まえがきのまえがき くるりOfficial noteに寄せた“変12”全曲レビューの青沼ブログ版です
2020年頃のコロナ禍をきっかけに一念発起。私はずっとやりたかった独自ドメインのブログの立ち上げをしました。このブログサイトがそれです。
SNSなどの既存のプラットフォームのなかに自分のアカウントを持つのとは異なり、ここには私だけの音楽時間が流れています。世間でどういう音楽がたくさん聴かれているかといった事実は私に影響を与える場合ももちろんありますが、この音楽ブログサイトには純粋な私の興味関心趣味嗜好がつまっています。
そんな私のこのブログサイトに最もふさわしい執筆題材のひとつがくるりです。私は高校生の頃からくるりを聴いて育ってきました。自称音楽家として、人として。
このブログサイトを立ち上げた2020年半ば以降、毎日更新を始めたことがきっかけで、私はネット上の音楽の話題やストック記事をこまかに(ときにおおざっぱに、盛大に偏って)チェックするようになりました。そこで初めて(遅ればせながら……)、くるりの岸田繁さんのアカウントがTwitterに存在するのに気づき、フォローを始めました。佐藤征史さん、当時のメンバーのファンファンさんのアカウントも然り。
私はこの音楽ブログサイトで書いたくるり作品関連記事をしばしば自分のTwitterアカウントでシェアしていました。また、岸田さんのTwitterアカウントが特に音楽理論と関係の深い興味深い投稿をしていたときに、私はコメントを書き込むなどのリアクションをしてもいました。いつしか、私がくるりを意識しくるり作品を題材にしたブログ投稿やTwitter投稿の類の音信が、岸田さんに届いている事実が岸田さんのTwitter(プラットフォームの名前はいつしかXに)アカウントの挙動を通して確認できることがちらほらあらわれ始めたのです。
2026年2月11日発売のくるりの15番目のオリジナルアルバム『儚くも美しき12の変奏』(愛称は“変12”)に寄せた全曲レビューの執筆を私が担当し、その記事がくるりOfficial noteから公開される世にも光栄な想定外が起こった経緯をさかのぼったさわりはそんな具合です。そのnote記事をくるりOfficialの公式サイトニュースやSNSアカウントやくるり出演時のFLAG RADIO(エフエム京都)など複数の媒体でご周知いただくなど、ブログを始めたばかりの2020年時点の私にとっては青天の霹靂でしょう。このような貴重な機会を与えてくださったくるりOfficialのみなさまには重ねがさね、心よりお礼申し上げます。
さて、“変12”の発売とくるりOfficial note上での全曲レビュー記事の公開からおよそひと月ちょっと経ったこのタイミングで、あらためてこのブログ上にも同一内容の記事を公開する運びといたします(くるり Officialと打ち合わせ、ご了解を得ています)。内容はまったく同じですが、元々このブログエディタ上で執筆作業を進めた記事を先ずくるりOfficialに提供したので、このブログ上で見ると、私自身が「こんな感じの見た目(レイアウト)の記事になる」と想定した通りの質感で記事にふれてもらえると思います(広告が入るのが目にうるさいと思いますが……ドメイン・サーバー代捻出のためご容赦を)。
くるりOfficialが美麗に整え、細心のもと作業を進めて公開に運んでくださったnote記事が依然ご利用いただけます。また、このブログ記事が公開になる3月25日は“変12”のアナログ盤の発売日です。魂の容(い)れものを違えた“変12”がもたらす作品の鑑賞体験を、このタイミングでぜひ更新してみてください。あわよくば、私の全曲レビュー記事をその傍らにチラ見して……。
まえがきのまえがきおわり。それでは、何度でも“変12”をご堪能ください。
青沼詩郎
まえがき “変奏”は観念か作曲技法か
くるりの15番目のアルバム『儚くも美しき12の変奏』(2026年2月11日リリース)に先駆けて、2025年9月から12月にかけて4か月連続でアルバム収録曲から4曲のシングルリリースがおこなわれました。
9月のリリース曲『ワンダリング』が映したのは、さすらうもの(放浪者)の心でしょう。好奇心の旅を続けるくるりの音楽アティテュードと、翌年リリースになるアルバムのコンセプトを見事に総括する楽曲であると予感した私の心は自由の風に大きくなびきました。
それから『Regulus』『瀬戸の内』『oh my baby』とリリース。4つの先行リリースが済んでから、私は気ままに好きな順番で、『ワンダリング』以降の3曲を個別に観察していきました。その経過はそれぞれ私の音楽ブログ上に公開されているので、曲名に付されたリンクを併せて参照してくださると嬉しいです。
さて、これら4曲の先行シングル曲の個別の観察をしたところ、ふと私は好奇心が震え上がる仮説を思いついたのです。
『ワンダリング』に感銘を受け、それに続くシングルリリース3曲をくるりの出演するラジオのエアプレイなどで自分の作業をしながら軽く聞き流していた段階では、「旅(さすらい、放浪)」「星」「道」「軌道」「思い出」「記憶」などといったそれぞれの楽曲のイメージを構成するモチーフが導くなんらかの観念的な大きなテーマ(主題。たとえば、ひとつピックアップするなら「旅」など)が存在し、その主題を12曲それぞれのアプローチで観念的に変奏していく、というコンセプトのアルバムなのではないかと予感したのですが……
……先行シングル4曲すべてを個別に観察し、なんなら各曲で印象的な音楽の具体的な断片:たとえばボーカルメロディの歌い出しなどを採譜して視覚的に起こしてみると、これはなんということか……私は当初のぼやっとした仮説の焦点を絞り直しました。
「観念的な主題を観念的に変奏していく」ばかりか、音楽上の具体的な共通のモチーフ(リズム形なりメロディなりの断片)があって、それを実際に12曲12通りに変奏していくという、純然たる作曲技法としての「変奏」に忠実なアルバムなのではないかと思えて来たのです。
もちろん、当初の私が抱いた仮説:観念的な主題の観念的な変奏を否定するものではないでしょう。ふたつの仮説は相容れないものではなく、共存できるものです。
ついに全容が解き放たれたアルバムの鑑賞の前提として、クラシック名曲探偵にでもなった気分で先述の仮説をうっすらと念頭に入れていただき、以下に続いて個別の楽曲を一緒に味わっていっていただけますと幸いです。私とて、ときには(というか大半の時間は)仮説の検証を忘れて純粋に楽しみながら進めたいと思います。
#1 たまにおもうこと
メロディからの解放で詠む時代の空気
まるで夢を見ているみたいな音の景色のコラージュ。テレビのチャンネルをさすらう:ザッピングするみたいに瞬間的に唐突に視界が切り替わります。
楽曲を横断する主題は私が察するに、ずばり時代の空気でしょう。『たまにおもうこと』と主題しつつも、無意識下にいつも、今を生きる私やあなたやくるりチームにのしかかり、息をふきかけつづけている「時代の空気」を、リラックスした雰囲気を映したセッションのサンプリングをイントロダクションに紡いでいきます。
“あ、一応こっちも回したから。両方録っとけば” “はい”
複数で録音を回しておけば、素材に不備があるリスクは最小限になり十分だろう、というニュアンスの会話を想像(前者の声が佐藤さん)。くるりのお2人のミニマムな素の空気がアルバムのオープニングで構えるリスナーにアイスブレイクを与えます。
夢を見ているみたいに気ままにシーンが変わる局所が印象的ですが、楽曲に敷かれるメインになる秩序はギターのD(レ・ファ♯・ラ)の和音でしょう。それがおそらくAm7(ラ・ド・ミ・ソ)の和音にうつろっては戻って、という音楽上の下地があります。Dメージャー調っぽくも聴こえるのですが、Am7のコードは副次調の響きになるので逐次地平が変わるようにフワっとする感覚があります。ベースライン(ギターの低音)が「ファ♯・ソ・ファ♯・ソ」もしくは「ラ・ソ・ラ・ソ」を反復している時間が楽曲中の大半。ビートは安定感のある表拍4つに比重があって、それを16分割した解像のフォーキーなグルーヴで進んでいきます。

自由詩の朗読のようにあるいは酔っ払ってくだをまいたしゃべり言葉そのままのように、ときに未洗練な口をついたままの思念で「時代の空気」を直感的に詠唱していきます。“俺は天才”だが、“自分が大したことないことを知って”もいる。相容れない要素が重ね合わせになる矛盾、一貫性のブレこそ人間のアイデンティティなり。
“ストローマン 何をそんなに躍起になっている”(くるり『たまにおもうこと』より、作詞:岸田繁)
藁人形を意味する単語を冠した、ストローマン論法というのがあるといいます。相手の論旨・論点をゆがめたりねじ曲げたり、すり替えたりして弱体化し攻撃・批難することをストローマン論法と呼ぶ……というのが私が得た浅はかな(ストローのように軽薄な……)ネット検索知識です。
“おれは馬鹿で碌でなしだけど 正しさを使ってひとを裁いたりなんかしない 他人を責めることは簡単だけど 自分を責めることも楽勝さ 誰も責めずに話が出来ないのかい”(くるり『たまにおもうこと』より、作詞:岸田繁)
歌詞の最後の部分で時代の空気の内実に寄せる直情をこぼし、素朴かつ嘲笑的に問います。
ギターのスリーフィンガー調のアルペジオとダブルベースといった生楽器の響きを主勢に心の声を漏らす“空気”は、プログラミングの明瞭で輪郭の強いサウンドで唐突に強制排気されます(2分35秒頃〜)。男声のイタリア語(“アウディトリウムノヴェチェント”。『La Palummella』収録に使用したナポリの音楽スタジオ名。声はオーナーのファブリッツィオさん) 。楽曲『La Palummella』から女声歌手のサンプリング。楽曲『ワンダリング』の“Hobo”の声高な好奇心への思念の断片がよぎり、夢を見ているみたいに記憶のかけらが無作為風の作為のもとに陳列されます。
ビートから解き放たれ、さわさわと海の波に抱かれます。収録現場の伊豆スタジオ付近の海の音なのか、京都の海の音なのか。イタリアで共同作業したダニエレ・セーペチームとの交歓の記憶がまどろみのなかで混信したかと思えば、日本を想起させる和太鼓が要所の転換点にズンと深い杭を打ちます。
テレビのチャンネルボタンを猫が踏み荒らしたみたいに切り替わるサウンドスケープですが、“レ・ファ♯・ラ”を3連1組にしたピアノのモチーフが楽曲の冒頭(0分00秒)とエンディング付近(3分39秒頃)をサンドイッチして意匠の安定を図ります。まぶたを閉じることから夢がはじまり、まぶたを開くことで夢が果てるのです。
余談ですが、アルバム『儚くも美しき12の変奏』がリリースになる10日ちょっと前(2026年1月31日)まで旅をしていたくるりの巡回公演のタイトルこそ、“夢のさいはて”なり。

