憂歌団 おそうじオバチャン 曲の名義、発表の概要

作詞:木村秀勝、作曲:憂歌団。憂歌団のシングル、アルバム『憂歌団』(1975)に収録。

憂歌団 おそうじオバチャン(アルバム『憂歌団』収録)を聴く

リードボーカルが女声のように聴こえるのがまずこの楽曲の卓抜した特徴です。“オバチャン”を謳っているので主人公像が女性なのは当然かもしれませんが、でも果たしてそれもどうなのかわかりません。

あたいのパンツはとうチャンのパンツ(『おそうじオバチャン』より、作詞:木村秀勝)

おのれの色気のなさをの呪うかのように、一応女性もののパンツをはいているにも関わらず、比喩として自分の色気なしパンツをあざ笑うかのように“とうチャンのパンツ”と嘯いて見せたのかもしれません。女性が実際に“とうチャン”とパンツをシェアするのは考えにくいです。“とうチャン”は自分の父親でなく、自分の夫である配偶者を指していう“とうチャン”かと。それともありえるの?!性別を越えたパンツのシェア。

かなり深読みすると、体と心の性が一致していない“おそうじオバチャン”の歌なのかもしれません。主人公の心は女性である。しかし、風貌と肉体の性別は男性、年齢的にはまるで“とうチャン”である。自分の心の性からして“おそうじオバチャン”を自称しつつも、実際に自分が身に付けているパンツは客観的にみて男性(“とうチャン”)のそれであり、肉体の性に迎合している……という相容れない性の同居が起こっているのです。心は、“きれいなフリルのついたやつ”も“イチゴの模様のついたやつ”も、なんなら“アソコの部分のスケてんの”を身に付けたい。乙女なのです。まあ、この「心と体の性不一致」の読みは極端な解釈としても……

“ワッシュビ、シュビ・ドゥ・ワッパ”……と、バックグラウンドボーカルとリードボーカルが並進します。男性の肉体と女性の心の同居を極端な解釈と一度は引っ込めてはみたものの、この複数のボーカルのなす混沌とした熱量の高まりを目の当たりにすると、やはり心が肉体との摩擦で叫びをあげているように聴こえてしまう。おそうじオバチャン! 私にはあなたの心の叫びが聴こえます……!

一日働いて2000円はブラックすぎます。時給の間違いじゃないの?! 2時間の給料だとしても2024年時点では安すぎるのでは? 楽曲『おそうじオバチャン』のリリースは1975年。「1975 初任給」とか「1975 物価」などと検索すると、2024年時点の2000円よりは額面以上の価値があるようですが、朝昼晩とトイレを磨いて得られる報酬とはとても……歌はフィクションであり、物語でもあります。おおげさに歌ってみたのかもしれないし、楽曲『おそうじオバチャン』の舞台世界が私の見ている現実と同一だというきまりなど、ウンカスほどもないのです。

耳を疑いたくなるほど奇特な声の持ち主は木村充揮(きむらあつき)さん。作詞の“木村秀勝”も同一人物です。動画サイトなどに散見される歌声を見るに、年齢とともに歌声も変化しておられるのを感じます。お若い頃は特に中性的な妖気漂うお声だったのかもしれません。経年とともに“オバチャン”のレベルも着実にアップしていき、誰も手の届かない妖宴の境地でアソコの部分をスケさせているのかもしれません。あそこがスケてるって、やっぱり性別不明であることの描写にも思えます。スケたところに、一体なんの性をみるのか? あなたの観察する真実があります。

ボーカル、ギターやピアノの軽快で達者な演奏。声質と楽曲の内容、主人公像が組み合わさって奇跡のバランスをなす特異な一曲です。インパクトがすごい。

青沼詩郎

参考Wikipedia>憂歌団木村充揮

木村充揮 公式サイトへのリンク

参考歌詞サイト 歌ネット>おそうじオバチャン

参考サイト TAP the POP>憂歌団の「おそうじオバチャン」を放送禁止にしたのは誰なのだろう?

落語家の笑福亭仁鶴が歌った『おばちゃんのブルース』(1969年のシングル『どんなんかな』のB面曲)が憂歌団『おそうじオバチャン』のアイディア元になっているといいます。演奏や詞の奥に感じる悲哀と泥臭い生命力は木村充揮さんの生まれだという大阪・生野区の人々の暮らしぶりに由来し、社会の特定の時代・特定の場所における厳然たる真実を物語っているのかもしれません。

『おそうじオバチャン』を収録した憂歌団のアルバム『憂歌団』(1975)

ご寛容ください 拙演(YouTubeへのリンクShiro Aonuma @bandshijin『おそうじオバチャン(憂歌団の曲)ギター弾き語りとハーモニカ』)