た目と心中の差異のことを色眼鏡なく表現しているだけなのか? 読み筋に幅のある歌詞にも思えます。
吉田さんの作品には、自分の過去のレパートリーを拾い上げてその一部やカケラをコラージュしたり、全体をそもそもつくりなおして再提示したりといったセルフパロディの姿勢、あるいは自分のしてきた仕事を資源として何度でも活用するポリシーが感じられます。ここで出てくる『雪』も吉田さん自身の発表済み曲のことであり、バンドあるいはフォークグループとも呼ばれる「猫」がカバーしもしました。その曲を拾ってきて『贈り物』のなかにはめこんでいます。現実の吉田拓郎さんの人格が楽曲の中の主人公とシームレス……地続きなのでしょう。
吉田拓郎さんのボーカルメロディって独特すぎます。その単語や文章にたいして、そんな抑揚、メロディのあがりさがり、リズムの引っ張り方や急き方をあてはめるなんて私の芸にはないよ!!という意外さがいっぱいなのです。これを私は心の中(あるいはこのブログ上)で「たくろう節」と呼び親しみます。ちなみにサニーデイ・サービスあるいは曽我部恵一さんのソロ作品を鑑賞していても似たことを思うことがあります(そっちは……曽我部さん節でしょうか)。
自己パロディのアティテュードは私が敬愛するくるりも頻用する創作姿勢です。それどころか、数百年を飛び越える名だたるクラシック作曲家たちも数多それをしてきた。作詞作曲の基本にして最高の手技手法なのです。
ってか作詞作曲とか絵画でもなんでも、すべての創作物自体が自己あるいは他己パロディのコラージュであるともいえるでしょう。真の意味でのオリジナルなんて存在しないという言い回し(言説)もよく耳にしますし、一理あると思います。
だからこそ問われるものは何か? 問うべきものは? というところにその人の個性が映ります。
青沼詩郎
参考Wikipedia>今はまだ人生を語らず
『贈り物』を収録したよしだたくろうのアルバム『今はまだ人生を語らず』(1974)
ご寛容ください 拙演(YouTubeへのリンクShiro Aonuma @bandshijin『贈り物(吉田拓郎の曲)ギター弾き語りとハーモニカ』)