時間的には刹那ですが印象的な歌詞“ストローマン”、あるいはウィスキーの銘柄を列挙、ほか嘆かわしさの噴出なのかいくつかのフレーズに声のオーバーダビングがほどこされ、相容れない分裂した精神がそれぞれに叫び、昂っているかのような魔術的な響きを纏います。
夢が果てるかと思いきや、また何か別の夢がかぶさるみたく耳鳴りのようなハウリング(3分54秒頃〜)。4発の異質なキックが鳴り、土地と血縁の聖痕を思わせる和太鼓の響きが最後まで残ります。
【追考】
・0分21秒頃ほか、フレクサトーンというパーカッション小物が用いられています。なんだか聴き覚えがあるな……と思って検索しますと、機動戦士ガンダムに登場する「ニュータイプ」のキャラと結びつけて劇中で用いられる効果音(?)に似ています。本曲『たまにおもうこと』において、なんらかの直感や霊感に似たものを得た瞬間、あるいはぱっと思いついた・何かをひらめいた、主題のとおりに「たまにおもうこと」が己のなかで時を経て幾度も反芻される演出のように思えます。
・①“おれは眼がわるくてスマホの文字もろくに見えない” ②“原油だと1バレるは159リットル” ③“帰るところがあるといいんだろうな”(くるり『たまにおもうこと』より、作詞:岸田繁)
①加齢にともなう己の精神や肉体の変化も、くるりの楽曲におけるモチーフ、題を詠む際の素材として近作にしばしばうかがえます。14thアルバム『感覚は道標』収録曲『世界はこのまま変わらない』には“不定愁訴”などという単語が登場し楽曲にフックを与えていたのも記憶に新しいです。②バレるとバレル、同音異義語による押韻……あるいは駄洒落。バレルは原油・石油に対して用いる単位。都市生活を送る者で「原油高」という社会問題……世界問題の影響を免れるのは不可能でしょう。ちなみに1バレルの量は一人暮らしサイズの節水気味の浴槽……くらいの規模感でしょうかね。③1曲目でさらっとこぼされるこのフレーズと、12曲目に配置された『ワンダリング』が描く“放浪”の観念との対比を思うと、ひと綴りの思考の飛距離、旅の道のりの豊かな質量に感慨深さを覚えます。旅と故郷、どちらにも及ぶ思慕が薫るからです。
#2 Regulus
海洋を見下ろす一等星
畳野彩加さん(Homecomings)とのデュエット。オクターブユニゾンの範囲が比重を占めます(ハモっているところもあります)。オクターブ同一性といって、2人の歌う音程はオクターブ離れていても同じ音名として調和して聴こえるんです。でもある意味、オクターブユニゾンって永遠に平行線なんですよね。交わらないんですよ。
父と娘を描いたミュージックビデオが制作された楽曲です。ミュージックビデオの中で父と娘は、お互いに相手に対するコミュニケーションの課題を抱えている様子が描かれます。相手の心の内が見えないという悩みの共通点によって2人は実は深くつながっているようにも思えます。主題の“レグルス”はしし座の一等星。獅子の心臓にたとえられ、ミュージック・ビデオにも父の心臓に異変が起こるストーリーとしてプロットされます。
話を楽曲のほうに戻しますと、岸田さんの男声と畳野さんの女声の、おおむねつねに一定の距離を保ったシンクロナイズドの間を埋めるように、あたたかなギターの倍音、ドラムやベースの豊かなサウンドが包み込みます。
“浮かんだアイデア 思い出せるかな あなたの心は錆びつかず 遠く遠くまで飛べた あの日の記憶と結びつくことも 星は知っている”(くるり『Regulus』より、作詞:岸田繁)
ファンタジックな星の情景が主たるイメージですが、大地に埋もれた種子が芽吹いて花が咲いて果実がなって……みたく、足元から湧き上がるようなサウンドに聴こえもするのです。フレンチホルン、バスーンが緩急豊かな語彙を見せますし、ピコピコとプログラミングならではの精緻な定規の分割とバンドの演奏の足並みが揃います。エレキギターにバックグラウンドボーカル、それぞれがそれぞれの星を結ぶ線を浮かべあって、渾然と調和しています。見上げた夜空に星座がひしめく様相にときめき。
疾走感と爽快さに満ちたドラムスと、軽快なテンポのもとタイトで振りの鋭い16ビートのタンバリンはあらきゆうこさん。タンバリンひとつにもその振り方に個性が現れるものです。
キーがDメージャーで、ギターのきらびやかな響きが溢れ出します(余談:主和音において、開放弦を根音にし直上の弦の音程が5度の関係になるE、A、Dキーはギターフレンドリーなのです)。このキーにあって、男声ボーカルパートは最低音が極めて低く、実音でヘ音記号の下のファ♯くらいから1オクターブ+長6度上のレくらいまで広い音域を用います。

極めて使用音域の下限が低いからといって、移調して高くすればカッコよくなるか……というとそうでもなく、私も自分で楽器を弾いて歌ってを移調したキーで試してみましたが、キーを変えると失われる何かがあります。これには、低い声が含む、実音より上の帯域に及ぼす倍音が関係しているのかもしれません(あくまで思いつきの仮説です)。
低い音域にとどまるキーを選択するかわり、上の音域の基音のテクスチャの需要が生じるところに迎えたのが『コトコトことでん』(2020)でも共演歴があり、2人の声の響きの相性の実証例のある畳野さん。調和しているがオクターブの距離のメロディの平行線が儚く切ない情緒を楽曲にもたらします。手の届きそうで永遠に等しい距離がある星空よろしく。
2人のボーカルのオクターブユニゾンは、そのボーカルメロディのテクスチャをいっそう強め際立たせ、倍音豊かなオケのなかでも一等星のような輪郭を放ちます。

タター・タター……と、一定のリズム形を連ねていきます。そのシンプルなパターンがかえって、メロディの天井の弧を雄大にふくらませる導きを誘ったのかもしれません。さて、この「ター・タター」……というリズムモチーフも、何やら「変奏」の遺伝子に思えるところですがどうでしょう。
『Regulus』に限ったことではないですが、くるりレパートリーに頻出するのは、Ⅰの和音の低音を第一転回させた形です。Dキーならば、「レ・ファ♯・ラ」の和音のうち「ファ♯」が低音に位置する形。キーは違いますが、くるりの代表曲『ばらの花』のサビ “安心な……”と歌うときに薫るあの浮遊感もⅠ(いちどの和音)の第一転回形のなす賜物です。基本形のⅠの安定感とは違って重心に傾きがあり、音楽が流れる慣性が宿ります。言い換えれば浮遊感。星に手が届きそうな動的な情緒の演出のために、『Regulus』の歌い出しの所は基本形のⅠよりも第一転回形がふさわしいのです。
話は戻って、タター・タターのボーカルのリズムはシンプルですが、常に小節線よりも前にフレーズの頭が飛び出しており、この点も楽曲のキャラクターの躍動性を高める要因でしょう。
またアウフタクトの話を連ねますと、イントロギターのアルペジオリフレインも2拍分(8分音符4つぶん)小節線から飛び出しており、ギターの音が鳴り出す瞬間を仮に1拍目の頭として解釈してしまうとドラムのオープンハイハットと歌が入ったときにズレに直面することになります。こうしたアウフタクトが与えうる錯誤は楽曲に対するリスナーの注意力を高める効果があり、私の思うくるりの得意とする呼吸の一つであると同時に、特筆の魅力です。
『Regulus』イントロギターフレーズの特長について加えれば、あくまで偶数分割のビートの秩序のうえで8分音符3個のまとまりを連ねることで、アクセントの位置が万華鏡のように変化する効果があります。万華鏡……ずばり星空チックでしょう。

【追考】
・“レグルス”の固有名詞が具体物である以外は、歌詞はおおむね抽象的・観念的な言葉やフレーズを中心にしています。
①“レグルスは白く輝き始める いつか望みを叶えるとしても 夢から醒めると忘れてしまうと 遠い昔の星は知っている” ②“浮かんだアイデア 思い出せるかな あなたの心は錆びつかず 遠く遠くまで飛べた あの日の記憶と結びつくことも 星は知っている”(くるり『Regulus』より、作詞:岸田繁)
①②はそれぞれこの楽曲の主たるヴァースのラインですが、①は人間の儚さ・矮小さを戒める響き。対して②は心の自由や軌跡・歩みを肯定する励ましや慈しみの響きを有し、好対照です。星は超越した俯瞰者であると同時に、群衆のなかの一粒の砂でもあるのです。私やあなた、そしてたとえばジョン・レノンだってギャラガー兄弟だって、みんな「星」だと思います。
・“海岸通りを行き交う人々 風を潜って家路を急ぐよ あなたはきっとカモメのように飛び立つことを恐れているけど”(くるり『Regulus』より、作詞・作曲:岸田繁)
終始、快活・爽快なビートですが上記のラインが始まるところで(2分3秒頃〜)ビートが緩和、ボーカルも男声のみになります。ギターに「レーラー(ミーレ……)」に似たモチーフがあらわれますが、『Superstar』で聴き覚えのあるモチーフに似ていますね。ここまで心の中の観念描写を中心にしてきましたが、ここで現実の風景にカメラが向けられる転換が音楽上のビートの変貌によっても図られています。
“カモメ(鴎)”は『潮風のアリア』にも登場したモチーフです。そちらでも地平から陽が昇るような音色をみせたフレンチホルンの米崎星奈さんと、今作でもレコーディングでの再共演を果たしています。サウンドやモチーフの面でも『Regulus』と『潮風のアリア』のつながりは色濃く、カメラを向ける視野を精神的な宇宙(星空)とするか、海洋とその周囲の風景とするかの違いによる連作関係に思えます。
『潮風のアリア』では、まるで海岸の人の目線からカモメが悠然と舞い上がるような描線を見せたフレンチホルンとフリューゲルホルン。『Regulus』ではそんな海鳥たちが長旅をする水と緑の惑星を、星空から見下ろしているようなサウンドスケープに思えます。岸田さんの“リラックマ”のサウンドトラックワークのときはバスーンを“リラックマ”のシンボルのように扱ったような話を岸田さんの出演するラジオで聴いたことがある気がしますが、『潮風のアリア』『Regulus』ではホルンを海鳥、バスーンをその生息域の傍らのなんらかの動物に見立てることもできるかもしれません。バスーンはなんでしょう、シロクマとかでしょうか(歌詞に出てきませんが……笑)。
・冒頭、ワウ・フラッター。楽曲の本編をフレーミングする「メタ」的視座の演出。すべては上位の次元に包含される真理の暗喩……宇宙的。アナログの名残……記憶、回顧の趣。
#3 金星
鳥生(調性)の哲学
(イントロを含めれば)5回の転調の論理的な必然性と滑らかさ、歌詞との卓越した協調性においてノーベル天文楽賞(そんな賞なければ私が作る)を勝手に謹呈。
楽曲の最も占有面積が広い調性はCメージャーです。8分音符単位の食いのリズムを多用どころかほとんど全編に渡るくらいにボーカルメロディに用いています。
この曲を繰り返し聴きました。『金星』は美しい曲です……そう、こんな具合に美しかった……と説明してみようとさっき聴いたはずの記憶をまさぐるも、えぇとこう、なんていうかすごくぺっぴんさんで、顔立ちが整っていて……と、しどろもどろしてしまう具合(我ながら美人に弱い)。
小節の頭からずれてフレーズが始まるのを「弱起」と呼びます。その印象は、概して儚いのです。対して、小節の頭からきっかり始まるフレーズを「強起」と呼びます。本アルバム収録曲で先行配信曲の『ワンダリング』が良い例です……“Hobo, Hobo”……このフレーズこそ強起の良い例。力強く記憶に焼きつく熱さがあるのです。
本曲『金星』はまさにその対極。これでもかというくらいの弱起:アウフタクト:移勢のオン・パレードならぬオン・ヴィーナス。
“山の向こうで 風がたなびく 海の向こうで 風をうけては 翻るような 渡り鳥たち 気のむくままに 恋をするような 美しい時代 そのままでいて 振り返らずに 気の向くままに”(くるり『金星』より、作詞・作曲:岸田繁)
『金星』の影を求めて振り向くたびに、そこに残るのはせいぜい飛び去りし渡り鳥の残した羽のひとひら……そう、かれらは転々と次の停留地を求めて移ろっていくのです。その「渡り鳥」のモチーフを、震えるほどの音楽上の意匠美で表現したのが本曲『金星』。
楽曲の最も占有面積が広い調をCメージャーと先に書きましたが、イントロにちょっと不思議な断片がついています。私の解釈では、Aメージャー調におけるⅤ7/ⅳ→Ⅰ/ⅲ。コードで書くとE/D→A/C♯。

ヴィブラフォンのようなメルヘンチックな音色で奏でられ、2/4拍子の一瞬の空白の挿入ののちに歌い出し“夏の匂いを”……に接続。なんなのでしょう、この意匠は……ひとまず渡り鳥のしっぽを追って先に進みましょう。
ぐんと進んで、2分20秒あたり“ぼくときみはひとつだった”あたりからどうぞ全集中の呼吸をお願いします。ここから怒涛の「渡り鳥転調」が始まるのです。
Cメージャー調でここまできていますが、“山の向こうで”……との歌詞で始まる最初の滞在地(調性)はE♭メージャー。たった6小節の時間を過ごすと“風をうけては”のフレーズのところでG♭(F#と異名同調)メージャー調。“気の向くままに”でAメージャー調。そして“そのままでいて”のところで元のCメージャー調に回帰します。“振り返らずに 気の向くままに”の言葉を胸に、渡り鳥としてさすらっていたら、いつの間にか自分が一番人生で長く過ごした場所(Cメージャー調)に舞い戻っていたのです。
すべての転調のピッチは寸分たがわず、短3度の間隔で行われます。E♭調になる“山の向こうで”……のところからは、訪問先の調に滞在する長さ(小節数)もきっかり各6小節です。
さて、私に謎かけをしたイントロはというと、Aメージャー調のわずかばかりのカデンツのかけらでした。そこから、Cメージャー調に転調して歌詞の本体“夏の匂いを”が始まります。この転調の間隔も短3度です。
調性の軌跡を整理してみましょう。
イントロ(わずか2.5小節):Aメージャー
ヴァース×2、ブリッジ(“サンダル飛ばした”……)、ヴァース回帰(“大人になれば”……):Cメージャー
“山の向こうで”:E♭メージャー
“風を受けては”:G♭(F#に読み替え可)メージャー
“気の向くままに”:Aメージャー
“振り返らずに”:Cメージャー
ある音程を出発して、短3度を堆積していくと4回目で元の場所(音名)に戻ります。まるで渡り鳥の生活と世代交代、引き継がれる命の鎖ではありませんか……。
転々とさすらって、いつも違うところに旅立ってしまって見える渡り鳥ですが、空に浮かぶ星の視点で(たとえば獅子座のレグルスから見下ろすも良いでしょう)みれば、いつも地球(水と緑の小さな惑星)のどこかにいるわけです。一方通行の命の旅も輪廻なのです。新たな場所を希求する巡回の旅自体が恒久的な自然の摂理に包含される審美を、整然とした調性の導きによって表現します。
常に腰が軽く、明日にはあなたは行ってしまうんだね……という別れの影がつきまとう儚い印象は、セクション(フレーズ)の頭にⅣやⅥmの和音が多用されているせいもあるでしょう。どっかりとⅠの和音の基本形にアガリを決めてしまうのを常に明日へと先送りする渡り鳥の人生(鳥生:調性)哲学と読み解きます。

大半の部分を「ヴァース」の輪廻とひとまず解釈してみましたが、あるいは私がヴァースと思った部分が「コーラス」かもしれません。呼び方、あるいは認識の違いにもよるでしょう。
そんな中、ブリッジと呼んでよいものか“サンダル飛ばした 想い出と”(1分46秒頃〜)……の部分が気になります。

「おもーーーーーいでと」……の部分の音形に私は注目します。「タターーーーータタタ」のリズム……これも12の変奏の元手になる音形(記憶)のいち変化……「想い出(思い出)の変奏」なのでしょうか。
あの時起きていたことの意味
話は戻って、イントロのAメージャーの2.5小節は必要なのか?との問いを立ててみましょう。結論、なくても曲は成立します。Cキーではじまって、Cキーにめでたく回帰するだけの話です。
ですが、この2.5小節のイントロがあることによって観察者の視点が立ち、楽曲中のハイライトシーン、Aメージャーキーで演奏される“気の向くままに恋をするような美しい時代”のフレーズが予言されます。
この、「ん? なんだったんだろう? 今の一瞬のイントロは?」という「ん?」の疑問の喚起こそが、リスナーの楽曲への注意力のトリガーになるのです。なくても楽曲は無事成立するが、成立するだけの作品の先を行くのであればそのひと工夫こそがまさしく「気の向くまま」の哲学を象徴するし、さらに言えば気の向くままに生きる結果、私は「気の向くままという恒常性」を信条にそのままでいるということになります。振り返らずに、未来を予見する観察者の人格も連れて、小さな水と緑の惑星を気の向くままにさすらおうぜ。
【メモ】
・グラン・カッサ(大太鼓)のような個性的なキックの音色。『感覚は道標』収録曲『doraneco』などでも活躍したであろう“トリクソン”の変形ドラムでしょうか。
#4 瀬戸の内
変拍子の余白は瞼の裏

2拍と5拍の組み合わせが私に見えてきます。たとえばこの5拍が含む休符をひとつだけ取り去ってしまったら音楽として成立しなくなるか? といえば、きっとそんなことはありません。しかしその時間的な空白、余韻にリスナーは身を浸すことができるのです。休符ひとつが抱き込む絶対的な時間はおそらくわずかですが、その休符の存在は永遠と肩が並ぶほどに雄大です。
コードのギターがレールの下に敷かれた枕木のように、表拍のリズムのピッチ(間隔)を決めていきます。その響きを下地に、1拍3連のはずみで「からっぽの」の単語の観念を活かす譜割り。「からっ、ぽぉの」→タタ、タタタ」……初めて会ったとしても、どこかで会ったことのあるオーラをまとうあなたはひょっとして変奏される遺伝子の持ち主なのではないか?……と私をわくわくさせます。
恒常的に拍頭をしるしつづけるアコギのコードストロークにはⅠやⅤの第一転回形が目立ちます。

歌詞の語尾には「通り抜け」「星屑のように」「この瞬間も」「エピソードを」「瞼の裏で」などと、短歌・川柳・俳句などをたしなむとしたら「助詞止め」とでもいえようか、まだ何か付け加えることで文章が完成する余白の広さがあるのも特長です。5拍子が醸す余白、その永遠の一瞬の価値との相乗が作詞面にもうかがえます。
文章の等置の解消を試みても、それで解決するでもない。思い出とは、だんだん仲良くなるんだと。今どうこうして止めを刺してしまうよりも、新しい出会いがそよ風のように吹き込む幸運のためにあなたの胸には余白(あそび)があるんだよと、そんな語らいの響きを有する音楽が優しい。
間奏のところでEメージャーに転調します。日本とイタリアの交信でしょうか。主たる調性のGメージャーがたとえば京都や瀬戸内や伊豆などで仮にあったとするならば、Eメージャーはイタリアのナポリかもしれませんね。

【追考】
・本アルバム収録曲で先行シングル曲『oh my baby』とともにリードボーカルの繊細な情緒が漂います。『C’est la vie』『La Palummella』『はたらくだれかのように』などの朗々としたブライトな響きが印象的なリードボーカルとは対照的で、ボーカリスト:岸田繁の歌唱の表現の幅に着目しても実に起伏に富んだ内容で“夢のさいはて”の境地を体現した15thアルバムであるのを実感します。
・“単線の 錆びたレールを 跨ぐきみと おさらいした”(『瀬戸の内』より、作詞:岸田繁)
(0分38秒頃〜)上記の部分は、4/4と2/4の偶数のまとまりによる小節で構成されます。2つの軌道の組み合わせで1つの線路をなす「レール」のモチーフを描くラインで、5拍子がふんだんにまじる他の部分との差別化がはかられます。楽曲の大半が6拍子であったらの「もしも」の「おさらい」がこのブロックで試行されているかもしれません。「おさらいした」と歌い、ダニエレのソプラノサックスが上昇気流に舞う海鳥のように浮かび上がります。
・「思い出せるエピソードを 綴れ織にして 瞼の裏で」と歌い終えたあとに思い出を反芻するようにhum ooh……とやわらかなファルセットのボーカルフェイクが入り、そこですかさずシンバルをスっと撫でたような消え入るような音色で数回、手作業による「こだま(エコー)効果」の演出(2分53秒頃)。楽曲の情景に寄り添う石若さんのジャズ的アプローチのブラシワークが光ります。

・低域を厚くしたり万華鏡のように色味を変えたり、響きのベースメイクとして活躍するオルガンはプログラミングでしょうか。トントンとパーカッシヴなポジション高めの響きから低い音域のズボーンと深いサスティンまで語彙豊かなダブルベースとの掛け合わせに親密な関係を思います。記憶のなかの素直な表情を瀬戸内のやわらかできらびやかな陽光が包むよう。
#5 La Palummella
さいはての娘
“パルメッラ 舞い上がれ私の愛のままに 羽ばたき続けて 果てまで飛んでゆけ”(くるり『La Palummella』より、日本語詞:岸田繁・佐藤征史・野村雅夫)
本アルバム収録曲中、最も時期の早い既発表曲。くるりの2025年から2026年を渡るツアータイトル“夢のさいはて”を思わせる歌詞の行末のフレーズが印象的。「キューン(シューン?)」という効果音のようなものであったり、「ソーファミ♭ーレドー」という下行音形を下方への平行移動・反復で繰り返し登場させたりと、舞い上がる蝶というモチーフによる天方向の心象描写とは対照的に地面、あるいは過去方向を思わせる音形がうかがえます。
本作はナポリ民謡であり、いわばパブリック・ドメイン曲です。探究の好奇心の対象を岩も溶けるような悠久の時間の尺度でみれば、100年や200年前に由来を遡れる題材であっても、いまこの瞬間とたやすく融合がはかれるものでしょう。
イントロのストーリーテラー、“フライパンのように大きい”というタンバリンのリズムもナポリの舞踊などと関係の深い伝統的なリズムなのかもしれません。ここでも拍のまとまりの錯誤で私を幻惑するくるり(……そうか、あなたたちは私の“蝶”だったんですか……?)。オープニングのタンバリンの音の鳴り始める瞬間をきっかり1拍目の表として4拍子のカウントで解釈をし始めると、4小節目の2拍目でボーカルの“パール(メーッラ)”が入ってきてしまい、自分が3拍目だと思っていた部分が1拍目であるように解釈を改めさせられることになります。あと2拍遅くボーカルが入ってきてくれていれば、普通に小節線の前の4拍目に飛び出したアウフタクトだったはずなのです。

イントロのタンバリンの最初のストロークを1小節目の3拍目の表であると位置付けて(つまり、冒頭に2拍分の空振りが存在すると仮定して)数え始めると、岸田さんのボーカルをきっかり4小節目の4拍目にかかったアウフタクトとして迎えることができます。

あなたが生まれ落ちる瞬間に“せーの”できっかり世界の歴史が始まるわけはありません。いつのまにか始まっていて、うごめき続ける命の潮流へとある瞬間あなたや私が突然合流し、“ああ、そういうものなのか”と成長と歩みのなかで世界を知っていくのが現実。蝶は、夢あるいは過去への探究の誘い、その道案内役なのかもしれません。
余談ですが、蝶はしばしば死者や霊魂、あるいは命の輪廻や転生などを思わせるシンボルとして映画などで登場するモチーフです。そのシーンに蝶が登場する比喩や演出の意図を想像することが、その映画なり作品の創造性や作者が含ませた思想を解釈する楽しみであり、知的好奇心のトリガーになっています。
本楽曲は、タンバリン(“Tammorra”でしょうか。蝶のフォルムにも似たカスタネット類の楽器も重なっていますね)の舞踊的なリズムをガイドに、種々の管楽器がスロット・フェイスのように猛烈に替わる代わる多様な表情を見せます。短い音形の断片を繰り返し転位し登場させる手法で、楽器編成が大きく複雑であるにも関わらずそのシンプルなアイデンティティを強く印象付けます。中毒的な享楽性、人を魅了し、繰り返し同じ対象に向かわせる魔性を備えています。私にとっての音楽、その真理への道案内役が蝶(La Palummella)なのです。

場面転換に目次をつける
裸の私 冒頭〜0分24秒
バコバコと勇ましい音色のタンバリンにスチャっと軽いカスタネットが重なり、主たる旋律の提示が主役のボーカルによって、和声の十二単のいっさいを取り払った素の姿でなされます。
命の物量 0分24秒〜0分47秒
モチーフの輪廻・再生が両サイド・前後でうごめく圧巻の管楽器の応酬。
この世界の中央値(歌唱1番) 0分47秒〜1分22秒
ボーカルの主たるパターンの開陳と、音の質感やボリューム感の中央値があらわになります。ズウーンと伸びやかなエレキギターが駆け込んではキュっとブレーキ。警鐘をかきならすようなフルートの猛烈なオブリガード。エモーションを高めるボーカルハーモニー。
天と地の落差(間奏パターンの提示) 1分22秒〜1分31秒
「ソーファミ♭ーレドー」。リードする旋律はトランペット中心でしょうか。舞い上がる蝶への視線と力無く堕ち行く私の間に永遠の距離。生まれるものあらば、滅び行くものあり。死者こそが生者を生む資源となるのです。無常感を私に思わせる下行音形の反復。占める時間的には短いですが楽曲の印象を大きく占める約10秒間です。
運命は厳然(歌唱2番) 1分31秒〜2分6秒
歌パートのいわば2番。脊髄に直接信号を送り骸骨になってもダンスを踊り続ける私をスネアドラムの勇ましいマーチング調パターンが指揮。ズゾーっと流れ込むエレキギターのテクスチャーが鮮血のように艶やか。美しいものの裏面にはおぞましさがある、表裏一体の真理を思います。“パルメッラ 舞い踊れ 心に咲くばらのそばで あの娘に伝えて 愛よりも深い想い” とする日本語詞に、くるりの歩みにおいて必然的に浮かび上がるあの花の名前が出てきます。愛よりも深い想いとは、もはやおのれ1世代の恋愛感情以上に遺伝子レベルで組み込まれた因果、プログラム済みのストーリーすなわち運命の示唆にすら思え、一貫したスネアドラムがその規律の厳然性をつきつけるかのよう。
迎撃(間奏パターンの再現) 2分6秒〜2分16秒
「ソーファミ♭ーレドー」の間奏パターンの再現。呼応する「シ♭ーソラー、ラーファソー、ソーミファ♯ー……」のカウンターラインも見えてきます。

Requiem for me(そしてイントロの再現) 2分16秒〜2分52秒
ベーシックが鎮まり、サイド・バックグラウンドのボーカルの短音程の狭い間隔のうろつきが己の魂を己で弔うかのよう。蝶の残した鱗粉に恋しさを覚えるような虚ろな気分。右定位でマンドリンがカラカラと乾いた響き。励ましてくれているのか、命の儚さを嘲笑しているのか。音数が絞られた状態でのタンバリンのフレームインが視線を集め、イントロの再現としても機能します。
錯誤探偵の得心(間奏パターンの終儀) 2分52秒〜3分12秒
間奏パターンが折り返しアリの分量で再現されますが、8小節全量に横たわるのでなく8小節目にさしかかるとすかさず2拍目(と私が思った位置)でボーカルが入ってきてしまいます。そう、イントロの錯誤と同じタイミングですね。ここでその意匠の必然性が明かされる趣です。
対岸での邂逅 3分12秒〜3分34秒(Fin.)
ボーカルのハーモニーが短い音程と長い音価で空気を保持し、骸だけが踊っているみたいにマンドリンが主題のモチーフを空虚に反復。女声(Aldo Emilia Zamuner)がこの境地で初登場し、蝶に追いついた私はついに三途の川を渡ってしまったのか(“夢のさいはて”か)。古いナポリ民謡を原作に過去と未来、異なる時空の点がひとつに重なります。

【本ブログサイトで公開済みの関連記事】
La Palummella くるり & Daniele Sepe 世紀を渡る蝶の軌道
La Palummella くるり & Daniele Sepe 幻惑する蝶々
#6 C’est la vie
座右の銘の万国博覧会
激しく重々しいサウンド。最低音のDが出るようにチューニングしたエレキギターやベースを用いているようです。
調性はDかと思いますが、機能和声の展開の豊かさよりもスケールの匂いとビートの緩急を重視した音楽性になっています。
重々しいサウンドとデコボココンビを組むかのように極端なのはテンポ。BPM=210にした私の手元のメトロノームと概ね一致しました。
音の景色に起伏をつけるのは、空間的な粗密。♩=210ほどの心臓バクバクテンポですが、2回訪れるブリッジの部分でハーフ・タイムのテンポになりビートの解釈が変わります。
主題のC’est la vieは、なるようになるさといった感じでしょうか。シャンソンの歌詞や曲名などに出てきそうですし「座右の銘」のフランス人バージョンがあったら上位かもしれません。英語だったらLet it beかな? そしてウチナーグチ(沖縄のことば)でいえば“まくとぅそーけーなんくるないさー”なわけです。一意の信条を多様な言語の質感を纏っては早着替えし、火花を噴き上げ血肉沸き踊るボルテージで私にプレゼンテーション。
イントロのギターリフはDを根音に頻繁に着地しながら、通常のダイアトニックのメージャースケール基準でみると下方変位した感じの珍妙な音程をふんだんに取り入れ、4小節単位のロングスパンなパターンで無酸素運動。凡ミスで致命傷を負うマシンガンダンスを踊らされる切迫感。

ボーカルメロディにみる音程、そして上記のギターリフの音程を取り出して並べてみるに……これは一体なんと呼ぶべき音階なのでしょう。教会旋法でいったらソ旋法:ミクソリディアンスケールっぽい雰囲気もありますが、増2度の間隔もあり、もっとアラビアンな感じ?(適当です)がします。

Cをⅰ(いち)の音階音と捉え直すべく移調してみる。C、D♭、E、F、G、A♭、B♭、Cでしょうか。この音列で試しに検索してみると……Phrygian Dominant Scale(フリジアン・ドミナント・スケール)あるいは「ダブル・ハーモニック・メジャー♭7」との検索結果が表示されました。名前を知ってもピンと来ませんが、インド・中東・バルカン半島、ギリシャ、東欧、中央アジア、あるいはフラメンコ音楽などに用例があるとかないとか……?
ひとことで一蹴してしまえば、エキゾチックな感じです。私:東京出身のジャパニーズにとってみれば、“C’est la vie”も“なんくるないさー・まくとぅそーけー”も、いくぶん背景の異なる文化圏の質感を持ったフレーズ。音楽の感触にも、そうした異文化のテクスチャをあしらったと解釈しましょう。
いいことも悪いことも受け入れて、未来を希望的に迎えるべく、良い行いに励んでいこう!というメッセージにはポジティブな態度が伺えますが、この楽曲には破壊的な衝動性が宿ってもいます。
“見え隠れする 自我を取り戻す間に 壊れた心を焼き払え”(くるり『C’est la vie』より、作詞:岸田繁)
現状の打開のために打ち壊し、灰に帰すべき悪習も世にはあるでしょう。しかしながら最後には食欲に舵を切ることで、クリティカルで深刻な空気へ沈没してしまうのをひらっとかわしています。
前半の歌詞 “腹見せて”の部分はエンディング付近の“ハラミ”の伏線にも思えますが、どちらのフレーズを先に発想したのでしょうか。ギターソロ前を締めくくる“焼き払え” のフレーズにもまさかの焼肉エンドの予兆がうかがえます。

ギターソロ明け、“焦げ付く心 なんくるないさー”の部分。♪C’est la vieと歌う部分をヴァースとすれば、ビートが緩むこの部分はブリッジと解釈できるでしょうか。そしてこのボーカルの音形が私には“変奏”、モチーフの輪廻転生した姿に見えるのです。♪なんくるー、なーいさ……「タタタ・ターーー、タータ・タ」……
機能和声の進行や展開の豊かさよりも奇異な音階、バンドの重低な響き、極めて早いテンポとビートの半減による緩急、さまざまな出自の語彙で図るテーマの言い換えで魅せる方針が窺えるとともに、要所の3声ほどの厚みをもたせたボーカルレイヤーも朗々として印象的です。女声のオクターブユニゾンや、ウチナーグチの質感を補強し同調(うなずき)を与えるカチャーシーも楽曲の交雑性を強めます。
……そしていかなる文化圏においても、食欲は普遍なのです。
【メモ】
・松本大樹さんのギターソロ。先述で紹介したエキゾチックなスケールでも括りかねる音程を含ませて指板の上でもマシンガンダンス……を己に強いたものに強烈に報いるかのように応酬。
・メタルアレンジの楽曲ですがシングルバスでのプレイなのか、Ricky Senooさんのドラムプレイには呼吸が感じられます。ブレス記号が不足するくらいに間断のないギターの雨あられを博い器で受けとめ、エキゾチック万博の船を水平に運行。
・エキゾチックなスケールをネット検索するかたわら浮かび上がるのはディック・デイルの『Misirlou』。スケールの雰囲気が似ています。『C’est la vie』ではサーフ・ミュージックの血もうずきますね。沖縄の海を望んでハラミを食べる思い出など、いつか作りたいさー。
暁光のハラミ
・“ah…”と書いたものか、要所に低い低い“うめき”のような声が入っています。お風呂に浸かる瞬間の魂が洗われる瞬間のような、まさしく言語を超越した身体感覚、トリップへの思慕と重なる表現に思えます。そしてそれは、日中にたたかいつくす仕事・労働の時間、青少年が大人になっていくのに経験して行くありとあらゆる“酸いも甘いも”の先・夢のさいはてに到達したときに魂から漏れ出る暁光です。いろいろあるけど“なんくるないさー”、言い換えて“C’est la vie”であるとひとことさらっと総括できる境地に達する因果応報の快感が憑依したうめき声、その貫禄に私は頭が下がる思いがするのと同時に、自分にやれる最大のことを誠実に続けて行けば私もまた“C’est la vie”の境地、例えばハラミ焼肉にありつけるんだぜ!という激励をこの両手に掬い取ることができるのです。
#7 oh my baby
季節の移ろいと輪廻
ボーカルに多用されるファルセットの質感がセンセーショナルです。宣材資料に掲載された岸田さんのコメントによると“ありとあらゆる恋人たちのための曲” “くるりには珍しいタイプの曲想かも知れません”とのこと。くるりの楽曲群にはアプローチの切り口の豊かさ、質感の振れ幅や落差があるのは当然であり、音楽に向かう態度の柔軟さ、そして強いて共通点や一貫した態度を指摘するなら好奇心だと私は思うので、正直どんなタイプの楽曲が来ても「珍しい」とは思わず、「またしてもくるりが“想像を超える日”をぼくらに見せてくれたぜ」と率直に思うばかりです。また、“恋人たちのための曲”という書き手側の主観は私にとって意外でした。何を題材にし、何を着手のモチーフとして扱っていても、くるりの楽曲には「普遍」という最も私が音楽において重視する無意識の大テーマを感じるため、特に「恋」や「恋人」を特別に意識することなく聴けてしまったためです。
しかし言われてみると、私がこの楽曲に感じる最も大きなトピック、エンディング前のハイライトシーンではじめて登場する“桃色の川縁を吹く風に揺れたまま”というラインで扱っている“桃色”という表現には、確かに恋や恋人といったモチーフが比喩的に映り込んでいるのかもしれません。ある時期になると、花たちは誰に指示されるでもけしかけられるでもなく一斉につぼみを開き、おのおのの個性豊かな色を発現します。恋もそんなふうにして、ある瞬間に、露出することをついに我慢できない水準に達するうずうずとした慣性にしたがって、人々を突き動かす季節を演じてみせるのです。それはお芝居でもなんでもなく恋人たちのありのままの自然であり、自然こそが私の霊感が肯定する最たるエンターテイメントです。娯楽や芸術の作り手とは、自然から美しさを抽出したりフレーミング(切り出し)したり、見せる順番や方法を工夫したり最終的な質感に意図を込めたりする位置にいる霊媒師のようなものである、という解釈もまた一理ではないでしょうか。
“oh my baby”という主題のフレーズを歌うところの短い音形の反復によって本曲はつむがれ、進められていきます。この反復される音形のひとつが、たとえば川縁を桃色に染める“春”のことかもしれません。現代人の平均寿命なら八十数回くらい体験して己が命を次の世代に捧げる土に還す時期を迎える季節の観念、その輪廻を思わせるように、“oh my baby”の部分の「ター・タタ」……という音形が入念に繰り返されます。この意匠が“変奏”それそのものにあたるのではないかと私は思うばかりです。春をひとつ、またひとつと経過しながら、あなたの記憶の“桃色の川縁”が先へと長く延伸されていくのです。

和音進行に注目すると、A→AM7→A7→D→Dm→A……という流れを感じます。和音の中の固有音、「ラ」が「ソ#」→「ソ」→「ファ#」→「ファ」……と経過して行く様子は、まさしく一本道としての人生であり私の記憶の川縁です。このつながりのある前後関係が大事で、これらの順番を入れ替えてしまっては整合性が失われてしまいます。和音の進行にストーリーがあり、その道筋(川)を流れる主体がいて、その一人ひとり(それぞれの声部)が私やあなたなのです。去年の春はこんなで、そこから夏・秋・冬とこんなふうに過ごした結果、今年の春はこんなふうになるのだ……という順序と因果、あるいは複数の主体の相対的な関係が織りなす構図が和音進行の意匠に観察できます。去年の春と似ているようだけど、何かが少しずつ思い出の蓄積にしたがって変化し移ろっているのです。いまは目の前の桃色の川縁も、いつのまにか赤や黄色に変わっているかもしれないね。

前後関係のつながりが強い声部(広義にいえば、この一定範囲のまとまりこそがメロディのアイデンティティでもあります)をどこに置くかで空模様のように見え方が変わるのが音楽の面白いところで、ヴァースでは半音ずつ下行していく声部が上声部に包まれていますが、楽曲の進行にしたがって佐藤さんのベースラインがこの半音下行の動きをトレースしたり、トレースをやめてまたAの保続を執行したり、あるいは1拍目あたりでは半音下行をトレースするけれど以降の拍で装飾的に下の音域の和声音を取り出してベースラインによっても分散的に和声の移ろいを補強していたりします。

記憶のなかの景色の輪廻・再生が印象的な楽曲ですが、去年までと似てもいるけれど今年はやっぱり今年だけの春なんだと思わせる変化の演出が音景(アレンジ)に含ませてあるのです。ブロックによって、ⅠはじまりだったパターンがⅥmはじまりになるなどの響きの起伏もあります。注目して聴いてみてください。
変奏実施の中心baby
実声の豊かな響きを活かした声域を中心にしながら、吹き上がる春風が木立を揺らすように頻繁にファルセットを用い、青天井への接触を試みます。楽曲の印象を占めるこのボーカルこそが、定常の音形・ならびに声色(色彩)の“変奏”を何より試みていると思うのです。アルバムの中央付近にアルバムの意匠を象徴する曲を配置する意図が、シングル4か月連続リリースを締めくくる位置付けとして選ばれているところにも暗に察せる気がします。
#8 はたらくだれかのように
労働は希望の未来図
解像度の高い16分割のボーカルとべースのリズムは、まっさらで透き通る少年の眼。かぶと虫やジョロウグモを観察するのとおなじ明瞭さで、大人や周囲の親類を観察します。
はたらくことは、大人だけにふりかかる使命ではありません。そうじ当番? 学校の係や委員会? 宿題や試験だって子供なりに「はたらくこと」かもしれません。そんな課業を嫌悪するように“はたらくことがきらい”と朗々としたボーカルが表現しますが、エンディングに向けて意見が変わるところもまた1曲のなかで“変奏”が感じられる秀でた特長です。あるいは、元々知っていた(無意識のもとに直感していた)のでしょう。はたらくことは、かっこいいのだと。
“とうちゃんも かあちゃんも はたらけはたらけという おとうとも 友だちも 稼ぎないのに はたらいている”
(くるり『はたらくだれかのように』より、作詞:岸田繁)
上記のラインが、大人が雇用契約や個人〜組織の事業のために労働力や知識・技術などを他者に提供し、賃金や対価を得ること以上に「はたらくこと」の意義の広さを描いています。
子供のような人格を憑依してみえますが、あるいはずっと大人(のような年齢)になった時点での人格を重ね合わせたうえで異なる人生のライフステージをひとつの串に同居させ放浪しているような趣があります。
はたらくことのいち側面は苦痛です。他人への奉仕が自分のためになるとか、他人への奉仕をしている自分が気持ちいいとか、そういった事実ももちろんあるでしょうけれど、誰かが自分に仕えてくれて、一歩通行の恵の享受だけで自分が生きて行かれたらどんなに楽なことでしょう。
そしてこの「楽」の脆弱さに気づくのです。「楽」だけでは、何が「楽」なのかが相対的に分からなくなります。人間は相対的な主観を持った生き物です。音楽も突き詰めれば相対的な振幅の模様です。
“だいすきなかぶとむしも だいきらいなジョロウグモも みんななんでかそこにいる おれははたらくことがきらい”
“なんならほんとはやってみたいな おれは努力なんてしたくない おれは逃げてるなんてじぶんで思わない”
(くるり『はたらくだれかのように』より、作詞:岸田繁)
あるいは奉仕であるとか、努力であるとか苦痛を引き受けているとかいった“意識”をよそに、あなたの行動や生き方がだれかのためになっていることがあるでしょう。それも、主観的には遊んでいるとか夢中になっているとかいった自由を謳歌するような意識であったとしても、客観的にはだれかのためになり、だれかのための“はたらき”をしていることになります。そういうものを私はかっこいいと思うし、そういうはたらきに私は感動します。
“とうちゃんも かあちゃんも はたらけはたらけという おれだってしっているよ たまになまけていたことも ぶきようにくるしんでいたことも ぜつぼうのふちにいたことも”
“おれははたらくことがきらい だけどほんとはよくしらない だれもおしえてくれなんかしない おれの先生はおまえなんだ”
(くるり『はたらくだれかのように』より、作詞:岸田繁)
こんな環境や資源のもとに生まれたおれは自然と、こういうことをやって育った(やらざるをえなかった)。そうしていると、あるとき直面したこんな問題が、おれやあんたの自由を妨げる日もあった。そこでおれはこんなことを考えて、こんな思いもしないことに出会いながらもなんとかピンチも切り抜けて、必要な知識や技術や材料をかき集めてたくわえて、こんな勝負に出てみたのさ……
こうしたあなたのPDCA(Plan, Do, Check, Action)の内実を、その経過の妥当性を最も知るのはあなた自身です。“おれの先生はおまえなんだ”というフレーズに、自己肯定・容認のまなざしを覚えます。虫めがねのようなめざとさと透明なまなざしを持つあなたの中の少年が、あなたが思い悩み、苦しみ、絶望する姿をありのままに見ているのです。あなた自身はうまく隠して気丈にふるまっているつもりでも、あるいは怠惰に甘んじているところまで筒抜けです。最後には神様が見ているみたく、あなた自身の良心や好奇心があなた自身を知覚し、評価をくだすことになります。
“世のためひとのために はたらくのかっこいいな いつの日かだれかのように おれのように感動するぜ 感動させてみたい きみを”
(くるり『はたらくだれかのように』より、作詞:岸田繁)
はたらくことは生きること。因果応報の真理を踏まえたシンプルな構図を悟ります。
スマホの文字もろくに見えず、酒に酔っては己の天才ぶりと矮小さの表裏を自覚し、人を責めることでのみで話が成立する皮肉な現実に疑義を投げる……その偏平な板を穿った穴を覗いたら、心のなかの少年の無垢な眼差しとばっちり眼が合った……“変奏”のテーマでそれぞれにつながりながらも、1曲目の『たまにおもうこと』と本曲『はたらくだれかのように』は特に対角線で結ばれた関係を感じます。
はたらかないための無尽蔵なはたらき

はたらかないために、ありとあらゆるはたらきを惜しまない! という絶対的なプライドすらも感じるベースのリズムの描写の手の込みようと来たら、どんなに厳格な両親の心すらも折ってみせるでしょう。朗々として輝かしい歌唱の響きと厚いボーカルハーモニーも「はたらきたくない」意思の強さの表れに思えておかしみがあります。
Eメージャー調ですが、Dのコードへとググっと長2度沈み込み、臨時記号や借用の和声を呼び込んでいるところも布団に潜って頑なに部屋から出てこない意匠に思えます(……もうわかった、私がきみのためにはたらきます……)。ずばり、「はたらかせる」というはたらきかたもあるでしょう。

“おれは努力なんてしたくない 水木しげるせんせいもそう言ってた”
(くるり『はたらくだれかのように』より、作詞:岸田繁)
他人には「努力」のように映るが本人は楽しんで夢中になってやっているだけ……という状態こそ好ましい、と解釈できるでしょうか。身近すぎる親兄弟などとは違い、一定以上距離のある尊敬・愛好対象の思想や発言には敏感になびく童心がうかがえるラインです。
上図の【D→A→Bm→E→F#→E】をご覧ください。水木先生の思想を己の態度を肯定する論旨の補強に引用し、ほらみろおれは間違っちゃいないんだ!と胸を張るあまりF#にまで浮き上がってしまう風なコード進行が巧みです。
1拍ごとにコードチェンジする濃ゆく粘り気のある音楽の流れには、己の生き方や考えの正当性を説くための無限の語彙(ひらたく、“言い訳”……)を有しているようなたくましさを感じます。君なら大丈夫だ、はたらくとかはたらかないとかいった小さな次元を超越したステージでやっていけるだろう……と安心した(あれこれ忠告するのを諦めた)担任の先生になった気分です。

労働に寄せる価値観はつきつめれば重みのある議題ですが、ドラマー・伊藤大地さんの口笛(4分35秒頃)が私のこわばった両肩の緊張を和らげます。
感動し、感動させる与え合いの循環が “世のため ひとのため” になるのでしょう。
ハーモニーやリズムの重み・みっちり感と、はじけるさわやかなサウンドとのバランスが労働:“はたらくこと”を希望の未来図として描きます。
#9 押し花と夢
心の窓に舞い込む花びら
前曲『はたらくだれかのように』のみっちりと詰まった質量感からサウンドの容姿は一転、アルバムに起伏を演出するトリプレットの2拍子系(6/8)がかろやか。可憐で清涼感ある後味です。栞に書き綴られた短詩のようにコンパクト。
『oh my baby』でドラマティックに描いた“桃色の川縁”の思い出の残り香の示唆でしょうか、“少し風が吹いた 桜の花拾う”のラインに、記憶に寄せる愛着とそれにふれる繊細で優しい指先を想起します。
“押し花のような心 開いたままの心” のエンディングのラインが残す余韻が儚く美しいです。まぶたがついている眼と違って、耳は閉じることができません。あなたの関心や需要をよそに、多くの物事が流れ込んできます。
心はまるで引き出しのついた机です。ライフステージにあわせて机上で多様なものを組み上げては、成果物もいつのまにか背中を向けてどこかへと遠ざかってしまいます。熱心に労力を割いた工作物の一部は引き出しにしまわれ、普段は忘れているのですが、ライフステージが変わってふと引き出しの取っ手をつかみ、中をながめてみる……あの瞬間の匂いや温度、色や音が蘇ります。
フィルムに焼き付いた瞬間との距離が開くほどに、夢中でがむしゃらだった日々の滑稽さもすっぽりとフレームのなかに収まり、受け入れられる日が来ます。それが、大人になることかもしれません。現在地の移ろいによって思い出がさまざまに色づき、花を開くファンタジー(あるいはすでに押し花となってあなたの日記帳にとじられているでしょうか)。“押し花のような心 開いたままの心”のフレーズが、私にとって音楽が心の窓であるのを代弁します。
“誰も咎めずに 遠くの方を見てる 靡けど朽ぬその想いだけ 消えないでおくれよ”
(『押し花と夢』より、作詞:岸田繁)
1曲目『たまにおもうこと』が投げかける現代への問いに、背中で静かな答えを語るあなたが尊い。アルバム内で楽曲間の対比が随所に見出せます。感化されやすく、ぼんやりと考え事にふけり、己の関心事に盲目的で、世間の価値観とズレズレで……『押し花と夢』は、万華鏡のように私の内面を鏡写しにし、さらっとした風で花びらを運んでは頬をなでてみせます。

小波(それは)→中波(あなたのゆめ)→大波(かなうまでとほうにくれる)……と、ひとくだり8小節程度のまとまりのなかで一息の幅、リズムや抑揚が実に豊かで言葉のまとまりに敏感な情緒あふれるソングライティングに唸ります。
“あなた「の」ゆめ”のところでふわっと力を抜いたボーカルの声色が儚げです。エレキギターのフィルインの音色がエクストラ・クリスピー。
「かなうーまでーとほーうにー」(タタ タータ・タータ・タータ・ター……)あたりの音形の遺伝子が気になります。『Regulus』の「すべーてはー、まよーいのー」(タ タータ・ター、タ タータ・ター)の音形と親類・兄弟感を覚えるのですが……他人の空似でしょうか。

和声の起伏がヴァースと比較して明らかに密になり、「むねのくるしみ」と歌うところで副次調の響きを借りてメロディにも臨時記号があらわれ、歌詞の表情と音の響きの相乗で情緒の機微を表現します。「ことばにすれば」のフレーズを胸をなでおろし自問するかのように落ち着いて反復し、「あなたのために」の部分で楽曲中一番のボーカルのロングトーンによってエモーションが露わになります。
リードボーカルの単一の描線のアウトライン・声の質感や情緒を尊重しており、歌の主旋律に対してハーモニーやダブリングの付加を控えているところが内省的。残響が漂う空間が相対的に強調され、儚く切ない情緒を喚起します。

瞼の中の心象に深く入っていくあなたに天使の梯子をかけるみたく、バックグラウンドのボーカルがハーモニーをなして労います。言葉になる前の胸の苦しみも包含して「ラララ」と風が吹いてきて……どこからか花びらを連れてくるのでしょう。エンディングで揺れる風鈴の音に春の気配。
#10 セコイア
一年中が緑の季節
絢爛なピアノ、ヴァイオロンチェロ、ダブル・ベースが魅せます。ピアノ、チェロは持ち前の音域の広さを発揮し、楽曲の進行・展開に沿って、多彩なアプローチで景色を変え、歌詞の魅せる景観を表現してみせます。
ダブル・ベースはピチカート奏法中心で、ダイナミクスの幅で魅せます。チェロはアルコもピチカートも両方用います。
少数精鋭な編成ですが必要十分、多彩な奏法や語彙、抑揚に恵まれた豊かな生楽器のサウンドをほわーっとしたプログラミングトラックの空気感が包みます。
思い出の来る道を思わせる悠久な音色の弦楽器とピアノが載せるのは情緒の豊かなボーカル。歌唱の質感の機微は本アルバム『儚くも美しき12の変奏』の最たるトピックのひとつで間違いありません。展開に沿って観察していきましょう。
〜0分28秒 ヴァースの提示

生和で甘美な曲想が冒頭から私の心を掴みます。今度の合唱コンクールの自由曲はぜひこれでいきましょう ……。“こどものころは”→“できたはずだろう”と、最初のモチーフを3度ぶん下行させた音程ですかさず反復します。後半の4小節“おとなになった あなたはいうけれど”のところで音程の上下や跳躍の幅、ひと息のアーティキュレーションが拡大し、前半の4小節と対比をなします。
最初の2小節“こどものころは”はメージャーコードで平穏な調和した響きをもつのに対して、続く“できたはずだろう”のところでマイナーコードと減音程系の緊張と陰影の強い和声を当てており、ここで私の感情がぐらつきます。はじまって3小節目で涙腺が崩壊。
0分28秒〜0分54秒 ヴァースの反復
ヴァースの反復に入るとき、チェロのアルコのようなまっすぐな音色がフワンと漂います。ピアノが3分割のリズムを流暢に埋めていきます。大人になって、いろんなことばや表現やスキルを覚えた“あなた”の絢爛な足捌きを想像します。ふわーっと背景のほうにそびえるのは、オルガンの音色なのでしょうか。シンセサイザーのようなほわっとした音色です。オルガンはオルガンでも、パイプオルガンのような教会の高い天井のもとに鳴らしているような神々しい残響感があります。
0分54秒〜1分23秒 ブリッジ(Bメロ)の提示
ブリッジ(Bメロ)の提示です。ピアノはダイナミクスをメゾピアノくらいのニュアンスにひそめ、シンセ系のほわっとした音色の質量感が相対的に強く感じられます。プラネタリウムなどの演目で使われるBGMにこういった音色がよく合いそうですね。『Regulus』ほか、各曲が提示する星や空や宇宙とのつながりを思わせます。
ボーカルの情緒と和声展開の機微を尊重するように、抑制の効いた柔和で穏やかなダイナミクスに徹したピアノがヴァースに回帰する直前で深く低い音域で主音(レ♭)を鳴らします。
・名詞のピックアップ
芒(すすき)。漢字でつづる機会のなかった私、漢字にひとつ詳しくなりました。ススキとくれば秋の情景でしょうか。
ツマガリ。ケーキハウスツマガリが製造販売する、「ツマガリクッキー」で親しまれる焼き菓子のことでしょうか。甲陽園(阪神間の住宅地)に本店があるもよう。贈答品として、贈る側にも贈られる側にも好まれるようです。行ってみたい・食べてみたい場所・物の未来図の具体が増えました。

ひと息のアーティキュレーションを拡大していったAメロ(ヴァース)に対して、Bメロ(ブリッジ?)は楽節をくくる印象的な名詞“ツマガリ”に向かってだんだんとひと息で歌うフレーズを軽くしていく印象です。歌唱に豊かな情緒を感じる所以でしょう。休符やアーティキュレーションの切れ目とブレスはイコールではなく、たとえば“ツマガリ”と歌うところでは発音にわずかな切れ目がありますが、名詞の途中で息を吸っている(ブレスをしている)わけではありません。どうでしょう、このアルバムの岸田さんのボーカルに込められた情緒の解像度の神秘に、少し迫ることができた気がしませんか?
上図中の後半(3段目)で、Ⅱm→Ⅴ→Ⅰのモーションによって元の調(D♭)の短3度上の調(F♭)に移ろい、記憶の中の海の情景に想いを馳せる趣を和声的に表現します。続くこの楽節の13小節目のところ(図中4段目)でⅡm(♭5)→Ⅴのモーションを用いて元のD♭調に帰結するのにともない、歌詞の描く情景も“ツマガリ”を齧っている現在地に回帰します。
1分23秒〜1分51秒 ヴァースの再提示
直前の楽節の結び付近でずんと低い主音を出したかと思えば、ピチピチと記憶のなかの波飛沫がほとばしるように音域を駆け上って行き、ピアノが高い音域でヴァースの再提示を支えます。
ベースのずんと深いピチカートが強拍に置かれ、チェロのアルコが1拍遅れで和声の重音で呼応します。ピアノ、ベース、チェロ、ボーカルと、この楽曲の主要なパートが安定して音を重ね、ヴァースが躍動感を得てまったく異なる景色を見せてくれるようです。
“影は短く 時は流れて 君のことすきになる人が現れて 稲穂の次は 小麦の季節 太陽は君を照らしているよ”(『セコイア』より、作詞:岸田繁)
農作物の名詞を連ね、季節と人の営みの移ろいを描きます。他者(あるいは自分)に寄せる気持ちも、思い出の解釈もひと続きの経過の果てに、きっと実ります。直前の楽節で印象づけたツマガリクッキーとて例外なく、小麦の恩恵をあずかって賞味者の口福に還元されるのです。
1分51秒〜2分18秒 間奏
ヴァースのパターンを背景に、チェロがみせます。ピアノがボーカルメロディのトレースを担い、チェロが1拍3分割のアルコで季節と人の営みの移ろいの長期間に及ぶ圧倒的な物量をタイムラプスで演出するかのように絢爛な対旋律で魅せます。
本楽節に入るところで、ヒュオーと風のささやき、風見鶏が回って軋むような(?)効果的な音がフィット。風が運び入れてくれるものもあれば、運び去ってしまうものもある……そんな切なさが私の胸を撫でて行きます。
2分18秒〜2分45秒 ブリッジ(Bメロ)の再現
主要なキャストがみんないる状態でいよいよブリッジ(Bメロ)が再現されます。
「いーーろーーあーせたーー」と、ボーカルの息に込められる物量感も、オケに支えられてより情感たっぷりに。

“佇む海鳥”の名詞は『Regulus』あるいは『潮風のアリア』などとの世界観の共有、連作と主張することなき作品間の有機的なつながりを思わせます。
“時間が止まる”でピシャンと余韻を残してピアノが短く切れます。間奏でタイムラプスを私に想起させたチェロですが、今度は一時停止(スローモーション)のようにまっすぐな描線、「ファ」の実音で居残り、刹那の宙吊り感を演出します。
2分45秒〜3分12秒 Aパート(ヴァース)の再現(後編)
“羽を休めた海鳥たちは”の情景を汲み、チェロ・バスは一旦休止。高い音域のピアノだけが空間的余白を相対的に強め、音の密度を緩めて海鳥たちのつかのまの休息を表現します。普段は海鳥の格好の餌食になる小魚たちも、踊るなら今だといわんばかりに海面を謳歌。チェロ・バスの息を合わせたピチカートで小魚の跳躍、しぶきを表現します。
“夕暮れのサイレン 色付くセコイア 雨に降られても 君の側にいる”(『セコイア』より、作詞:岸田繁)
陽光の高度がおちてくるのを汲み取るかのように、ピアノの音域もおりてきて堂々と響きをささえ、ベースのダイナミクスを筆頭にオケの質感が曲中で最も豊かになり、タイトルコールにあたる名詞“セコイア”が登場します。
セコイアは検索するに、常緑樹である「セコイア」、落葉樹である「メタセコイア」と厳密にはそれぞれ性質の異なる種があるようです。「色付く」との歌詞中の表現は、紅葉のはっきりしたメタセコイアの初冬の時候を描いているのかもしれません。
ちなみにセコイア、メタセコイアいずれも裸子植物マツ綱のヒノキ科だそうです。たとえばソメイヨシノ(桜)のように、開花の様子やその季節が、人の思いの結実の象徴であるかのように表現に用いられることは稀に思えます。
そんなふうに、何があっても(“雨に降られても”)いつも平常心で、生きるための一定の労をいとわずに、(派手に注目されることがなくとも)ただただあなたと共にあり続ける穏やかながらもたくましい恒久な姿は、本曲『セコイア』や本アルバムの収録曲の数々が描いてきたモチーフ:思い出(とともにあるあなた自身)のシンボルのように思えてグっと来ます。
3分12秒〜 ピアノ独奏のエンディング
“君の側で微笑んでいるよ”。と追伸するフレーズが描くのはまさしくタイトルの“セコイア”であり、まるでセコイアの穏やかで頼もしく平常な姿に重なるあなた自身であり、あなたを物理的にあるいは精神的に近くで支え続けるかけがえのない人です。
まるで水切り棚で乾き上がった食器を棚に戻すくらいに造作もない日常の輪廻の一部として、ピアノのソロが静かにアルバムを閉じます。今この瞬間もやがて、少し先の未来でアルバムに閉じられる思い出になります。騒ぎ立てることはない、あなたにとって一年中が「緑の季節」なのだよと言っているかのように、潔く、儚いエンディングです。セコイアが好きになりました。色付いたら、いつもよりちょっとラッキーかな♪……という平常心が尊いです。

最後の3小節間で、1拍3分割で弾んできたグルーヴが平らな偶数分割のフィールに変わります。思い出の回顧から意識が現実に戻る、あるいは反対に現実から思い出の回顧に潜っていくようなグラデーションを感じます。
高めの音域で軽い質量感を保ってヴァースの主たるモチーフを再現しつつ、少し細かい節回しをつけて“変奏”を試みた印象的なエンディングです。
#11 3323
思い出を胸に街へ
さながら、くるり流の“風街”(はっぴいえんどを参考元に……)感。思い出の中にある、どこかに実在している(ような、空想が交じったような)あなただけの都市の景観を描きます。
“走る阪急写真館”のBGMに用いられる形で、変則的な形で(通常のアーティスト主導のシングルリリースなどとは異なるという意味で)アルバムに先んじて世に放たれました。くるりが地域社会とつながったアーティスト……地に足のついた存在であると私が確信する、そのポジショニングを示す一作です。タイアップありきのもとに制作した……という認識が正しければそのためなのでしょうか、エンディングの尺に自由な編集が効くように図った意匠に思えます(実際、“走る阪急写真館”動画サイズは楽曲の実寸サイズに対してエンディングが短い模様)。
楽曲の主要なトラックの演奏をほぼくるりのメンバーお2人のみ(+エンジニアさん(Per.)・マネージャーさん(Clap))で臨んでおり、お2人もまた音楽の提供を通して阪急へ寄せるパーソナルな敬愛と思い出を表明するかのように、“思い出は”……の短いモチーフの反復を中心に、自分たちの実寸大の演奏で構築するサウンドによって、思い出のなかの都市の景観を描いていきます。
シンプルなモチーフを丁寧に扱ったメロディを中心に、平易なビートが乗客に寄り添う阪急の線路のようになだらかに安泰に続き、頻用した転回形の和音で景観の変化を表現します。また後半でポンと次の電車と待ち合わせるみたく長2度上の調へのジャンプアップも用意されています。
思い出に浸り(たっぷりめの後奏を経て)車窓からさす陽光につつまれていたら、いつの間にか出発した街からひとつもふたつも隣のAway(旅先、“夢のさいはて”……)。景観の転換を重ね合わせに、転調後のEメージャーの和音の解釈がいつのまにかすり替わり(新しい生活秩序として大衆に受容されるように)、最後の最後の和音は後半(転調後)のEメージャーから見て下属調のAメージャーに着地しているのです。さぁ、この街からどこへ行こう……希望に満ちたフレッシュな気分で、阪急車両の降車ドアが開きます。
オープニング

すーっと次の駅まで流れてはパっと止まる……列車の運行みたいな動きのアコギのリフレイン。コードとリズム、メロディの要素がミニマムに詰まっており、このリフレインひとつに楽曲のキャラクターが象徴されます。生楽器の豊かな響きを活かしつつ、パーカッシブで軽やかなプレイタッチです。やがてオルガンのドローンの橋が架けられ、長い保続のなかでドローバーを引っ張ったように音色を揺らめかせます。
ヴァース(0分20秒〜)

旋律に主和音の構成音が分散的に含まれており、安心でプレーンな印象の主たるモチーフが阪急の親しみ感と信頼を表現するよう。“たじろぐ” や “急いで” といったフレーズ末で音価を縮めて、歌詞の単語が持つメリハリのニュアンスをリズム面で解釈します。フレーズとフレーズの間にあそび(余白)があり、ボーカルにほどこされた短いディレイが心地よく漂います。
ブリッジ(0分37秒〜)

“すぐそばで” のところで音価をぐっと広げ、ヴァースのパターンと対比をなします。「タタ・ターーータタ……」こういったリズム形を見ようものなら変奏の共通の遺伝子に見えてしまう私。
ド、ドド……とキックの音色が深く豊かで、列車の駆動や枕木をバタチコと跨ぎ行くモーションを想起させます。またベースの豊かなサウンドが非常に印象的で、Ampegの名機B-15のシミュレーターとプレシジョンベースの組み合わせで録っているそうです(参照元:ベース・マガジン2026年2月号45頁)。アナログチックでブーミーな深さがある音色ですが、こうした音色が必ずしもアンプやキャビやマイクの実機を通って得られるとは限らない実際に己の認識を改めさせられます(リアンプなどの後処理の有無は別として)。本アルバムはこうしたレコーディングの具体によって得られる一つひとつのサウンドの機微の積み重ねにより、美しさの極致に到達していると思えます(関連記事:デジマートマガジン>佐藤征史(くるり)〜唯一無二の音色がある、だからAmpeg)。
“電車の窓から” と歌うところからスネアのオープンショットのパターン。シェーカー、タンバリンなど種々のパーカッションがシーン別の表情づけに多大に貢献します。
ちいさな間が大事(0分57秒〜)
D→D/C→G/B→Gと、オン・コードの響き、ベースの転回形がなす浮遊感。アコギのフレーズをなぞるようなベースフレーズ(下図中3小節目)が電車での外出を喜ぶように歌います。

シーンによる音数のたし算引き算が緻密で、ベースの動きも映えます。ヴァースとブリッジのシンプルな構造において、ちいさな変化の兆候が音楽的な清涼感、空気の入れ替えを図ります。うわもの楽器にみるメジャーセブンスやナインスの響きの付加や演奏の指の趣も、音数の密度にあそびがあることで生きてきます。
ヴァース・ブリッジの再提示(1分7秒〜)
こんこんと踏切警報機のようなピアノのダウンストロークがふりそそぎます。歌詞が醸す色彩や名詞の質感を映すようにバックグラウンドボーカルがハーモニーし字ハモ以上の独自な動きをちらつかせ、プレーンなピアノの音色がぽろろんと装飾的なオブリ。
転調 D to E(1分47秒〜)
元の調のDでカデンツを完結させてから、ポンと長2度上の調に転調します(電車ソングだけに停車と発進が確実で迅速)。アコーディオンがどこか遠い文化の空気を運んできます。いつのまにかクラヴィネット系の鍵盤の音色が寄り添い、グルーヴと響きの筋力を増強。
エンディングに向かうヴァースの反復は、シンプルなモチーフの繰り返しを基調にした風通しのよい構造を利用し、和音のパターンを縦横無尽に魔法を繰り出すみたいに変奏します。パターンの頭をⅥm(C#m)はじまりにしたり、カデンツのなかにⅣ#のハーフディミニッシュ(A#m7 ♭5)をとり入れたり、フレーズ頭にナチュラルDの根音を置くパターンにしたりで調性すらも仮初めの儚いものにしてしまう(果たして今はどこの駅なのか)。
“思い出は 思い通りの未来を通り過ぎ 追い越して あとで待ち合わせしよう この次の電車なら 間に合うから ひとりで この街も あの街も どこへでも行く ふたりで”(『3323』より、作詞:岸田繁)
さまざま視点からの“思い出”の解釈の試行が本アルバムのトピックでしょう。そんななか、思い出を過去ではなく先(未来)にあるものと解釈する趣向が感じられる創意あふれるラインです。未対面の思い出の卵を胸に、その顔を見せておくれよと訪ねて電車に乗って行くのです。卵が孵ったら、いつのまにかふたりになっているでしょう。
エンディング(2分44秒〜)
乗り合わせた知らない人たちの会話、列車の駆動音・環境音が溶け合って渾然一体となって知覚の表層に浮かんだり沈み込んだりするみたいに、アコースティックギターのソロプレイが流麗にオケになじみます。車内広告の一つひとつに目をやるみたいに、楽器パートそれぞれの音色のキャラクターが私の目を引きます(キックの音に独特のピークがあるなぁ……など)。レー・ド#ー、レー・ド#ー、レー・ド#ー、レー・ミーと繰り返すベース。コード進行で言ったらD→C#mを繰り返す感じなのか、ずっとカデンツの帰結感が希薄です。
数えてみたら26小節のエンディング、最後の2小節でD→C#m→E→A(私の聴感)と、Eメージャー調だったと思っていたのにAメージャー調に解決してしまいます。おわっ、もう着いたの?! と油断していたらターミナル駅な気分です。
“思い出はたじろぐ”
“思い出はたじろぐ” は本楽曲の核になるフレーズ。たじろぐは、平易にいうとひるむ・しりごみするといったニュアンスがある動詞です。私の解釈の極め付けをいえば、すべては今この瞬間の連続、前後関係ある順序だったつながりが「時間」の観念であり、過去・現在・未来です。
ある駅を出発してしまえば、たった今まで止まっていたホームは後方に流れていきます。それが「思い出」であり、今この瞬間のあなたも私も、止まることのない便に乗って進んでいます。解釈をする側とされる側の主従関係が、「思い出はたじろぐ」という表現に暗に察知できる気がするのです。
3323とは
ちなみに3323は阪急電鉄に採用されている車両のことのようです(参考:レイルラボ>阪急電鉄 3323)。1969年10月に製造とのこと、思い出がいっぱい詰まっているわけです。京都の街の景観にもなじむであろう、お赤飯のお豆さんみたいな深いあずき色の塗装が印象的。
阪急電鉄さんが敷いた路線に沿って人の暮らし・文化が芽吹くように、その営みが豊かになるように枝葉をこさえ花をさかせて……年単位の努力の輪廻と進歩を重ねてきたことと思います。それに表敬するように、くるりも音楽で2本1対のレールを進むように、沿道をさまざまに芽吹かせるみたいにシンプルな主題でミニマムに産声をあげたアイデンティティの「変奏」を試みます。
1曲目『たまにおもうこと』でくるりメンバー2人を中心にしたコンパクトなプロダクションで始まり、様々なゲストや出会いを迎えた盛大な変奏の数々を経過しながらも、ラストの手前の『3323』でまたメンバー2人を中心にした制作スタイルをとった曲を配置したところにターミナルとターミナルをつなぐ鉄道、自分たちの乗り込む箱「くるり」のあゆみを主題の『3323』に重ねるかのようです。
#12 ワンダリング
くるり的変奏パレード
Dメージャーで始まって、途中でEメージャーに転調したが不思議な因果に導かれ最後はAメージャーに着駅した前曲『3323』。その結びのAメージャーの和音のバトンを受け取り、同じAメージャーの和音をきっかけに『ワンダリング』が、放浪がはじまります! こちら『ワンダリング』はEメージャー調はじまりなので、ここで受け取るAの和音はⅣ(サブドミナント)として機能しますので、同じAの和音を前の曲から受け取る音楽的なスムースな喉ごしと、機能を読み替える清涼感が瞬時に私のまぶたが軽くなる魔法をかけます。
“これはフィクションなんかじゃない”
上記は本曲の歌詞の最後のライン。このセンセーショナルで天啓の雷に打たせるフレーズでアルバムの旅の結びを……いえ、次の旅のはじまりを宣言するのです。2025年のシングル連続リリースが宣言され『ワンダリング』が先行リリースされてのちの秋〜冬の時候、アルバムの全収録曲(および内容の概要)発表の報せを知った瞬間に私は痺れました。4か月連続リリースの第一弾としていち早くリリースされた、“これはフィクションなんかじゃない”の歌詞で締め括られる『ワンダリング』が12曲中12曲目に収録されると判明したからです。
私の心に9回裏逆転(あるいは順転)満塁ホームランを叩き込むこのフレーズだからこそ、表敬の意図を込めて、あえてひねくれて解釈してみましょう……すべてはフィクションである……と!
つまり、あなたの旅は、あなたの思う(想像する)通りに自由になるのです。フィクションでもなけりゃぁ、とてもあり得ないような奇跡も起こるのです。起こすのです、あなたの日々のたゆまぬ努力が、酔っ払ってくだを巻き何気なく社会の空気を嘆いた晩が、理性と知識で考え抜いて指した王手に至る前の前の前の前の前の一手が、直感とインスピレーションと感情の導きが、救いの手を差し伸べた女神との出会いが、幼い頃の思い出が、労働のつらみと充足が、世界旅行も、憧れのヒーローとの念願の対面も、フィクションでもなけりゃぁとても信じがたいという“夢のさいはて”の景色までも、12……あるいはそれ以上に日々更新を続ける変奏のいち形態たる「現実」たらしめるのです。作り話みたいな空想・妄想までもが、フィクションなんかじゃなくなる……神秘のバフ(プラス効果のまじない)がかかったあなたの旅路に寄せて、喜び勇む福音こそが本曲『ワンダリング』。アルバム『儚くも美しき12の変奏』に“変奏”の名のコード(共通の示し合わせ)の串を通し、読点を置く極めつけの1曲なのです。想像も夢もフィクションじゃなくなる未来に向けてさすらいの旅に出よう!と私を駆り立てます。
直前の楽曲『3323』ラストのAコードを受け取ってAコードで始まるが調性自体はEメージャーの『ワンダリング』ですが、紆余曲折を経て、やっぱり曲の途中で転調してしまいます。転調先はAメージャー調。縁もゆかりもない左遷先などではなく、これはれっきとした近親調です。地続きなのです、くるりの旅は、われわれの旅は……。
旅路のときめきをくまなくからげ取るフィドルのようにステップ軽やかな山田周さんのヴァイオリンを筆頭に、数多の世界の音楽スタイルの質感をプリントしたり咀嚼したり抽出したりあるいはインプットしておきながら一度忘れたりするかのように同居・包含させる態度が楽曲のそこここに憑依します。
セクションによって、ビートの質感が変わるところも本曲『ワンダリング』における変奏ポインツでしょう。“夢のさいはて”ライブツアーや“京都音楽博覧会2025”のステージで私も目の当たりにした、トリガーをつかってサンプリングトーンを鳴らすシステムをドラムセットに組み込んでライブパフォーマンスするヴァースのところのリズムセクションがその変奏ぶりを語る好ポイントのひとつです。そのヴァースでのボーカルスタイルはラップ調と来た……どれだけ“変奏”するねや……改めて言いましょう、“すごいぞ、くるり!”
上記した、ドラムが一挙に担ったライブでのリズムセクションはレコーディングにおいてはプログラミングやオーバーダブを用い、局面により生ドラムやパーカッションと棲み分けつつフィットさせたのでしょう。本曲の直近の(この記事の執筆時:2026年2月)ライブパフォーマンスは石若駿さんが担当しましたが、録音の生ドラム・パーカッションはGRACEさんによる演奏です。
コーラス Hobo! Hobo!
“Hobo! Hobo! Wandering” これは純然たる「コーラス」と呼ぶにふさわしいコーラスでしょう。「サビ」なんて呼んでくれるな、と!(もちろんご本人たちは何も咎めないと思います)。歌詞までアルファベットのみで完全に綴れてしまうコーラスは、案外くるり史上稀な部類(※)かもしれません。それだけシンプルで言語の壁を越えた普遍的な意匠の獲得に成功した証です。これだけでも楽曲のアイデンティティは相当量保証されたといえるほど。
※くるり『BABY I LOVE YOU』(2005)もコーラスの歌詞がすべて英語で綴れるうえ、スリーコードで該当の部分が演奏できるくるりレパートリーとして思い浮かびます。主題の“Baby I love you”のフレーズが2小節程度のまとまりを成し、アタマ1拍あける弱起で歌われるためか可憐で繊細な印象が『ワンダリング』とは対照的です。
コードでみるにA→E(Hobo!)、B→E(Hobo!)、B→E(Wandering)でしょうか。調性における度数でみると、Ⅳ→Ⅰ、Ⅴ→Ⅰ、Ⅴ→Ⅰ……いわゆるスリーコード(Ⅰ、Ⅳ、Ⅴ)のみでできています。圧倒的なシンプルさと普遍性がうかがえます。
反復する時にすこしコードを変奏していて、ⅥmやⅣmを用いていてスリーコードをいい具合にハズしているようにみえます。変奏ポインツ!
ライブツアー“夢のさいはて”で、観客とのシンガロング(みんなで一緒に歌うこと)をくるり側から提案・実現したのが本曲のこのコーラスの部分です。その提案にきわめてふさわしいシンプルな力強さを、強起で一息が短い音形が物語ります。なんなら某マンチェスター出身バンドのあのライブアンセムより遥かにずっと平易で参加のハードルが低いです。

2コーラスと間奏を経たのちはいわゆるオチサビ(2分19秒〜)。街路のスピーカーからとどろく夕焼けチャイムにも似たオルガン系の音色?に支えられ3小節、バンドが復帰して3小節するとAメージャーに転調。元調のEメージャーからみて下属調にあたるので響きの親和性が高いですが、“Hobo!” のパターンがⅣ→Ⅰなので、直前のセクションでEのコードに解決したのち、全音下がってAメージャーにとってのⅣすなわちDのコードにつながる瞬間(2分34秒)、世界が一変する清涼感、トンネルを抜けたような光量が兆します。転換点を強調するヴィブラスラップ(カーッ!という音色の打楽器)が目印(耳印)です。
次第にドラムのキックがバクバクする心臓の強烈な鼓動のように1小節8つ打ちになり、チキチキとタンバリンが埋もれぬ理性の信号を送りながら、転調後のコーラスは繰り返しの中で圧巻の高揚の極みへと接近し、日輪とピタリと重なるように移勢のリズムとともに女性終止。
ヴァース Definitely, Maybe
“Definitely… いつの日か働くあなたの横顔に差し込む木漏れ日になって あなたを連れ去って どこまでも青く光る海の側で水平線を透かして観たその美しい日々を忘れたりなど 絶対 しないように”(『ワンダリング』より、作詞:岸田繁)
働くあなたは、現実の姿。連れ去られるあなたは、理想の映し身であると私には思えるのです。毎日しこしこ、同じ職場に通ったり今日は今日とて違う現場に行ったりして、とにかく「働く」という厳然たるルーティンがあなたにのしかかります。そんなあなたの横顔に、心の旅の自由をあげたい。Away:すなわち未来のHomeへ通ずる扉を、近くにそっと置いておき、その鍵を開けておいてやりたい……たぶん、いえ、絶対そうだといわんばかりに、楽節の頭にぽつんと置かれた“Definitely”の英単語が差し伸べる手は、楽節の末尾で“絶対 しないように”と日本語側から差し伸べられた手と結ばれるのです。働くあなたの現実と、ここではないどこかにあるかもしれない美しい日々が結びつく趣向を感じます。
アルバム作品として薫ってくるのが、『はたらくだれかのように』との関連です。働くことはいやだ。でも、だれかのために働くことは、やっぱりすごく素晴らしいことのように思う。働くだれかの姿をみて、おれもそれになりたい、それをやりたいと感動する。させてみたいと思う。自分や身近な誰かと、「働くだれか」の姿が重なる……『はたらくだれかのように』で提示した文脈、人生と働くことの密接な関係、その重みと凄みが本曲『ワンダリング』に到達した時に相乗(かけ合わせ)で効いてくるのです。
モチーフがシンプルでコントラストが強いコーラスに対して、ヴァースは16分音符を敷き詰めるリズムと言葉の細密な解像度で色彩感覚の機微を尊重し、対比をなします。

非常に長い一息で敷き詰める16分音符を中心に、細かいアーティキュレーションも織り交ぜて息苦しくなりすぎないようにリズムの緩急を揺らめかせるところが魅惑です。ラップの生命はずばり緩急でしょう。
ラップにおける音程は軽視されがちな要素かもしれませんが、入念に聴いてみると岸田さんのラップは非常に丁寧に和声音の梯子に誠実で、音程の階段におおむねちゃんと乗っていることが分かります。瞬間的には12半音階の音程の間を経過的に移ろうニュアンスをつけているところもあります(人間の歌唱としては当然の要素かもしれませんが)。
“Maybe… それくらいの傷ならば舐めて治す 倒す 中ボス 僕のためならと自分を責めたりしないで セメタリー どこまでも哀しく揺れる ちっぽけな心の隙間のランデブー なんて言う?この気持ち ただ景色が明るくなってゆく”『ワンダリング』より、作詞:岸田繁)
2ヴァース目では“Maybe”を頭に配置。働くあなたを包み込む、絶対的な心の自由の光でありたい!とするのが1ヴァース目だとすれば、2ヴァース目は楽節あたまの“Maybe”が象徴するように心の揺らぎを描きます。“セメタリー(霊園)”の単語を全人類共通にして絶対不変の旅の最終到達点として挙げつつも押韻の種としてかろみを持って扱い、“ただ景色が明るくなってゆく”と、“Maybe”の単語が象徴する無段階なグラデーションの示唆で2ヴァース目を括ります。
このフックワード“セメタリー”を導いた可能性がある直前の“僕のためならと自分を責めたり”は『たまにおもうこと』が描く社会の空気との横断的な関連を匂わせます。
そろそろロックリスナーの「早くあの話をせよ」との荒い鼻息が聞こえてきそうですが、1・2ヴァースの冒頭を冠した英単語“Definitely”と“Maybe”をつなげると、90年代から2020年代を貫き世界を震わせ続ける某ギャラガー兄弟率いるあのマンチェスター出身バンド:oasis(”オゥウェイセス”…m(_ _)m)のファースト・アルバムのタイトル『Definitely Maybe』になります。くるりに本曲『ワンダリング』でのライブにおけるコール・アンド・レスポンスを思い立たせた動機はほかでもないoasisの名曲『Don’t Look Back In Anger』のライブパフォーマンスでしょう。2025年10月のoasis来日公演でもシンガロングが起き、岸田さんもその公演を観たとくるりのライブMCや自身の出演するラジオで語ります。
6小節のブリッジ
“放浪するような 朦朧とするような 素敵な日々を待っている”(『ワンダリング』より、作詞:岸田繁)
サビ(コーラス)の歌詞であり主題でもある“Wandering”の意味するところ、“放浪”のタイトルコールの予備がこのブリッジにおいてもなされます。放浪と朦朧で押韻をキメて、朦朧とするくらいにあくせく働く日々の目まぐるしさを暗喩し、サウンド面ではビートがいわゆる「バイテン(倍のテンポ)」風のアレンジになっているところにご注耳ください。1小節の間に強めのキックとスネアが各2回程度鳴らされるのが4/4拍子のベーシックなリズムパターンですが、このブリッジでは4回くらいの頻度で(各拍のウラに)「ザッ」というプログラミングトーンのタイトなスネアが聞こえると思います。
ちなみに、直前のヴァースの部分ではリズムが「半テン(半分のテンポ)」系の様相になっていて、打ち込みのスネアがはっきりと鳴るペースがおおむね1小節に1回(ここでは4拍目のオモテ)の設計になっています。つまりヴァースからブリッジに突入すると、時間の経過が一気に4倍くらいにクロックアップしたみたいな感覚が擬似的に味わえる音楽的演出がさらっと背景に込められているのです。生演奏のトラックとプログラミングトーンのメリハリ・シナジーをこれほどまでに活かせるバンド……ということで考えても、くるりは卓越しています。


このブリッジ、6小節サイズになっているところがなんとも「放浪 “Wandering”」の観念を表現していて妙味です。きりがよく、くっきりした単位でライフステージが変わるなんてことは人生においてはむしろ稀で、ホーボー(渡り鳥労働者)たちの暮らしはいつも唐突に次のフェイズに突入していく……そんな、予測の小さな超越の積み重ねで旅が豊かに充実していく真理を表現するかのような小節数のまとまりのコントロールも変奏ポインツ。
ここで思い出してください、コーラスのHobo! Hobo! Wanderingは3小節のまとまりでした。3や6小節のまとまりを絶対的に賛美する意味はありませんが、その相対的な使い分けによる演出の妙に感嘆します。音楽的編集力の高みよ。
間奏のホーボー転調
1分56秒~2分19秒

“Hobo!”のときのA→Eの4度下行するコードのパターンを長2度ずつ高揚させながら3セット(A→E、B→F♯、C♯→G♯)。折り返しで2/4拍子の変則小節を1回はさんだらまた3セット、そして4セット目(D#)にさしかかりかけて……さらに半音手を伸ばし、元のEメージャー調……断崖絶壁の上のHomeに這い上がります。『金星』が描く渡り鳥の生活の輪廻のような転調が私の中で重なります。転々とするホーボー(渡り鳥労働者)が乗り継ぐ列車の座席を表現するかの如く、せわしなく和声が動く意匠です。
山田周さんの繰り出す間奏のヴァイオリンのリードは、8分音符1つをそれぞれ3分割したフィールではずんでいます。ドラムスとティンパニのロールが荘厳に唸らせる地面もなんのその、華麗な足さばきで転々と脱皮する地殻を己のダンスに取り入れる余裕ぶり。ボトルネック奏法のエレキギターのブルースフィーリングも折衷が図られます。トラディショナル、フォーク、クラシック、ブルース、ロック、ヒップホップ……多様な音楽ジャンルの語彙が競うように沿道にひしめきます。まさにアルバムきっての“変奏パレード”。ハイライトシーンです。
この間奏では、ドラムが強調する移勢のリズムが前半と後半で位置が変わっています(変奏ポインツ!)。前半は4拍目ウラだった食いのリズムが、後半は2拍目ウラになっています。
山田周さんパートにかこつけて加えると、本楽曲のイントロのヴァイオリンの音色はコル・レーニョと呼び、弓の背(馬の毛の部分でなく木の部分)で弦をトンと叩くように鳴らす特殊奏法(変奏……)です。「ピンッ、カチャリン!」といった注意をひく効果的なサウンドにご注目(ご注耳)。楽曲が孕む多様なわくわくの種を一瞬で予言する千金サウンドです。昔話をモチーフにしたおとぎ話が始まるみたいで素敵。
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エンディングは“はじまり” これはフィクションなんかじゃない
ⅠとⅤ(AとEのコード)のみで、小さな単位のカデンツ(機能和声上の文章の句点から句点)を連ね、たった一行“これはフィクションなんかじゃない”。ここに来て、既出のヴァースやコーラス、ブリッジとは異なるセクションが現れます。家(Eメージャー調)を出て、世界中の村の人と出会いながらパレードしていたら、いつのまにか第二の故郷(Aメージャー調)を俺は獲得したようである……さぁこれからどこへ行こうか……どこへ行くもまっさらで、自由である……今はまだ宙吊りになっている未来(フィクション)を現実たらしめるべく、思い出未満の儚き夢に出会いに行こうぜ……といわんばかり。これはエンディングなんかじゃない……始まりなのです。

起源は未来 ~アルバム 儚くも美しき12の変奏 鑑賞記総括~
観念的な変奏にとどまらず、「作曲技法における実際的な“変奏”なのではないか」との仮説をチラチラとあてがいながら全曲を観察してきました(最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございます)。
変奏曲とは通常、変奏のもとになるオリジナル(すなわち変奏する前の主題)の提示が冒頭付近でなされる形式です。例えば『きらきら星変奏曲』であれば、飾りや変奏を施される前の姿のメロディ「ドードーソーソーラーラーソ……」から始まるといった具合に……。
その点どうでしょう、くるりの本アルバム『儚くも美しき12の変奏』がそうした特徴を備えているかと問えば、やはり厳格な変奏曲の様式とは異なっているとの解釈が妥当でしょう……そりゃそうだ、「変奏曲」だなんてひとことも言っていません。“…12の変奏”とだけ題しているのです。私が勝手に頓珍漢な仮説を立ててはしゃいでしまいました。
とはいえ、さも何か、すべての元手になる共通のかたちあるものが存在し、その形状・輪郭・質感の描写をあらゆる角度から、くるりの獲得してきた(あるいは獲得途上の)豊かな音楽上の手法やノウハウや道具や技術力を動員して試みた趣向……魂のエネルギー凝結を感じるのが本作の博識な魅力であり、心の海綿体に沁みる儚くも美しい手触りです。
本アルバムが印象づける、言語で表せるモチーフや観念、テーマはたくさん見出せます。旅・さすらい、記憶・思い出・回顧、季節、道・駅・線路、星・海・海(渡り)鳥、人生・労働・夢……歌詞にこれらが直接的に含まれていることもあれば、ひとえに私にその観念を想起させる表現であるという意味合いを含みます。
こうした音を生むかけら、音へと分化する万能細胞たちが、びっちりと何かひとつの巨大なものにひっついている……その本体こそが本アルバムが12の楽曲で描写すなわち“変奏”を試みた主題なのだと思います。
先述したように、通常“変奏”の観念には元になる主題の提示がありますが、実はその起源の具体の提示が宙吊りになっているのが、本作が何より痛快かつ神秘的でミステリアスで儚く美しく、私を惹き付けてやまない謎なのだと思います。
思い出≒主題の構図
また、本作が私に強く印象づけるテーマの最たる一つはずばり「思い出」です。
思い出は通常、振り返った点に存在するもの……端的にいえば過去です。胸のなかに常に(あなたと共に)ある、とも解釈できるでしょう。
ものは考え方で、自己啓発力の高い人は、物事を未来から先に決めるといいます。達成したいこと・実現したいことを掲げ、そのために必要なタスクを逆算して、現在から順に近い未来・遠い未来へと行動を実践していくのだそうです。私にそこまでの計画力と強靭な理性・体力が備わっているかは別ですが……。
つまり、思い出は実は未来にもぶら下がっているのです。その具体を精密に細部までイメージして、その具体に現実を近づけるために私やあなたは日々の行動を選ぶことが(ある程度)できます。思い出≒主題の構図が浮かんできます。
そして何より面白いのが、そこに未知数が加わる点です。意志と外的要因のハーモニー、その結果としての変奏ですね。
くるりが今回のアルバムで試みた変奏は、私が思うに、主題すらも成長・進化・経過の途中なのです。まるで「未来に起源がある」みたいではありませんか?
進行中で、常に経過している一帯を作品の冒頭に提示することは難しいでしょうし、仮に出来たとしてもただの「変奏曲」になるだけです(……あるいは一般的な「変奏曲」の趣向さえも変奏しているのかもしれませんね……ヘリクツ?)。
ところで通常、未来は無限の可能性に向けてひらいていくイメージがつきまとうと思います。
しかし、先に述べたように未来から先に決める論理でいえば、それは逆なのかもしれません。
得体の知れない主題の究明に向けて、一か所でもいいからその質感を明らかにする行動をとること、その成果を毎日ごく小さくてもいいからあげ続けること……その積み重ねで、鋭く一点に収束する主題に向かって行く意志……もし本アルバムに「内省的」とする評があるとしたら、そうした態度を客観的に観測した人の感想なのかもしれません。
起源は未来にあり。進行・経過中の主題をあなたなりのやり方と思いをコンパス(方位磁針)に、だれもが日々変奏しているのです(……思い出の単線をガタゴトと更新しながら……)。くるりが誠実に取り組んだ12通りの儚くも美しき結晶を透かして、あなただけの主題を垣間見てください。
青沼詩郎

くるりの15番目のオリジナルアルバム『儚くも美しき12の変奏』(2026年2月11日リリース)
くるりの15番目のオリジナルアルバム『儚くも美しき12の変奏』アナログ:2026年3月25日発売